見出し画像

甲子園と箱根駅伝

あの日見た彼らは全力だった

僕が小学生の頃、夏休みになると閉め切った部屋の中まで蝉の声が響いてきた。
昔から出不精だった僕は、灼熱の猛暑に耐えかねて遊びに出かけることもせずに、空調の効いた部屋でよくテレビを見ながら自堕落に過ごしていたことを思い出す。
テレビに映るのは短く刈り込んだ坊主頭にこんがりと焼けた肌がよく似合う、揃いのユニフォームを着た若者たちの姿だった。燦々と照りつける夏の陽射しを浴びながら、とても遊びとは思えない真剣な眼をして白球を投げたり打ったり追いかけたりしていた。アルプススタンドと呼ばれる客席で祈るような表情をして試合を見つめる応援団の女の子たちの姿も画面には映し出されていた。
2時間を超える中継は子どもには退屈で、チラと見てはチャンネルを変えるかテレビゲームに興じた。ただ、子ども心にも中継に映し出される彼らがなにかを目指して必死に頑張っていることだけは伝わった。
敗れたチームの若者は何故か持参した袋に球場の土を入れはじめ、周囲はその光景を待ち侘びていたかのように一斉にフラッシュを焚いた。

冬休みに入り、元旦の次の日になると毎年父親が熱心にテレビを見ていた。
極寒の冷気に耐えかねて遊びに出かけることもせずに、コタツに入って暖をとりながら何の気なく一緒に見ていると、そこには懸命に走る若者たちが映っていた。
それぞれ色違いのユニフォームを着た若者たちは、冬の厳しい寒さをものともせずノースリーブに短パンの見てるこちらが寒くなってくる薄着で全力で道路を駆け抜け競い合っていた。
若者が走ってる最中に沿道からは声援が止むことなく飛び続け、道の途中で待ち受ける揃いのユニフォームを着た次の走者は大声で呼びかけている。走り続けてきた若者は肩からかけたタスキを次の走者に渡すと、精も根も尽き果てた様子でその場に倒れ込んだ。
意識も朦朧として倒れ込む若者が仲間に担がれて運ばれていく姿を、カメラは執拗に撮り続けていた。

甲子園と箱根駅伝。日本の夏と冬の風物詩にさえなっているこの二つの国民的競技に、僕が違和感を覚えたのはいつからだっただろう。中学生か、遅くとも高校生になる頃には、僕は甲子園と箱根駅伝に違和感を覚えていたと思う。
仲間のため、チームのために全力を賭してプレーする選手たちはもちろん尊い。協調性皆無の僕には真似できない、彼らの真っ直ぐな生き方が羨ましくさえ感じたこともある。
僕も彼らのように、仲間たちと目標を共有して一緒に笑い合い支え合いながら努力する青春を送れる性格だったら、こんなに生きづらい人生ではなかったのだろうとは今でも思う。
……いや、まあなりたくはないか。

***

ステレオタイプな感動ポルノ

感動ポルノという言葉がある。
元々は、困難なことにも負けずに頑張ってる身体障害者をコンテンツとして担ぎ上げて視聴者の同情を誘い、安っぽい感動を意図して作られた企画を揶揄する言葉だ。
感動ポルノに対する批判の声として、ステレオタイプな障害者像を作り上げ、社会的弱者や生活困難者がわかりやすい努力や挑戦を通して視聴者の感動を生む姿を求められることが挙げられる。
僕が小学四年生の時、乙武洋匡さん著の『五体不満足』が出版された。当時クラスの担任だった先生が教室でこの本を紹介したことを憶えている。
※確認したら1998年出版で、やっぱり僕が小学四年生の頃で合ってた。さすがの記憶力だぜ(笑)
先生は熱を込めて乙武さんがいかに素晴らしい人か、障害に負けず努力する姿勢がいかに尊いことかを生徒に説いていた。
生徒はみな先生の話を興味津々に聞き、クラス文庫にその本が置かれると誰が一番に借りるかで揉めに揉めるほど『五体不満足』は注目の的になった。
乙武さんの手足が一つもない姿は子どもながらに衝撃的で、それでも勉強して早稲田大学に進学したことや短い手足で懸命に走ったり球技に興じたりする姿は多くの人の同情を誘い、感動を与えるのに十分だった。
明らかに自分よりも大変な境遇の人が頑張っている姿を見ると、恵まれた境遇に感謝して自分ももっと頑張らなくちゃという気持ちにさせてもらえる。その安直に導かれた感情が、いつしか画一化した障害者像を作り上げてしまうことに気がついたのは、随分と経ってからだった。

24時間テレビでは絵になる障害者ばかりが取り上げられてスポーツなどのわかりやすい分野に挑戦する姿が映し出された。100キロマラソンでは芸能人が足の痛みに耐えながらフラフラになってスタジオを目指した。
今でこそネットの普及により批判の声がよく耳に届くようになったけど、当時は批判も聞こえず「感動した」「泣いた」とかばかりの声が取り上げられた。その様子に、思春期を迎える頃には違和感を覚えた。
「障害がある人の方が偉いの?」
率直に、そう思った。山登りだってスポーツだって僕もできる。障害を抱えて苦しみながら山に登る人はスイスイ登っていく人よりも偉いのか? なぜ彼らばかりを特別扱いするのか。
スタジオでは小綺麗に着飾った女性タレントが涙ぐみながら泥だらけになって頑張る障害者に拍手を送る。自分は土埃一つつけずに綺麗な顔をして、まるで中世ヨーロッパの貴婦人が憐れみながら民衆にささやかな施しを与えるような、社会的強者が遥か高いところから社会的弱者を同情するように見えた。
傲慢な同情心をくすぐられて自分を善人だと思える浅はかな感動ポルノが、ハッキリと僕の中で嫌悪の対象となった。
ああいうコンテンツに「感動した」とか臆面もなく言える人(バカな女に多い)にも同様の嫌悪感を抱いた。

***

自己犠牲の美学を押し付けられた球児たち

さて甲子園。なぜわざわざ真夏の炎天下に外で試合をさせるのかと声が上がっていた。
言われてみればもっともだ。いくら鍛えられ暑さに慣れているとはいえ、少年たちを熱中症の危険が伴う炎天下の中で何時間も試合をさせるのはどうなのだろう。
別の屋内球場でやればいいのではないか、季節や時間を変えればいいのではないか、との声もあった。それに反対する意見が元高校球児からも多く寄せられ、「みんな夏の甲子園を目指してるんだよ」と口々に言う。高校野球といえば甲子園、それは小学生でもわかる日本の常識だ。しかしその強くなりすぎたブランディングは、思考停止を誘因してはいないだろうか。

また、ピッチャーは肩や肘を酷使するのではないかと前々から言われている。2020年にやっと投球制限が設けられ、ピッチャーは1週間に500球までとなった。メジャーリーグの場合、ピッチャーの投球制限が1試合100球以内で中4日の間隔でローテーションだから、比較すると甲子園球児の1週間に500球はそれでもかなり多いことがわかる。野球素人なので迂闊なことは言えないが、メジャーリーガーでさえ1週間に200球程度で抑えているのに身体が出来上がってない高校球児が500球投げるのは身体への負担が大きいんじゃないか。それでさえたった3年前に決まったルールだ。
球児たちの投げたい気持ちはわかる。ほとんどの球児にとって甲子園は憧れの舞台で、勝つことが全てで、将来よりも今が大切なんだと思ってることだろう。
だからこそ、巨大化しすぎたコンテンツに絡む利益を手放してでも、大人は子どもたちの将来につながるルールを制定しなければいけないと思う。

何度でも言うが、全力でプレーする甲子園球児たちの直向きな努力や一生懸命な姿はもちろん尊い。けれどその一部は、大人によって作為的に作られた情熱に感じる。
なぜ甲子園でなければいけないのだろう。なぜ負けると土を持ち帰るんだろう。そこにある感情は、本当に君たちのものなのか?

敗れた甲子園球児が土を集める様子と、
それに群がりシャッターを切るカメラマンたち

……いやこれ、気持ち悪すぎるでしょ。
このシーンがよく映し出されて甲子園中継のお約束になってるのは、ここに安い感動ポルノがあるからだろう。
まだ社会を知らない坊主頭の子どもたちが、チーム一丸となって目の前のことに全力で取り組み、負けて全員で号泣しながら甲子園の土をかき集める姿はさぞかし世の中高年たちの同情を誘うのだろう。ああ、キッショい。

日本は同調圧力の国だ。甲子園がウケるのもわかる気がする。これがサッカーやバスケなら中高年のハートを掴むことはできないだろう。個人競技なら尚更だ。
坊主頭がいいのだ。炎天下だからいいのだ。泥だらけのユニフォームがいいのだ。チームのために身を粉にして奮起する姿が感動するのだ。競技性ではなく犠牲性に心打たれているのだ。
……なんだか特攻隊賛美に近いものを感じる。

***

多様性を奪う定められた美徳

箱根駅伝は、大学ごとに一つのタスキを繋いでいき先頭でのゴールを目指す。
誰かが遅れればチーム全体の遅れとなるから走る責任は重大だ。もし一人でも途中棄権してしまうようであれば、それはチームの失格を意味する。
それもあってか、ランナーは意地でもタスキを次の走者に繋げようと必死で走る。体調不良なのか足元がおぼつかずとても次の中継地点まで辿り着けそうにないランナーを見て、棄権させようと監督車から手を伸ばす監督を拒否してフラフラと避けるランナーの姿はスポーツニュースで大きく報道される。
翌日のドキュメンタリーでは棄権したランナーの無念の表情や仲間たちへ号泣しながら懺悔する姿が長尺で扱われる。
箱根駅伝もう一つのドラマと題された光景は、視聴者の同情を誘う安い感動ポルノだ。

また、タスキを繋げたランナーも、繋げるや否やすぐさまその場に倒れ込む。たった今までハイペースで走り続けていたのに倒れるほど力を使い果たしてしまったのだろうか。もし中継地点が数100メート先だったら繋がんなかったのかな?
穿った見方をしてしまうが、まあ僕が捻くれてるから思うのかもしれないけど倒れ込むことが様式美になってないか?
その証拠に、ケニア人留学生らはタスキを繋げても倒れ込んだりしないらしい(笑)
彼らの方が速く走ってるのにね。

ランナーが倒れ込むシーンは必ず映し出される

箱根駅伝は学生ランナー憧れの舞台だろう。
ただその憧れは、なぜ生まれた感情なのだろう。幼い頃から正月にテレビで見て、倒れ込むまで走り抜く若者を称賛する家族や親戚を見て、いつしか自分もこの舞台に立とうと思い夢叶った時、刷り込まれてきた様式美を無意識におこなってしまってないだろうか。

頑張ることは美徳だ。困難に立ち向かうことも、仲間たちで一丸となることも、目標に挑戦することも素晴らしい。けどそれがステレオタイプな人物像の形成になってはいけないだろう。
乙武さんは、世間から求められる障害者像に苦しめられたという。品行方正、努力の人、泣き言や恨み言を一切言わずに辛く苦しい境遇を明るく生き抜く太陽のような人、そんな障害者しか求めないのは健常者の歪んだ高慢さだ。彼らはお前らを感動させるために生きてるわけじゃない。安い感動を啜って生きる偽善者どもめ。

個性が溢れるプロ野球選手とは対照的に、個性を奪われ同一の美徳のみを求められてる甲子園球児からは多様性をあまり感じない。その彼らの未来がプロ野球選手なのだから、余計に違和感がある。
共に喜び、共に泣き、共に頑張るチームスポーツの最たる象徴である甲子園や箱根駅伝を多くの日本人が好むのも無理はない。それ自体は否定しない(だいぶ否定してる気もするけど)
ただステレオタイプの人物像を勝手に他人に求め、思考停止したまま大舞台を作り上げて、多様性を失わせ同調圧力で個性を殺す社会の片鱗を垣間見る思いがするのもまた事実だ。

今年の夏は異例の暑さだ。甲子園に出る球児も、応援に駆り出される生徒たちも、楽しみに観に行く観客も、くれぐれも熱中症にならないよう気をつけて欲しい。
8月9日は長崎に原爆が落とされた日だ。もうすぐ終戦記念日がくる。一億玉砕の精神はもう必要ない。人それぞれ自分の好む姿で、自分らしく生きていける平和な世界になることを願っている。

この記事が参加している募集

多様性を考える

高校野球を語ろう

サポートしていただくと泣いて喜びます! そしてたくさん書き続けることができますので何卒ご支援をよろしくお願い致します。