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生きる必要がない世界で、生きていく理由はなんだろう?

ずっと生きる理由を探してきた

僕は最近ずっと、生きる理由を探している気がする。別に希死念慮があるわけじゃないし、生きることに無気力なわけでもない。ただ、ある種の不文律として絶対的な価値観とされている「死んだらいけない」とか「何があっても生きていくべき」という倫理観について、盲信せずに自分の頭で真剣に考えてみたいのだ。
本当に、この世界で生きていく必要があるのだろうか。

哲学者ハイデガーは人間の運命を被投性と称した。自分自身という現存在は、一切の己の意思を介在されずに否が応でも条件を決定されて世界へと投げ込まれた。時代、環境、種族、容姿、能力、性別。全ての生命はあらゆる条件を決められて自分と世界を受け入れて生きていくことになる。疑う暇もなく流れゆく時の中で、その身に死が訪れるまで生を全うする。それが生命の自然な営みだ。
生きていくための理由を考える前に、死にたくないからただ必死に生き抜いていく。そんな自然な生に疑問を挟みあれこれ考える余裕が、現代日本では僕のような碌に社会貢献をしていない社会不適合者ですらあるのだから、毎日安心安全な暮らしができる日本人に生まれた恩恵は凄まじい。
宿儺じゃないけど「贅沢者め」と言いたくなる話だ。しかし過剰に膨れ上がった現代人の自意識の例に漏れず、僕はただ生きる以上の理由を人生に求めてしまうようだ。

生きる理由について、現実をどう解釈してどんな結論を出すかは人によって違うだろう。ある人は生きる理由を、大切な人を守るためだと答える。あるいは死んだら大切な人が悲しむからだとも言うだろう。自殺防止系の啓発運動ではそれらの理由が頻繁に使われている印象がある。一見良いことを言ってる風に聞こえるけど、それだと誰からも相手にされない人の命には価値がないということになる。大勢のファンに囲まれる有名人の命には価値があり、身寄りのない独居老人の命には価値がないことになる。社会的価値に左右される命の価値は優生思想を肯定している。少なくとも僕はそんな、外発的動機を生きる理由にしたくない。

無名の知り合いが有名になった例を近くで見てきた。僕と同等だったはずの彼らの命の価値は、メディアを通して跳ね上がったのだろうか?
あるいは家族に溺愛されるペットの命と、食肉にされるためだけに生産された家畜の命とでは、生まれながらに命の価値が違うのだろうか?
仮に世間ではそうだとしても、僕は命をそんな風には見たくない。人間も金も社会も神ではないはずだ。命の価値をジャッジする資格なんて誰にもない。その論理を飛躍させれば、個体数が少ない種に生まれた貴重な命には価値があり個体数が多い種に生まれついた命には価値がないという理屈にもなる。そうなると80億もいる人間の命の価値は極めて下がる。人間が作り出した社会的価値が人間自身を否定するのは皮肉な話じゃないか。

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生きる理由は未来に見出せるのか

現在世界には80億の人々が暮らしている。
ホモ・サピエンス出現から約20万年。我々人類は緩やかにその数を増やしていったわけではないことがデータを見れば一目でわかる。産業革命を機に爆発的に増えた世界人口によって、現在世界中で様々な影響が起きている。

本当は人間の知能なんてたかが知れている。生物学的にも人間はチンパンジーと1〜2%程度の遺伝子の違いしかない。
およそ20万年の人類史のほとんどは原始生活を送っているし、今も未開の地で暮らす部族は原始生活だ。我々現代人の知能もまた、彼らとそう変わらない。ではなぜ人類が地球の支配者となり、全生命の未来を左右するほど圧倒的な存在になり得たのかというと、文化を築いたからだろう。情報を文字にして残し、文明を発達させていくことによって、長い年月を経て他種と大きな隔たりが生まれた。歴史による文化の蓄積は、幸か不幸か人類を地球全体の命運を握る位置にまで押し上げた。
本来は人間の知能なんて、他種が持つ爪や牙や羽のような一つの武器に過ぎなかったのだが、知恵と知識を次世代へと受け継ぐ術を手に入れたことで人類は地球の覇権を握った。

しかし築かれた高度な文明力に個の思考が追いついていないことで、世界中で様々な問題を引き起こしている。
破壊は創造よりも遥かに易しい。何十年と生きて今この場に立っている目の前の人間をモノの数分で殺めることだって出来るし、人類は生物多様性の重要性と緻密なバランスを理解するよりも、それらを崩壊させる力を先に手に入れてしまった。積み木は作るよりも壊す方が簡単なんだ。

目下、僕の最大の関心事は環境問題だ。この問題は今後ますます顕在化していき、次世代を生きる子ども達は世界規模の危機に直面するだろう。大人達は問題を未来に丸投げして、好き勝手に人生を謳歌してはこの世を去ることになりそうだ。
ああ、なんて罪深いのだろうか。

チンパンジー………約15〜30万頭
キリン………………約10万頭以下
オランウータン……約60000頭
アジアゾウ…………約3〜5万頭
ゴリラ………………約40000頭
ライオン……………約30000頭
サイ…………………約27000頭
ホッキョクグマ……約26000頭
チーター……………約7100頭
ヒグマ………………約3000頭
トラ…………………約3000頭
ヒョウ………………約950頭

有名な哺乳類の個体数をざっと調べてみたけど、誰もが知ってる動物達は現在、こんなにも数が少なくなっているのだ。わずか半世紀の間に、野生動物の生息数は三分の一以下にまで減少したという。人類の業の深さよ。
絶滅、まではしないのかも知れない。わずか数万の個体数であれば世界各国の動物愛護団体が保護するだけの資金や人員は確保できるだろう。しかしただのお飾りのような個体数では生物多様性を担ってるとは到底言い難く、バランスの崩壊はいずれ人類の存続にも危機を及ぼす。

環境問題について、身の丈に合わない壮大な問題だけど考えないわけにはいかない。しかし一体どうすればいいのだろう。
全人類の命題である環境問題について、個々人が環境保護活動に取り組むよりも人類が絶滅した方が地球環境は回復するだろうと、自然科学の研究者は述べている。80億にまで膨れ上がった世界人口を鑑みれば、それは残念ながら事実なのだろう。
僕は動物愛護と環境保護のために菜食主義者になったが、そんなことをするよりもさっさと死んだ方が地球環境のためになるのが現実だ。
でも、「じゃあ死ねよ」と言われても僕だって死にたくはない。理想だ信念だ命を懸けるだと口で言うのは簡単だけど、最善の行為が死ぬことしか残されていないとしたって死を実行できないのだから、偉そうなことは言えないのだ。
社会的価値の一切を奪われても、生きていくのが人生じゃないか。死にたくないから生きていくんですよ。

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個と群の狭間を揺らめいて

人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限をダンバー数といい、その数はおよそ150人とされる。しかし高度にネットワークが発展して国際化が進む今日の世界では、それをゆうに超える人間や社会と接していくことになる。
地球環境とか人類の未来なんてお構いなしに目の前のことに必死に取り組んで日々を過ごすのが生の本質なのだろうけど、様々な社会問題が顕在化した複雑な現代では150人どころか80億人が住まう地球全体の未来を一人一人が考えていかなくては、次世代にあたる今の子ども達にとっては、どうにも立ち行かない未来が訪れそうだ。

誰もが個と群の心理的不均衡を抱えている。現代社会が個の時代と呼ばれるのも、ダンバー数をゆうに超えて広がった社会活動に人間の心理が反発を引き起こしているからじゃないだろうか。
人は被投性の運命に偏愛と諦念を抱いて、個と群の狭間を揺らめいて生を営んでゆく。

社会のことばかり考えていたら、一体なんのために生きているのかわからなくなる。僕は幼い頃、何に憧れてきたのだろうか。
安全な場所から平和を訴える太った中年が醜く見えて、身体を張って危険な世界に身を投じる人間に憧れた。
平和な世界で倫理は肥えた。遠くの悲鳴は聞こえない場所で、流れた血が水に変わって辿り着く麓で、誰一人傷つかない安らかな土壌で、豊満な体を揺らしながら善人がにっこりと笑う。
そんな平和は嘘だろう? 皿の上のステーキからは生と死が混在する世界のリアルと残酷さがすっかり拭い去られている。
僕は自分が理屈屋で運動嫌いな頭でっかちの人間だと知っていたから、自分にはないものを求めて、生のリアルを置き去りにしてしまわないようにボクシングを始めてずっと殴り合ってきた気がする。

心理学に、内発的動機付けと外発的動機付けという用語がある。内発的動機付けとは、物事に対する強い興味や探求心など、人の内面的な要因によって生まれる動機付けを意味する言葉で、対して外発的動機付けとは、報酬や評価、罰則や懲罰といった、外部からの働きかけによる動機付けを意味する言葉らしい。
僕はひたすらに内発を探し求めて生きてきた。愛さえもエゴになるのなら、外の世界に生きる理由を見つけるよりも内から見つけないと生きていけないじゃないか。

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再びのリングへ

実は3月の試合に負けて引退すると決めたんだけど、結局またやりたくなって試合に出ることにしてしまった。
引退詐欺をする格闘家は星の数ほどいるけれど、僕もその一人になってしまった。格闘技はそれほど中毒性が強い。
僕は決して、誓って試合が好きではないんだ。好戦的な性格ではないから、殴られたり蹴られたりするのが本当に怖い。それでも再びリングに戻ってきてしまったのは、生のリアルを感じたいからだろう。
試合に出ると決めると、毎日の食事や練習、睡眠まで意識が変わってくる。今日という日が明日に繋がるように、惰性ではない生活が続く。
……あとイケメンになってくる。肌艶が良くなるし、顔がシュッとするから(笑)

考えてみれば格闘技は、日時や場所を決められて初対面の人間と裸で殴り合えという世界だ。恐ろしいよね。
嘘や偽善、お世辞やハッタリが一切通用しないリングの上で、生身の自分を見せなきゃいけないからこそ人間が問われる。わずか数分から数十分の問いに答えるために、数ヶ月前から尽力する。
やればやるほど、リングの頂点に立つ選手を筆頭に格闘家全員へリスペクトの気持ちが湧いてくる。みんな凄えよ。

最初は11月に66kgで試合をする予定だったんだけど、10月の興行に出る選手の欠場により代役のオファーがきたから、反射的に了承してしまった。断れないお人好しだからね。
階級も過去最重量。前回の63kg級から大分増えて今回は67.5kg級。でも減量しないで済むのは好材料だと思った。自分が元気に動けるのが一番だからね。


対戦相手の名前を聞かされ、試合の動画を見る。
……強い。長身のサウスポーだ。秒殺勝ちが多く、爆発力が凄い。
ただ逆に、ガンガンきてくれるならカウンターのチャンスもある。長身サウスポーという最も嫌なタイプにありがちな、遠い間合いから蹴りまくられるよりは、打ち合いを好む相手の方が僕にとっては勝機があるだろう。
殺るか殺られるか。それこそ僕が格闘技に求めてきたことじゃないか。……怖いけど。

自分でまたやると決めておいて、試合が近づくと不安と恐怖からどんどん試合が嫌な気持ちになってくる。
「なんでわざわざまたやるんだろ?」
「今度こそ勝って最後にしよう」
何度も心に決意する。ただ、自分の殻を破りたかった。

減量の必要がなく、強くなるためだけに練習できるのでストレスが少ない。毎日体調も良く、身体がキレている。相手は強いけど、僕も過去一のコンディションで臨める期待があった。
キックボクシングを始めてから2年。不器用で運動音痴な自分でもやっと少し慣れて蹴りに対応できるようになってきた。
強い相手に万全の状態で挑む。臆する気持ちよりも自分を試したい気持ちが上回ってきた。
以前働いていた保育園に試合の紙を貼らせに行かせてもらった。試合は口実で、本当は子ども達と会いたかったからなんだけどね。
子どもは可愛いよ。この国の宝だな。

試合前日、計量の日。
対戦相手と並ぶと思ったよりもデカい。僕が177だから185くらいあるのかな。
フェイスオフをすると相手の気合いが伝わってきた。

計量を終えて家に帰ると、餅やご飯を食べる。
普段の体重とあまり変わらないから無理やり食べる必要もない。食事量はいつも通りを心がけた。
健康的で消化に良い炭水化物中心のメニューだ。

試合予定時間から逆算して、あと何時間かを考える。明日の今頃はもう試合が終わっているのだろう。勝負は時の運だ、悔いなく自分を出し尽くそう。
今までなら絶対思わないんだけど、今回は強い相手で良かったと心から思ってた。倒さなきゃ倒されると思うと覚悟が決まってくる。明日はぶっ倒してやろうと考えて眠りについた。
身を切るような切実なリアリティが、僕の心臓を揺さぶり続けていた。

趣味の世界には自分を脅かすものがない代わりに人生を揺るがすような出会いも発見もない。真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。
つまりそれらは "仕事" の中にしかない

村上龍

***

あの日たしかに僕は本気で生きていた

10月22日、試合当日。
電車で最寄り駅の新宿に向かう。試合会場は新宿フェイス、いわゆるトー横のど真ん中にある。駅から歩くと、街にいる若者が全員ティックトッカーに見えたぜ。

会場に着くと、リングチェックとドクターチェックを済ませる。あと渡し忘れていた契約書を当日渡した。
合流した会長からバンデージを巻いてもらい、ウォーミングアップを始める。この辺はもう慣れたものだ。僕の試合は第4試合だ。
不安と緊張の中で、闘志がメラメラと燃えていた。
そして自分の番が回ってきた。

欅坂46『サイレントマジョリティー』に乗って入場する。リングコールを受けて、ゴングが鳴った。

リング中央でグローブを合わせる。
まずはインローを出すが避けられる。相手は左ミドルを返してくる。腕を弾かれ、「重いな」と感じた。

その後も数発左ミドルを蹴られ、ガードはしているが蹴りの強さと距離の遠さを感じた。詰めてパンチを打つも届かない。
また相手が繰り出した左ミドルをガードしたところに、今度はすかさず左ストレートを打たれた。あんまり憶えてないけど、動画を見ると明らかに効いていた。

ふらつく僕に畳み掛けてきた相手の右フックをまともに貰い、横倒しになって倒れ込んだ。

すぐに立ち上がろうとするも、大きくふらついてレフェリーに止められてしまった。

1ラウンド、あっという間にKO負け。49秒だったかな。……だっさ。
調子も良くて気合いも入ってたのに、裏腹の最悪な結果だ。
相手が僕より強かった。受け入れるしかない。
思えば1ラウンドKO負けは、21歳の頃のボクシングプロデビュー戦以来だ。13年ぶりか。最初と最後が1ラウンドKO負けなんて、なんか僕らしくていいじゃないか。しかし短い時間だったけど、濃密な時間だった。生のリアルをしっかりと感じたよ。楽しかったな。

さすがにもう辞めよう。前回は減量が上手くいかず納得のいくパフォーマンスじゃなかったから、自分はまだやれるはずだという悔いが日が経つにつれて大きくなっていた。それでまた試合をすることにしたのだ。
ただ今回は体調も良く気合いも入っていたのにハッキリとKO負けしたのだから、死ぬほど悔しいけど自分のやってきたことに悔いはない。
来月には35歳になる。格闘技の世界には35歳限界説というのもあるし、ここを引き際にしよう。
他にやりたいこともある。小説家を目指すぞ。

試合に勝ってマイクで言いたかったことがある。発言権は勝者のものであるのが勝負の世界だから、負けてリングを降りた僕は言えなかったけど、まあここ(note)は勝負の世界じゃないから書いてもいいよね。
僕は勝って、環境問題について提言したかった。大好きな動物の未来に少しでも貢献していきたい。
自身が菜食主義者であることや、それでも強さと健康を維持できることを伝えたかった。

健康診断も異常なし

なにも僕は、菜食主義者が偉いとは一切思わない。外を歩けば虫を踏み潰し、顔を掻けば微生物を擦り潰し、野菜を生産する上で使う肥料や農薬だって多くの虫を殺しているだろう。また、ボクシンググローブは牛革製だからヴィーガンとも呼べないだろう。
前述の通り、個々人が環境保護活動に取り組むよりも人類が絶滅した方が地球環境は回復するのが現実なのだから、自身がヴィーガンやベジタリアンだといって自分は地球や動物に優しい人間だという顔をして他者を責める人間はどうしても好きになれないし、その認識は正しくないとも思う。
要するに、みんな生活する以上ゴミを出すけど、ポイ捨てはしないようにしましょう、なるべくキチンと分別しましょう、みたいな感覚だ。ゴミを出さない人間になるには死ぬ以外にないけど、死にたくはないんだから、自分のエゴで生きる以上は偉そうな顔はできないよね。ただ少しでも、環境問題について考えるキッカケに僕がなれればいい。

……あー、勝って言いたかったなぁ。
ま、これからも思うようにいかない人生を楽しみますか!

試合まで関わってくれた全ての人に感謝!

Tシャツのデザイン

A man can live and be healthy without killing animals for food.
(人間は食べ物のために動物を殺すことなく生きることができるし、健康にもなれる)

レフ・トルストイ

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