ちがうひと 本谷有希子『異類婚姻譚』

「あなた、ゲームしているとちがうひとになってるわよ」と中学のときに、姉に言われた。中学3年の時だったと思う。キャラクターを戦わせるテレビゲームが流行していた。僕は部活から帰ってきて飯をかきこむとすぐ、そのゲームに興じる。暗い部屋で青白い光に煌々と照らされた「それ」は僕ではなかったというのだ。どんな顔をしていたんだろうか。子供の頃からの癖で、右目ばかりを使い、体が歪んでいく。歪みがねじれになり、ねじれが次のねじれを生む。プチっ、っという音と共に溶けるように弾け、だけれど目と鼻と口が光を舐めているーー。

本谷有希子『異類婚姻譚』を読んでいて、そんなことを思い出した。どこか人非る存在のような、そんなものになっていたのかもしれない。「あの夫婦ほんとうにそっくりね」「犬は飼い主に似るっていうじゃない」とどこか団地で繰り広げられる世間話的に流してしまいそうになるが、よくよく考えると、どこかうっすらと気味がわるい。その不思議さは僕たちの日常の中、普段意識することもない身体に近いところの言葉のなかから出てくる。僕たちの「原基」を構成しているところから出てくるような、そんな狂った言葉だ。

そう感じるのはきっと、この小説が「異類」と「婚姻する」という説話的な話だからだろう。僕たちに物語の最初があるとすれば、それは「見るなと言われたのに扉を開けると鶴だった」はなしや「美女が野獣を愛してしまう」はなしだ。それは古今東西、どこか共通認識のようなものを形成し、僕らの古層にある。考えてみれば、女と男だって異類だ。

その説話を現代的に仕上げたのが本谷有希子の作品なんだろう。語りが軽妙で、どこか男らしいような気もする。文体はシンプルだ。気を衒った感じもない。その脱力した雰囲気がどこか、輪郭がぼやけた「私」にフィットしているのかもしれない。

何かを食べることで、私が変わっていく。当然のことをどこか忘れていた。それは宮崎駿『千と千尋の神隠し』の父親と母親が貪るように肉を食べ、豚になっていくようなものだ。ハイボールを片手に天ぷらを食べて、どんどんと似ていく。輪郭が溶けていく。やはりこれも説話的であって、それが魅力なのだろうと思う。小山田浩子『穴』と比べるとよく違いがわかる。

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