祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#1
「ある母の道」
父の出征後、この母の戦と戦争の惨めさを孫達に知ってもらいたくて拙いペンを取りました。
中西ハル子
大きな、おなかをかかえて一夏を過し、暑い、暑いといっていたのが、少し涼しくなりかけた九月二十七日の夕方、七時半頃、女の子が生まれた。
しばらくすると、又一人女の子が出た。双子である。
後の子供は生れたと云うより産婆さんが腹をおさえておし出した様な気がした。
私は、頭がふわふわとしていて赤坊が生れたのもよくわからなかった。
当時、隣の家に夫の次兄夫婦が住んでいた。この義兄は、広島県の三原市に有る帝国人絹なる会社に勤めていたが、召集により、岩国の隣町、大竹の海兵団に勤務し、兵曹長という階級であった。
この兵曹長はどの程度えらいのか知らないが、海兵団の宿舎に住まず、民家を借りて、朝出掛けて行き、夕方に帰って来ると云う勤め方をしていた。
この夫婦には子供が無いので、次女の良子を養女にする約束をしていた。しかし、良子は幼くして死んだのでこの約束は履行されなかった。
こんな、間柄の次兄夫婦なので、お産を心配して家に来ていた義姉が、後に話をしてくれたのでは、始めの子は、産婆さんが手をかさずとも一人で生れたが、二度目は、産婆さんが胃の上の方を、おさえると白い足がニューと二本出た。それを産婆さんがスーと引っぱり出した。義姉は蛙かと思った、と笑って話していた。
出た赤坊は泣きもせず、血色もよくなかった。産婆さんは、逆様にして体をぱたぱたとしばらく手の平で叩いていると、おへその所が親指で押したぐらいぱっと赤くなったなと思って見ている内に、ぱっぱっと体全体が肌色になってきたそうな。産湯をつかわせ二人を並べて痩せていても、一人は見えない大きな目を開ききぼきぼしているのに、一人は目を明けず生きているのかナーと思う様だった。
一辺に女の子が二人で夫の機嫌は悪い、私しは産後が悪く苦しく今にも息が止まるのではないかとさえ思えた。こんな私しを義母が良く薬を煎じて飲ましてくれた。
翌、二十八日朝早く御義父さんが団子の粉、米、卵、味噌など境重の二番と三番箱にいっぱい入れ唐草模様の風呂敷に包み棒の前後に結えて肩に担いで来られた。
この二十八日は暗かった、小雨が降っているせいかひどく暗く感じた。
御義父さんもお義母さんも長女の幸枝も隣の義兄の家に行って一人床の中でうつらうつらしていた。その時、家の表で「じいさん、ばあさん」呼ぶ声がして目覚めた。
隣の家の窓が開く音がして「アリャー悦が来た、何しに来た今頃になって」夫の甥いが来たらしい、外から「召集を持って来たいのいネ」これを聞いたとたん体から血をスーと抜き取られていくように思ううち、今まで胸に大石を乗せている程の苦しさで手足が動かぬ様だったが、何ぜか楽になり体がフワフワと浮いて、秋のススキがうねうねとしている小道の枯葉の上を歩くでもなし飛ぶでもなく何処ともなくさ迷って気分・・・・・。
傍の赤子が甲高く泣いたのにハッと気が付き、又、苦しい、其の間は僅かな時間であったのであろうが随分長かった様に思われた。
窓ガラスを透して「ハルさんには云わんほうがエエで、まあ、此方へ這入れ」心配そうな義母の声がする。なぜか目尻から戻が流れ蒲団を濡らした。
気持が落着き隣の会話が気になったが、気を付かって小さな声で話し合っているのか何も聞こえて来ない。
何時降り始めたのか、庭の木々の葉に降りしきる小雨の音のみ耳についた。
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