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そろそろホントのことを言おう 日本のコミュニケーションのワンパターンさにはうんざりだ!

日本に住む私たちのコミュニケーションのワンパターンさ加減と、それを変えるだけの力を持ち合わせない自分自身に本当にガッカリしている。

1992年、アメリカで高校2年間を過ごした私は希望に満ちて日本に戻ってきた。

アメリカで学んだことは「自分の人生は自分で決める 思えば成せる」ということであり、人と関わるときには好奇心を持ち相手の言葉を「それいいね。興味ある。もっと聞かせて」と聴き、承認し、興味を示し、更に聴くことで相手の可能性を育てること。それを社会ぐるみでやることで、アメリカンドリームはこれまで時代を問わず成されてきた。これがいわゆる「育む社会」。

私もようやく、大人としてその社会に出れる時期が来たとワクワクしていた。

そんな「育む社会」に身を置くことにワクワクしていた矢先、バブルが崩壊し私は親からの資金提供が途絶え、日本に帰国しなくてはいけなくなった。

日本に帰国した私はアメリカの高卒で、日本で言えば高校中退。建築現場の職人の下っ端という仕事しか得られなかった。望む仕事ではなかった。

そんな環境の中でも、私は負けず腐らずに「夢をありありと」語った。しかし、私が語れば語るほど、周りの人にこう諭された。いや、どやされた。

「夢なんて叶うわけ無いだろ、そんなこと言ってないで言われてたとおり仕事しろ。オレの言った通りやれ。やれないなら殺す」

結局、ネットで検索なんてできない時代には、上役の言うことを聞き入れるしか生きるすべがなく、渋々受け入れ、自分を殺し、生きる場所を確保し、給料をもらうしかなかった。自分にとっては魂を売るような苦しい経験だった。
それが私の社会人人生の始まりだ。
そこから這い上がり、今の自分まで成長する中で、本当にわだかまっているのはこのことだ↓

日本に住む私達のコミュニケーションの大半は「勝手に解釈して助言する」こと。例えば「私は将来ピアニストになりたい」と誰かが言ったなら、それに対してこんな返し方をする。

「お前の今の成績だと無理だね」
「それなら音大に行ったらいいよ」
「オレの知り合いもピアニストだけど生活厳しそうだよ」
「私も昔そんな夢、あったなぁ、若いっていいなぁ」

こういう「勝手に解釈して助言する」ばっかりが横行するから、私たちは魂レベルから湧き溢れるような夢を語り、育てることができないのである、というのが私の社会に出てから今まで生きてきての見解。

英語で言うならFuck Off!!という話で、You don't decide for me, I decide!という話。つまり日本語だと、そんなの余計なお世話であり、勝手に決めんな!という話である。
本当に本当に余計なお世話であり、私の中に土足で踏み込んでくる無配慮さに閉口する。ヘドが出る。

私たちはもっと相手の「個」を本当に本当に大切にし、この「個」を「共に育む」ための「やさしい会話」を身につけることの大切さに気づくべきではないか。日本の今に最も必要なのはそのこと。そのことより大事なことなんて私の中では一切思いつかない。

そして、そんな熱量で身を注いで活動をしている「つもり」でいる自分の無力さには、ほとほと嫌気がさす。
ずっと取り組んでいるし、広く知れ渡ってほしいことだが、私にはなぜだろう、その広げる力が足りない。本当にわだかまる。自分にガッカリだ。怒りがこみ上げて止まらない。

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