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復興まちづくりのプロセス〜仙台沿岸部の南蒲生地区の例〜その3

仙台沿岸部の南蒲生地区の復興まちづくりのプロセスについて、投稿しています。

前回からだいぶ間が空いてしまいましたが、続けます。

前回までのポストでは、2012〜2015年頃の様子について、「#1:応急・復旧期」「#2:現地再建過渡期」と、2回に分けて書きました。


今回は、2016年から2017年頃についてです。
これまでよりも少し長文になります。

■#3:ポスト復興のまちづくり期[ポスト復興部](2016〜2017年)

 この頃は、現地再建の過渡期を経て、被災された方々の生活の再建が(おおよそ)ひと段落した時期でした。
 ご存知のように、東日本大震災の津波による被災地区は広大な範囲になり、地形や地理その他諸条件により、その後の復旧・復興過程は様々でした。集団移転を余儀無くされる地区もあれば、現地での再建が可能な地区もあり、そのスピードは大きく異なりました。南蒲生地区の場合は、#1で説明した通り、地区内(町内会範囲の内)を縦断するように災害危険区域の線引きが行われたために、①現地で再建する人②自主的に移転をする人③災害危険区域内に居住していたために移転する人、という「三者三様」の状況となりました。実際は多くの方が現地で再建され、元の集落のコミュニティが概ね維持できることとなりました。

 それとタイミングをあわせるように、2016年に入ると、「区切り」となる出来事が次々と訪れます。

 まず、2016年1月には、当初から時限的な活動を想定して町内会に設立され、復興まちづくりを牽引してきた「復興部」が解散。その後、年度末の3月には仙台市の復興事業局も廃止され、各区や他部署に復興関係の残務が引き継がれました。復興5月には仮設住宅(岡田西町仮設住宅)も閉鎖され、仮設住宅の自治組織も解散しました。


 被災地域にとっては、大きな変化の年と言えます。

 これらを経て、どのように「まちづくり」を続けていくか、という大きな問いがあった時期かと思います。

 「復興」とはいったいどこまでを指すのか。
 あの時に言っていた「まちづくり」とは何か。

 そんな問いと、その後も付き合っていくことになります。

■このフェーズでのポイント

このフェーズにおいてのポイントは、以下の3つかと思います。

●復興の「区切り」とバトンの受け渡し
 前述のように、復興まちづくりのフェーズが2016年を境に大きく変わります。
 まず、町内会では、復興部の解散を受けて、復興まちづくりに関わることが町内の他の部等に引き継がれました。
 しかし、それまでの復興活動の大半を担ってきた復興部の存在は大きく、この引き継ぎの段階では、いくつかの混乱もあったようです。
 どこまでが復興まちづくりか、という観点のズレもその大きな原因の一つであったと推察できます。


 この時期に、町内会では「震災5年」の節目に記録と発信のために「南蒲生復興5年史」を編纂。2016年の9月に発行しました。

 これが「できた」ということも地域にとって大きな区切りとなったのかもしれません。

 次に、行政側では、仙台市復興事業局が3月末をもって廃止され、他部所や区役所の担当課に引き継がれることになりました。これは、少なからず仙台市内の各被災地域にとっても影響があったものと思われます。
 このように、環境や条件の変化の中で、前述のような非常に大きな問いに直面していたことは事実でしたが、しかし、南蒲生町内会は、若手や中堅世代にキーパーソンがいたために、無理のないペースで様々な活動をその後も継続できる形になりました。
 町内会組織でみれば、バトンの受け渡し自体は上手くいかなかった部分が大きくも、次世代の担い手がいた事に大きく助けられ、“まちづくりの火”は消えずに残ることになりました。

●拠点(集会所)の活用による活動の幅の増幅
 前節で触れた、再建された新たな集会所をどのように活用して行くか、という課題もありました。南蒲生の場合は、これに呼応するように、町内会や関連団体では様々なプロジェクトをこの集会所をベースに展開します。

▶︎「みんなの畑」と「感謝祭」

 集会所の隣地(民地)を集会所のための駐車場として町内会で借り、その残地を「みんなの畑」として、町内外の多世代・新旧世帯がみんなで耕せるスペースとなりました。
 この準備段階では、町内会の役員や中堅世代の尽力がありました。

 やはり、土や作物を通じたコミュニケーションは清々しく、収穫の喜びや楽しみを共有できる機会として、小さいスペースながらも大きな意味を持つプロジェクトとなりました。

 収穫を分かち合うために、毎年秋には「感謝祭」も開催され、通常の町内会行事には参加が少ない層なども気軽に参加できるものになりました。
 集会所の下屋の大きく張り出た空間設計は、外部と内部の中間的な「半屋外」の空間を生み出し、感謝祭のようなイベント時の交流のスペースとして大いに活かされました。


▶屋敷林・居久根の取り組み「イグネスクール」

 屋敷林(居久根・いぐね)の再生にも一歩一歩取り組むことになります。
 その学びの場として「イグネスクール」を集会所で開催していました。
 また、海岸林はじめ、津波により失ったみどりを取り戻す「ふるさとの杜再生プロジェクト」がこの時期に本格始動。沿岸部や仙台市内の各団体と協力して、みどりの再生に取り組むことになります。


▶お母さんたちの趣味の集まりや「迎える」場に

 地元のお母さんたちの手芸、クラフトなどのサークル活動の場になりました。これらは、仮設住宅の集会所での取り組みが現地での再建後にも引き継がれたもののようです。
 視察や研修で訪れる団体へのお土産づくりなどもこういった活動が活かされました。

●刻々と変わる町内の「環境」

 再建がひと段落したものの、地区内には移転跡地は残り、集落の景観には歯抜け状態になった部分が点在していました。
 移転跡地には、周辺の復興事業の工事需要に合わせる形で、現場事務所や作業場、作業員のための簡易宿泊所、駐車場や重機置き場のようなものも増え、また、資材置き場のような利用もあり、こうした環境の変化には戸惑いの声もありました。死角ができるために、防犯上の不安が大きかったようです。
 一方では、若い子育て世代等の町内への転入も徐々に出てきました。のびのび暮らせる環境や、海に近いので、サーフィンなどのマリンスポーツを楽しむ人には良い環境のようです。
 こうした新しい世帯も町内の一員となれるような工夫も必要とされました。
 これらは、今でも町内の課題の一つとして挙げられます。

■コンサルタントの役割

 さて、このフェーズにおいては「ポスト復興(ポスト復興部)」をどう考えるかが非常に大きなポイントで、コンサルタントしての“伴走”の要不要と復興の到達点を探しながらのものでした。
 「個々の生活再建=復興」と考えるか、生活再建のその先のまちづくりまでを考えてこその「復興」なのか。重い問いが常につきまといながらの支援活動となりました。
 少なくとも南蒲生地区では「新しい田舎」三つの柱(南蒲生復興まちづくり基本計画)を旗印にまちづくりをやっていこう、と誓いを立てていました。
 冷静ながらも、ある意味では震災ユートピアの中で作成された「計画」であり「誓い」を、町内会等の実情を見ながら評価していく必要もありました。

 また、前述のバトンの受け渡し(引き継ぎ時の混乱)の段での調整などは、地元住民の「事情」の深浅があり、立ち入れないことが大いにあります。
 今だから振り返れる事ですが、こういったことのリカバリやフォローには特に時間がかかるものだと実感しました。
 主に集会所を活用した多彩な活動が展開されますが、それらが自律・自走できるかどうか、少し長い視点で考え、アドバイスをすることも大切でした。
 世代間をつなぐための遠くからの支援も必要ですが、それらは即効性を期待せずに、長い目で見ることも必要です。

■まとめ

 2016年には、当初から時限的活動を想定していた、町内の「復興部」が解散。仮設住宅が閉鎖され、さらには仙台市の復興事業局も廃止、被災地域も行政も「節目」を迎えます。
 発災から約5年。復興のフェーズの区切りであり、一つの単位なのかもしれません。
 毎年のように水害等による「被災地」が生まれる昨今の日本。
 規模は違えども、こうした5年という時間を町内会等の一つのコミュニティの復興とまちづくりに係る「単位」として考えてみても良いかもしれません。

 個々の再建と復興まちづくりという観点においては、こういうフェーズにおいて多分にジレンマを抱えるものになるものかと思います。


▶︎地域の自主性・自立とコンサルタントによる「手当て」
 向いている方向が一緒だった被災直後の状況から(ほぼ)脱する時期だったと言えます。言い換えれば「元に戻る」ということでもありますし、「それぞれが通常の暮らしを送れている」ということでもあると思います。
 これをどう捉えるか。
 「まちづくり」は周囲が強いるものではなく、基本的には地域の自主性にもとづくものであるべきだと思います。しかし、気づきや、更に良い環境をつくり出すためのモチベーションなど、外部からの影響や刺激により、継続されることや状況が改善されることは、大いに歓迎されるべきものです。

 このあたりの「見極め」や「調整」でコンサルタントのマインドと力量が試されます。

 一方で、災害からの復興のためのまちづくりであり、外部からの支援が「手当て」だとすれば、それを必要とする時期は限定的であるべきとも言えます。
 生活再建やまちづくり活動を進めるという目標があったため、コミュニティは(ある程度)同じ方向を向いていました。発災から仮設住宅で過ごしていた時期までは、特にその傾向があったと思います。「災害ユートピア」と呼ばれるものの一つと言っても良いかもしれません。
 しかし、現地での再建が済み、個々の生活が落ち着くと、ベクトルはまたそれぞれの方向をむきだします。
 この、意識が再び個に向かって行く時期が非常に重要で、“まちづくりの分岐点”になると思います。

 目指すべきは、地域の自律・自走であって、これは、より豊かな環境づくりのための活動を様々なセクションと連携をはかりながら継続できることを指します。

 自立と伴走の要不要の見極めが大切です。

 これらの意味でこのフェーズは、復興まちづくりの課程の分岐点であり、ターニングポイントでもあるという、最も重要な時期であったとも言えます。

(つづく)

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 次回は「#4:平時の自立的まちづくり期(2018年〜)」について書きます。


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