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意思を貫く

言いたいことも言えないこんな世の中じゃ♪
と歌ったのは反町隆史だったけど、あれから20年以上経って世紀が変わっても年号が変わっても、言いたいことも言えない世の中であることはどうやら変わらないらしい。
むしろどんどん発言への規制は厳しくなっている。誰でもお手軽に自身の発言を世の中へと放つことができる今の時代だからこそ、誰もが厳しく他人の失言を探して目を光らせる。

俺は俺をだますことなく生きてゆく♪
と続く歌詞のように自分に正直に生きることは、これからの時代ますます困難になるだろう。
それでもあえて、わざわざ困難な道を選んで言いたいことを言う必要はあるのだろうか。歌は現実になれないのだろうか。僕は反町隆史になれないのだろうか(それはなれない)

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先日、僕はペット業界と自身が働いていたペットショップについて見てきた事実そのままを書いたところ、上長に呼び出され自主退職という形で退職することになった。
あれは後から思うと、退職勧奨というものだった。
(その記事はこちら)

多分これがSNSが発達する前の時代なら、あるいはSNSを通じて発信しなければ、僕が自分の思うことを内情を含めて周りに言おうが会社の人に伝わることもなく、なにも咎められることはなかっただろう。
幸か不幸か、大勢の人に向けて発言できるSNSというツールを利用したことで僕は職を失った。
僕は独身で一人暮らしだし、本業(というか夢)がプロボクサーで生活のために仕事もしようという感じだから、退職勧奨を受けて仕事を辞めたことは人生に関わるような痛手ではないけれど、守るべき家族や立場がある人にとっては致命傷になる話だと思う。
これでは歌詞の通り、言いたいことも言えない世の中だと強く感じる。

この話を周りの人にしたら反応は様々だった。
「働いてる企業のマイナスになる発言をSNSでしたら問題になるのは当たり前だよ」
「事実だけどデリケートな問題だから、会社として言えないこともあるんだよ」
「営利団体なんだから嘘もつくし、それを給料貰ってる奴が文句言ったらおかしいだろ」
というような答えが返ってくると、自分の世間知らずさを実感した。僕のしたことがアホで企業の対応は当たり前というような返答をしたのはだいたいが僕より立派に社会人を務めてる人だ。一端の社会人からすれば至極当然なことなのかもしれない。
「なにそれ? 事実書かれて呼び出して文句を言うとかヤクザじゃん」
「やましいことしてるって認めてるようなもんだな」
「言論の自由もあるし、企業名出してないのに問題にする意味がわからんわ」
と僕を肯定してくれる人も中にはいた。
僕に肯定的な意見をしてくれる人は、どちらかというと社会人ぽくない人の方が多かった。
やっぱり世の中は、言いたいことを言えないものらしい。

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もし僕に家庭があって、本職で働いてる業界に対して言いたいことがあったらどうだろう。
発言によって職を失うことになっても、家族を養う保証がなくなってしまっても、僕は言いたいことを言えるだろうか。
多分、いやきっと、僕も言えないだろう。
今回の件であれば、「どうせ俺が言っても何も変わらないし」と心を納得させて、口をつぐむだろう。
だから僕は誰も人を責める気にはなれない。言いたいことを言えない世の中が悪いのだ。言えない人を責める気にはなれない。
人それぞれ立場が違うし、思想に対する熱量も違うし、どんな立場でもブレずに意思を貫ける勇者は中々いないと思う。

ほかに守るべきものがあって言えないのなら、それもステキなことだと思う。自分の思いよりも大切な存在があるだなんてとってもステキだ。
儚く消えてしまう命の時間の中で、自分の命よりも大切に思えるものを見つけること以上にステキなこともないでしょう。
見て見ぬ振りに映ったって、事なかれ主義だと揶揄されたって、人それぞれ事情はあるのだから責めることはできない。
自分は自分だし、人は人なのだ。

気持ちに蓋をして生きていく方が楽だと思う。
なんでもかんでも口にしたら生きていけない時もあるし困る相手もいるでしょう。
『猫のお寺の知恩さん』という漫画の台詞が話題になっているらしい。その漫画自体は読んだことがないのだが、その台詞にはとても共感した。

どんなに良い人間でも、
きちんとがんばっていれば、
誰かの物語では悪役になる

こういうことなのだろう。
思いを口にすれば、それは敵をつくるに決まっているのだ。
敵をつくらず、言いたいことを言わず思わず、大人しく従順に、課せられた仕事を疑わずにこなすことが、この世の中で賢く生きるコツなのかもしれない。
穏やかに過ごすためには、言いたい気持ちに蓋をしよう。

だけど、それだけでいいのだろうか。
一体、なんのために生まれてきたのだろうか。

***

僕らは世の中のために生まれてきたわけじゃない。あなたはあなたの、僕は僕の物語の主人公であるはずだ。
それは他の誰かからすれば、取るに足らない砂漠の砂粒に過ぎないだろう。無限に広がる砂漠の中のたった一粒で、代わりになる砂粒は無限にあるし消えても誰も気づかない。けれど、それでも確かにその砂粒は、その一粒しか存在しない。
儚く消える存在だからこそ、そうであるからこそ、思いの丈を吐き出しておきたいと僕は思う。明日死ぬかもしれないのだから。

「たとえ死んでも」と思えるものをいくつ見つけられるかが人生の豊かさなんじゃないか。
死までいかなくとも、「たとえ損しても」「たとえ傷ついても」「たとえ敵をつくっても」それでも貫けるものがある人はカッコいいと思う。
その何かは人によって違うでしょう。家族であり、恋人であり、夢であり、美学であり、正義であったりすると思う。
僕はそんな何かのために生きていきたい。
だから今回、言いたいことを言ってよかった。

貫ける意思の強さが、その人の人生の重さなのかもしれない。
言いたいことをなかなか言えないこんな世の中でも、意思を貫けるような生き方をしたい。

***

PS.そんなことを、POISONを聴きながら考えてました。

真っ直ぐ向き合う現実に
誇りを持つために
戦うことも必要なのさ♪


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