見出し画像

読書記スクラップ[震災・災害]08_「津浪と村」

08「津浪と村」山口弥一郎:著/石井正己・川島秀一:編

画像1

先日の記事に関連して、山口弥一郎のこの著書を手にとる。
東日本大震災後の2011年6月に、氏の後の新聞寄稿などが追加されて、復刻版として出版されている。

山口弥一郎は、地理学を田中館秀三に、民俗学を柳田国男に学び、昭和8年の津波の被災地をつぶさに回って記録、思考し著したのが本書である。昭和18年とのこと。昭和の津波から10年後のことだ。

ここでは、津波で被災した各集落での聞き取りを主にし、中でも津波後の集落の再建方法に主眼がおかれている。
高台移転(本書では「移動」と表現されている場合が多い)の記録が綴られる。
しかし、そこには数多のエピソードがあることが伺える。
思い切って言うなら、「集落の運命」とも言えようか。

氏がしきりに指摘しているのは、被災後に一度は高台移転をしてもやがて「津波被害地(原地)へ戻ってしまう」という現象についてだった。
このことについて、原因が様々探られる。

一例として次のような経緯が書かれている。
釜石市唐丹(とうに)の本郷地区の例だ。

(略)鶴松翁は、海岸より六百米余りも離れた山腹斜面の自己所有の畑地を集団移動地に当て、自らまず本宅をそこへ建築して村人にも移動を勧めた。最初は村人も鶴松翁の説くところに従うらしく見えたが、日時を経過するに従い、津波は再々来るものではなく、浜を離れては毎日の生活が不自由であり、先祖の位牌を譲るには元屋敷がよいと、原宅地を離れ難さに、単に四戸移ったのみで、他は原地に落ち着いてしまった。それには、津波襲来の年より三、四年間烏賊の大漁が続いて景気が回復したことなども大いに影響があったらしく言われている。
かくて明治三十五年頃までに海岸の原地にほぼ復興を遂げると、四、五戸のみ遠い山腹に移って住むのが変な形になり、皆家屋をほごして海岸に運んで再建してしまった。鶴松老人は最後まで踏み止まったが、一戸ではどうにも致し方なく、遂に原地に戻ってしまった。先覚者も村の大衆には遂に引きずられてしまったのであった。
(中略)かくして(昭和)八年の津波には谷奥の一戸を残して、全村百一戸が全滅し死者百十七名、行方不明二百八名計三百二十五名を算するに至った。


同じく釜石市唐丹(とうに)の小石浜地区のように、明治三陸津波の後に高台移転を進めて成った後に、移転先で森林火災に遭い、「津波はいつ来るかわからぬが、山腹(移転先)にいては山火事が恐ろしい」と、低地に戻り、昭和三陸津波で五百戸もが被災してしまった例なども綴られている。実に痛ましい。

大漁などの生業、殊に経済に関わる出来事がきっかけで低地(現地・原地)へ戻る例が数々の集落で見られることも指摘されている。

また、聞き取りの過程では、被災当時の避難行動にも注目している。
例えば地区に古老がいるか、そして、昭和三陸津波に際して古老が自身の被災経験をもとに避難を呼びかけられたかどうか、ということによって、つまり、先の津波の経験が生きるかどうかが集落の運命の分水嶺のようにも見えた。
集落の復興過程で、新たな居住者ばかりになるとこれが難しくなる。
個々の命が守られる事は最優先かつ大前提として、コミュニティがどう生き延びるかというという観点も極めて重要だろう。
人口減少時代の東日本大震災の被災後には、より重くこのことがのしかかってくる。


読み進めると、丁寧に各地で聞き取りを行っていることがわかる。
しかし山口は、船越で航空写真による復興計画書を目にし、自分の足と目と耳で集めているフィールドワークと諦めようと考える。非効率と思えたのだろう。
自分の調査が航空写真のような技術と比較してその意味を見失おうとしていた時に、田中館に

「どうしてかく移り、村や家が再興されてゆくかの、人間の問題は写真にはあらわれていなかろう」

と励まされたという。
そんなエピソードも、災害と復興の人の機微を主眼に観察し、聞き取り、調査・研究するための礎となったのだろう。

そんな山口が見聞きした人の機微の中でも、先に書いた通り、「被災後の高台移転から低地(原地)への逆流」を常に気にしている。
これについては、山口より早く柳田国男が明治の三陸津波後の集落の動向を調べて、既に自身の著作で言及していた。

そして、山口の研究に対して柳田は

「研究の意図はよくわかるが、学術的論考気味で、その当三陸の漁村の人々には、目を触れることも少なかろうし、理解も容易ではない。一人の尊い命の救助を願うのなら、漁村の人々にも、親しく読める物を書いてみてはどうか」

とアドバイスしている。
山口の研究を通して、柳田国男の指導力と先見性が見える。

本書の中には

「我々は津浪直後に、惨害記録と哀話のみ綴っているべきではない」

という山口の言葉が登場する。

これは、昨日までのポストで述べた「心の復興」と相反するようにも聞こえるものだ。
しかし、その実は、そもそもそうした惨害や哀話を生まないための態度や眼差しも必要だということだろう。
研究者という立場としては、悲しみを「知り」「理解した」上で一度仕舞い、その先を探求すべきだと。
それをよく示している。

津波被害と土地利用、そしてインフラの整備事業については非常にデリケートで複雑なものだと私は思っている。
「正義」はないが、各地域での環境やコミュニティに合わせた最適解のようなものはあるのではないだろうかと思う。
集落の運命を決めるのは、集落の意思である。そうではなくとも、そのはず、ではある。
しかし、そこには政策・制度などが重くのしかかる。

明治、昭和の三陸津波が“はるか遠い昔のこと”となっていた中で東日本大震災を経験する。
その東日本大震災から10年を経た今、復興と事業、復興と人の機微などを本書の読後にもう一度考える。
決して心が晴れて澄む事などはないのだが。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?