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食べもので記憶の地図にピンを押す

どこかで何かを食べることに特別な意味を覚える。
たとえば私にとって外食や食べ歩きは、マーキングである。
大学時代は大学の近くの飲食店を、
浪人時代は予備校の近くの飲食店を食べ歩いた。

お金はかかるから、当時は、良くないのかなとも思っていたけど、
行ったことのない飲食店に入り、食べたことのないものを食べるのがどうしても好きだった。
浪人時代も大学時代も一人でいろんなお店に入っていた。

それは、そこに入って食べものを食べることで、その場所が自分のものになるような気がしたから。
今まで自分の中の地図になかった場所が、食べることで強烈に自分の中に誕生するから。

嗅覚は五感の中でいちばん鮮明に記憶を呼び起こす感覚だと聞いたことがあるが、
嗅覚と味覚を使って食べたご飯の記憶とは、その日のことを何よりも思い出せるフックなのではないか。

あらゆる場所で食べたあらゆるおいしかったものの記憶が私にそのときの気持ちを思い出させる。

たしかに覚えている。
卒論のために図書館に行こうとして国分寺駅に降り立ったときに食べた、
今はもう閉店したパン屋さんの、折りたたまれたバンズに甘いオーロラソースとハンバーグとレタスが挟まれたハンバーガー。

中高と足繁く通った甘味処。
通いすぎて私の名前と、誕生日まで覚えてくれた店主さんがプレゼントに包んでくれた、あんことクリームが両方入ったそのお店名物の大判焼き。

覚えている。覚えている。覚えている。

その日の国分寺はあまりにも晴れで、春の陽気と快晴の夕日が美しすぎて
こんな日にこんなに美味しいパンを食べているのに一人でいるのはなんて勿体無いことだろうと思った。

あの日店主さんが手渡してくれた白くて大きな紙袋の、嬉しくなる重量とほのかな甘い香り。
さり気なさを装っておどけながら私に手渡すときのあの粋な笑顔、矢継ぎ早の冗談。

覚えている。

大学卒業後、巡り巡って母校の近くで働いていたら
「この周辺のお勧めの飲食店ガイドマップ」なるものを職場でたまたま見せてもらった。
みんなは「こんなお店があるんですね」と、見るともなしに見ていたが
私は、もう、そのマップに刺さっているピンのひとつひとつを見るだけで
そのお店の壁の質感、メニュー表に潜んだ茶目っ気、店員さんとの距離感、私が美味しいと感じた味、入店しようと思ったきっかけ
など、私の中ではたしかに起こったことたちがありありと脳裏に蘇ってきて
ひとつひとつの記憶に紐付いた空間の全てが切ないほど愛しく思え、
あの時ここにもそこにも訪れていてよかった、と思ったのだった。

今年引越しをした。
引越してすぐに、新居の近くにある中華料理店に入った。
町の中華料理屋といった風情で
店頭の食品サンプルはあまりにも色褪せており、お店が今日も営業しているのかを疑うほどだったが
中は清潔で明るく、入り口から想像するよりずっと奥行きがあり、しかもずいぶん賑わっていた。
注文した醤油ラーメンは驚くほど味が薄くて
よく見れば店頭の電光掲示板に「オススメ!あっさり味ラーメン」という文句が踊っていた。

別のテーブルではお父さんに連れてきてもらった男の子が足をぶらぶらさせながらカレーを食べていて、
午前の仕事終わりのおじさんたちはテレビ番組を肴にお喋りしながらその日の日替わり定食のカツ丼を食べていて、
壁に貼ってある豊富なメニュー表にはなぜかジェラートの文字があった。

私は今後もこの店の前を通るたびに、心にこの光景を灯すことができるだろう。
メンマがチャーシューの代わりに味のアクセントとして力を発揮できるほど薄味の醤油ラーメン。
炒飯や天津飯に並んでカレーやカツ丼が書かれたメニュー表。
天井近くに設置されたテレビを観る人たち。
まだ見ぬジェラート。

訪れていなかったら、永遠に、営業しているのかも分からない中華料理屋さんのままだった。
それがいま私の中ではもう温かい記憶を宿す場所のひとつとなっている。

この変容が嬉しくて、私は食べに行くのだろう。
自分が好きになりたい場所で供される食べものを。

「楽しい中華料理屋さんの近くにある家」に住みはじめて3か月ほどが経つ。
今は、その家の中で、自分で食べものを日々拵えている。
新しい料理を拵えるたびに、その日が自分の身体に刻み込まれていくような心地がする。
昨日を、今日を、自分のなわばりへと変えていく感覚。

実際に新しい空間に赴かないときも、料理を作り、食べることで、私の心は拡張する。
忘れたくない一日一日にピンが押される。

いまも今日は何を食べようかと考えている。
凝ったものを作っても、料理とは言えないような簡単なものを作っても、誰かが作ってくれたものを食べても良い。
2020年4月24日にピンを押すのだ。

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