復興まちづくりのプロセスに見る課題の変化
仙台沿岸部の南蒲生地区を例に、「復興まちづくりのプロセス」と題して記事を書いてきました。それらは、マガジン形式でまとめています。
私が都市デザインワークスの一員として携わった2012年から2018年ごろまでの復興まちづくりのプロセスを、フェーズの変化に合わせ2年区切りで整理してみたものです。
それらの記事中では、地域、行政、そしてコンサルタントという三者の視点で、主な課題や活動などをまとめた表を用いました。
ただ、記事中では概要に留まってしまったので、ここではフェーズ毎にもう少し解説を加えたいと思います。
今回は、課題についてです。
#1:応急・復旧期(2012年〜2013年)
「応急・復旧」とした通り、この時期は被災された方々の生活の再建が最優先でした。まだ仮設住宅での暮らしが続き、毎週毎夜のように会合議論が持たれた時期でした。全国各地からの様々な支援もあった時期でした。
まずは、暮らしの再建。これが、地域住民も行政にも共通した課題であり、コンサルタントとしてもその課題の解決ためのサポートで作業を進めました。
主に「復興まちづくりのイメージづくり」と「再建方法の検討」という2点に集約できます。
●復興まちづくりのイメージづくり
南蒲生地区では、現地(従前の集落)での再建をベースとしたイメージづくりが進められます。生活再建が最優先ながら、「復興」にどのような希望を託すか、ということを、拠り所になる言葉や図、イラストなどで形にしていきます。
これが、「南蒲生復興まちづくり基本計画」として一冊の冊子にまとめられます。
この計画中枢をなす「新しい田舎」というコンプトは若手の集まりのワークショップの中で出されたキーワードでした。
また、計画中の3つの柱(重点プロジェクト)は
❶ 安全・安心な暮らしができる環境づくり
❷ 次代につなぐ居久根(いぐね)のある景観づくり
❸ 南蒲生らしさを活かした産業・交流づくり
というもので、これもワークショップや会議の際に出ていた意見やキーワードを整理して組み立てたものでした。
(※基本計画については、また別の記事として書こうと思います。)
●再建方法の検討
「検討」としましたが、これはヒアリングやアンケートなどの地域住民の意向を把握するための基礎的な調査を重ねた上でのものでした。
前記事(#1)に、災害危険区域の線引き(設定)と三者三様の状況について書きましたが、現地の再建、移転再建、移転の際の移転先の意向などの把握が必要になりました。いくつかの移転候補先を設定し、住宅地の設計モデルを試作するなどの作業も行いました。
南蒲生の場合は、この段階の数回のアンケートで7〜8割程度の方々が現地(従前地)での再建を望んでいましたが、実際の現地再建もおおよそその割合になりました。
▶︎まとめ
他のフェーズと比較しつつ振り返ってみて思うのは、誰もに共通した課題がある時には、まちづくり関して特に大きな推進力が働く、ということです。
しかし、災害時下においては、再建方法の検討など、個別の事情とコミュティの意思決定などのデリケートかつ膨大な調整をスピーディーに行う必要があり、地域、行政、コンサルの三者ともそうした意思決定のための議論や調整のために大きなエネルギーを要することになります。
課題も地域の悩みも多い時期でした。
南蒲生の場合は、町内に「復興部」を創設し、あらゆる窓口機能を担い、調整は町内会と連携して行いました。
これが結果的には、円滑でスピーディーに復興まちづくりを進められた要因の一つになりました。
#2:現地再建過渡期(2014年〜2015年)
仮設住宅の稼働は続きますが、現地(従前地)での再建が進み、その過渡期になります。仮設住宅の暮らしで再接続されたご近所コミュニティが現地でも活かされる例も見られました。
一方で、仮設住宅は、居住者が外部の支援団体などとの接点を持てるハブのようにもなっていて、これが現地再建が進んでもそのハブ機能が求められました。従前の集会所がその役割を果たすものですが、津波で流失しており、再建も望まれました。
町内の若手も所属する復興部が中心的存在となって、様々な活動が行われました。
現地での再建が進む中で、再建のための支援も続きました。
●現地でのまちづくり活動の継続
復興部を中心とした様々な活動が行われますが、基本計画を具体的な活動に移すための実施計画「アクションプラン」づくりも進められました。
●活動拠点(集会所)づくり
兵庫県からの支援があり、津波で流失した集会所を再建できることになり、それを町内のニーズに合った形で具現化することが求められました。
町内に建設委員会を設けて、ワークショップやミニコンペを実施し、理想に近い形で実現できました。
ここでは、❶拠り所になる言葉の抽出、❷従前の集会所の利用実態の把握、❸次世代や女性の意見を位置付け設計に反映させること、という三点がポイントになりました。 世代間の価値観の違いもあって、意見の調整が難しかった部分もありましたが、モダンで使いやすく、次世代に引き継げるような空間がきました。
コンセプトの抽出、設計へのインプットの段では、過大な要請にならないようにボリュームの調整も必要になりました。
▶︎まとめ
復興まちづくりの過程において、復興部がけん引役となって充実したまちづくりが進められたピークだった時期と言えます。
再建の支援が引き続き必要でしたが、多くの人が仮設住宅の暮らしを余儀なくされていた前フェーズ時の大きな課題は、まちづくりの個別のプロジェクト等へスライドして行きます。
また、集会所の再建に見る、「拠点」の重要性も明らかになりました。拠点性と共にシンボル性も持つもので、結果的に集会所の完成は、一つのコミュニティにとって大きな節目をつくります。
「集会所の再建」というトピックは、災害と復興におけるコミュニティ再建のバロメーターと言っても良いのかもしれません。
#3:ポスト復興のまちづくり期[ポスト復興部](2016年〜2017年)
2016年に大きな転換点・分岐点を迎えます。
●南蒲生町内会復興部が解散(2016年1月)
●仙台市復興事業局が廃止される(2016年4月)
→以降、区役所へ復興支援業務が移管される
●岡田西町仮設住宅(※)が閉鎖される(2016年5月)
※南蒲生地区の多くの方が暮らした仮設住宅
また、仙台沿岸部の津波避難施設の整備も進み、2016年の年末には地区内に津波避難タワーが整備され、供用が開始されます。
それまで町内会で定期的に実施してきた津波避難訓練も、岡田小学校から町内会範囲内で「一時的な避難場所」となった津波避難タワーに避難先を変更して実施されました。
集会所の完成につづき、地区内での津波避難施設の完成は、現地で再建したコミュニティの暮らしをさらに安定化させる大きなトピックとなりました。
●集会所を活用した現地でのまちづくり活動の継続
これらの大きな出来事が重なって、「復興まちづくり」の節目となりました。
復興部の解散は大きく、それまでの活動の引き継ぎ、維持をどのような形で実現できるか、復興の存在が大きかったために随分と悩みが深い状況になります。
町内会組織の従前の部門で、復興部の担っていった役割を分担して引き継ぐ計画を立てましたが、少しの混乱もあり、定着して行くには時間も要したようです。
町内会にとっては、日常に直面するものではないながらも、深く大きな課題として残りました。
行政やコンサルタントは、集会所をベースとした活動の支援を主に行うことになります。
混乱もありましたが、次世代の担い手や、女性の団体の前向きな活動によって、集会所では新たな活動が続きます。これらは、助成金等も活用して行われていきますが、ひとつひとつが自立・自走した持続可能なものになることも、中長期的な視点でみた場合の課題でした。
●町内の環境の維持・向上/転入者とのコミュニケーション
現地での再建が進んだ一方で、移転跡地や空地の活用に不安の声があがります。
地区内への転入も見られ、そうした新たな転入者とのコミュニケーションも課題となりました。
▶︎まとめ
このような節目は、被災度合いや状況の違いがあれど、およそ発災から5年程度でやってくるものと考えられます。物質的に「安全・安心」に関する施設の整備や、行政の事業なども(終わりでなく)ひと段落を迎えることになりますが、町内組織やコミュニティ、人が動く仕組みなどの更新も必要になります。
こういった段では、次世代の顔を思い浮かべた上での、プロジェクトの整理なども必要になります。
#4:平時の自立的まちづくり期(2018年〜)
#3の転換点・分岐点を経て、現地の再建はさらに落ち着きを取り戻しました。
ここまで何度も解説しましたが、個々の生活の再建は、復興まちづくりの分岐点にもなります。個人の意識や考え方の違いが(再び)明確になってきます。
●平時のまちづくりとしての活動の継続
そのような中で、さらに自立・自走的な活動が目指されますが、それを継続していくかどうかは、地域の意思と判断に委ねられます。
通常の町内会の機能は維持されていましたが、震災以降に展開されてきた活動を全てフォローすることはできませんでした。
それから、この時期まで震災復興関連の各種助成金が活用できましたが、それらが徐々に減って行くフェーズとなり、活動の自立・自走化と継続を考える上で大きな課題となりました。
●町内の環境の維持・向上/転入者とのコミュニケーション
この課題は根深く残りますが、地域では以下のアクションによって改善がはかられました。
▷まち点検の実施
部分的な環境の不安箇所が顕在化しますが、地区内の課題を住民自らが把握・共有するために、行政も参加してまちあるきをしながら点検しました。
▷感謝祭の開催
転入者とのコミュニケーションは、集会所を会場とした「感謝祭」で少しずつ取れるようになります。「みんなの畑」や「みんなの居久根」といった、南蒲生の風土に沿ったテーマにも、地域内外の人が集まりやすいことがわかりました。
これらは、次世代が仕掛けていることも大きく作用したと思われます。
「楽しみながら続けること」は大切だと再認識できました。
▶︎まとめ
このフェーズでは、緊急時を完全に脱し、平時のまちづくりをどのように進めて行けるかがポイントとなりました。
大きな共通した課題が無くなり、その先の地域に潜む課題の解消をどこまで住民自らがアクションを続けて立ち向かって行くか、行政もコンサルタントも、そのサポートの仕方や距離感が難しい状況になりますが、最終的には地域の意思にかかってきます。
転換点・分岐点のその先の、日常の深くに潜む、薄っすらとして広い課題が残ることになります。
流動する課題
▶︎共通課題から分散へ
震災後、「生活再建」という、地域も行政もその他サポート団体にも共通した課題がありました。そこから、生活再建が概ね成ると、課題は個別のプロジェクトにスライドし、さらに分散して行きます。
さらには、復興まちづくりの捉え方や温度感の差も出てきて、ある意味では従前の状況に戻る形になります。
個々の再建、暮らしを取り戻したその後が非常に重要だといえます。
▶︎持続のために次世代・多主体で取り組むこと
課題は分散しますが、これらはまちづくりの「持続」と表裏一体の関係にあります。持続的に課題解決に取り組むには、時に鍵を握る人が次世代を育て活躍できる場面をつくれるかどうかにかかっています。
また、既存コミュニティだけではなく、外部団体等と多主体で取り組むことも重要です。
▶︎流動していく課題に対応してくこと
暮らしに直結する課題は解決されると、細かい課題が流動的に残りつつも、全体的には、薄く根深いものが残ります。本来はこれらに取り組めるかどうかが、「まちづくり」なのだと考えます。
▶︎最後に残る課題は、環境、人と仕組み、マネジメント
災害復旧・復興時には様々な支援や手当があります。また、前述のように向いている方向がある程度同じために、大きな力とスピードを持って様々な活動が進められますが、個々の生活再建が成って、コミュティが落ち着きを取り戻した先には、環境の質、活動を維持するための人材と仕組み、そしてそれらをマネジメントできる仕組みや人材が必要になり、それらがそのまま課題として残されます。
震災(災害)から10年も経つと、この転換点・分岐点から先で地域のポテンシャルやアドバンテージが大きく変わってくるものと思います。
携わった7年、東日本大震災からの10年を振り返り、少しばかり整理し、課題の流れに焦点を当ててみると、そんなことが見えてきました。
(終)
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