復興まちづくりのプロセス〜仙台沿岸部の南蒲生地区の例〜その1
私は2012年〜2018年まで、特定非営利活動法人都市デザインワークスのスタッフとして、仙台市宮城野区の南蒲生地区の復興まちづくりのサポート業務を担当しました。
仙台市では、東日本大震災の津波で被災した沿岸部の3つの地区にそれぞれコンサルタントを派遣し、復興まちづくりのサポートを行いました。
このうちのひとつが、南蒲生地区でした。
本稿では、あらゆる面での早期の復旧・復興が求められ、かつ、短期間でフェーズが転換する「復興まちづくり」について、上記の約7年間をおおよそ2年毎の4つのフェーズに区切り、地域(南蒲生地区)、行政(仙台市)そしてコンサルタント(都市デザインワークス)の動きを整理し、それぞれのポイントをまとめてみました。
ポイントのみをまとめたものですので、細かい出来事はバッサリと割愛しています。
「まちづくり」とは実に多岐に渡っているものですので、それぞれの詳細は、テーマごとなどにしてまた別の機会にでも書いていければと思っています。
■この記事を書くにあたり〜目的と経緯
サポート業務を終えて少し時間が経ったこと、そして、東日本大震災から9年の節目を迎えることが主な要因です。
また、近年の気象の変化と災害の多発も記事を書く大きな要因です。
特にここ数年は、毎年台風や大雨による被害が日本の各地で起こっており、その度に、震災による津波の被害と復興のプロセスを振り返ったり、重ねてみたりしてみていたのでした。
ご存知のように、東日本大震災の(主に)津波の被害に遭った各地は、その被害の状況等により復興のスピードは様々です。その中にあって、南蒲生地区は現地での再建を基本として、比較的早い段階で復興まちづくりが進んだ、と言われます。
この復興まちづくりのプロセスを、当事者(被災者)と行政や支援者(ここでいう都市デザインワークス)などの協力関係のもと、町内会等の小さな単位でどのように進めてきたのか、ポイントをここで明らかにしてみたいと思います。
少し大袈裟に言うと、今後も日本の何処かで起こるであろう自然災害と被災地域の復興、その参考や一助になればと書き記すものです。
と、書きつつ、つまりは私自身のための記録でもあります。
■南蒲生地区について
南蒲生地区は、仙台の中心部から海手へ直線距離で約10㎞。震災前の人口は約890名、290世帯。
津波による人的被害や、多くの世帯が建物の損壊や浸水被害を受けました。
震災後、市の安全・安心に関する整備施策(嵩上げ道路)の設置方針により、従前の 世帯の大多数が現地での生活再建が可能となりました。
しかし、整備される嵩上げ道路が町内を南北に走る形になり、この東側(海側)は「災 害危険区域」に指定されたため、移転による再建を余儀無くされました。
現地再建が可能な区域の中で再建する世帯と移転による再建を目指す世帯、そして、災害危険区域内に居住していたため移転再建をする世帯。同じ町内会の中で、「三者三様」の状況となりました。
災害危険区域からの移転と、それ以外の区域からの移転では、行政の支援の内容が異なりました。これが現地再建と移転再建の「二者」ではなく、「三者」である理由です。
また、ここで「世帯」と書いたのは、再建方法の意思決定は「世帯」でされるものだと、復興まちづくりのお手伝いの現場で実感したからです。現地で再建するのか、移転先を求めるのか、家族の中で意見の集約に大きな労力がかかっていたケースも多く見受けられました。
これは、もちろん南蒲生だけではなく、津波被害ひいては原発“事故”を含む震災被害を受けた殆どの地域でそうだったのではないでしょうか。
あ、南蒲生町内会は、なんとホームページがあるのです!
是非、見に行ってみてください。
■都市デザインワークスについて
都市デザインワークスは、仙台を拠点にまちづくりのサポートを多面的に行うNPO法人です。
“多くの人が都市に快適に住み、その賑わいが訪れる人を魅了する都市本来の魅力を取り戻し、次の時代へと「つなぐ」都市づくりのために、個々の利益ではなくみんなの、まちの利益のための新たな都市づくりのシステムをつくり、その中核をなす組織を立ち上げなければなりません。
私たちは、都市づくりに関する幅広い専門知識を構築し、長期的・持続的・総合的な視点のもと、市民と行政と民間企業と共に新たな都市づくりを実現していきます。
都市の将来像を具体的に分かりやすく示し、みんなで共有するとともに、その実現に向かって様々な主体と連携をとって市民のニーズを汲み上げ、企画から計画そして設計を行います。さらにその実施、運営まで携わる一貫した都市デザインとして実践していきます。“
ちなみに今は、私自身は都市デザインワークスを離れており、南蒲生地区のまちづくりを遠くから見守っている状況です。
■変わり続けたフェーズ
都市デザインワークスでのサポートは、2012年から2018年まで。この間、刻々と状況は変わりました。
解決された大きな課題もあれば、今でもうっすらと残る問題もあります。
今回は、この7年間をおおよそ2年ごとに区切り、フェーズごとに記事にしてみました。
ポストは、全4回+αくらいの予定です。
さて、さっそく。
まずは、震災から1年後の2012年から2013年にかけての様子から。
■#1:応急・復旧期(2012〜2013年)
南蒲生地区の多くの方々が、仮設住宅で暮らした時期です。
南蒲生地区の大多数の方は当該地区より内陸側にある岡田西町公園に建設された、岡田西町仮設住宅で暮らしていました。
次の図に示す通り、とにかく、被災地域の生活再建が最優先でした。
●南蒲生の方々の暮らしの様子
前段で述べたとおり、再建方法別に三者三様の状況にあった当時は、再建方法を話し合うことが最優先でした。
この時期は、仮設住宅の集会所がこれらの「拠り所」となっていました。
「女子会」など、会議以外の様々な集まる機会も持たれたほか、外部からの支援の窓口にもなっていました。
復興部の会議もここで行われていました。
●復興部の主導による復興まちづくり
2012年初頭の南蒲生町内会の総会で、町内に「復興部」を設け、これが独立した形で意思決定や会計を担うことに。同時に、行政との調整窓口の役割も担いました。
●会議、ワークショップ
2013年度までは、復興部会議を毎週水曜日の夜に開き、生活再建や行政の支援内容の確認など様々な調整を行っていました。
会議の要旨をまとめて、共有、確認。次週の会議までに必要資料を用意する。
会議に際しては、必ず前回の振り返りから行う、という、手戻りのない進行が徹底されていました。
町内会全体には、月一回「全体会議」を開催して、共有をはかりました。
また、場面やテーマによっては、ワークショップ形式を取り入れた議論の場も設けました。
●基本構想と基本計画
復興まちづくりの目的や目標、指針を見つけ、町内(地域)のみならず、行政や関係各所と共有しておく必要がありました。
このため、生活再建のための話し合いと並行して、これらのイメージづくりも行いました。
2012年の3月には「基本構想」を、同年12月には「南蒲生復興まちづくり基本計画」を作成し、町内会で共有する他、仙台市の復興事業局に提出。その後の復興まちづくりの各種活動の基盤となりました。
■このフェーズでのポイント
さて、このフェーズでのポイントは4つくらいあると思います。
●「復興部」の存在
小さなコミュニティにあっても、緊急に対応できる応急的部門を設置したことは、特にこの時期にあっては有効だったと考えます。災害の後は、町内会という小さな単位のコミュニティにあっても、スピード感を持った検討、決断や実行が求められます。
既存の組織をそのまま当てはめずに、新たな部門をつくり、権限を持たせて進めて行くことも一つの方法です。
こういう事態では、とにかくスピード感が大切になります。
●思いを形にした「言葉」や「計画」の必要性
何を目指すのか。これを町内会をベースとした単位で考え、「基本計画」としたことに大きな意味があったと思います。これは、即時的なものではなく、後々にジワジワと効いてくることになります。
これは、本来どの地域であっても有効に働くはずです。
フェーズが変わっても、大きな目ざす方向が決まっていることで、ぶれずに活動を進めることができますし、逆に「やらなくて良いこと」も見えてきます。
ちなみに、「新しい田舎」というキーワードは、若者の集まり(ワークショップ)の中で出されたものが、そのまま採用されたものです。
●若者、女性の参加の機会
既存の町内会組織は、特に意思決定の会議等において、各戸の家長が代表して参加する機会が多いものでした。(地方の地域の多くが、こういうスタイルかと思います。)
復興部の創設を契機に、ここには女性や若者も参加。復興まちづくりの議論が、多視点できたことは計画づくりにおいても特に重要でした。また、具体の活動においても、その担い手が復興部(≒町内)の意思決定に関わることができることも有効でした。
また、仮設住宅の集会所を拠点とし、「女子会」など独自の取り組みも積極的に開催されました。
この当時、復興部長を担った方の
「若者や女性も復興部に入れること、会計等(予算執行の裁量)の権限を持たせることなどを条件として復興部長を引き受けた。」
という証言もあります。
結果的には、後に若者の会の活発な活動などにもつながることになります。
■コンサルタントの役割
このフェーズにおいての、コンサルタントの役割を(かなり)大まかに。
●地域・行政間の調整
これは、基本的な役割で、その後のサポート期間を通して行いました。
生活再建について、そのための行政の支援等についてなど、特に移転再建の方法等についての調整の割合が多かったです。再建方法の意向把握のためのアンケートも実施しました。
●基本計画づくり
会議やワークショップなどを通して出されたイメージや言葉・思いを、足し引きしながら、かつ、地域に問いかけをしながら編んでいきました。
しかし、ここには、地域の方々も気づかない情報(歴史、地域資源、課題など)も共有、理解の上に盛り込んでいます。
ただし、コンサルタントや行政の独りよがりなもの、押し付けではない、地域の「理解」や「納得」が重要なのは言うまでもありません。
■まとめ
暮らしの再建に向けては、特に移転再建の場合の行政との調整などが密に必要とされました。
そういった緊急的な事態にあっても、根気強く話し合いを続け、言葉やイメージを共有。初期段階で「南蒲生復興まちづくり基本計画」をつくっておいたことは特に有効だったと考えます。
南蒲生地区(町内会)は、当時の役員を中心に、これらに高い熱量で、しかし、朗らかに向き合っていました。
徐々に現地での再建も進み、次のフェーズへ進みます。
(つづく)
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次回は「#2現地再建過渡期(2014〜2015年)」について書きます。
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