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それは「彼氏/彼女」である必要があるのか。

「価値観が合って心を開いて会話をして、良い時間を共有するために彼女/彼氏が欲しい」という人たちがいる。

「カップル、彼氏/彼女を持つというステータスが欲しいのではない」「見せびらかすために欲しいのではない」と彼らは言う。

「価値観が合って、良い時間を共有したい」人が欲しいだけなのであれば、なぜそこに「彼氏/彼女」という、セクシュアリティの一致を一般的に前提とした「ステータス」が入り込んでくるのか。
価値観が合って良い時間を共有したい「」ではなく「彼氏/彼女が欲しい」のだ。「彼氏/彼女」は一人では成り立たない。そこには、「カップル」という独特な規律と役割を通常持つ「ステータス」が前提になる。

そういう人たちを批判しようというつもりは全くない。ただ疑問に感じる。
なぜなら、相手が「彼氏/彼女」でなかったとしても、「価値観が合って心を開いて会話をして、良い時間を共有する」ことはできるからだ。

それとも、「彼氏/彼女」でなければ、あるいは性的魅力を感じないと、「価値観が合う」こともなく、「心を開く」こともできず、「良い時間を共有する」こともできないとでもいうのだろうか。

「心を開いて良い時間を共有したい」のなら、なぜ相手を「彼氏/彼女」という枠に制限して、(一般的には)性的指向が一致した相手である必要があるのか。なぜ、(シスジェンダー・ヘテロセクシュアルの場合であれば)相手が異性である必要があり、同性は対象外になるのか。

例えばシス男性ヘテロセクシュアルであれば、「心を開いて良い時間を共有する」のに相手が「女性」でなければならないことはない。そこに性別は関係ない。

「なぜ」とは何度か書いたが、おそらく彼らとしては、基本的に1人だけと排他的に相互の恋愛感情を持ち、性行為もする上で「価値観の合う心を開いた、良い時間の共有」があると良い、と言うことなのだと推察する。
「彼氏/彼女」が相手であるときにしか生まれない何かがあるのだろう。
ここでは「性的指向」の一致が前提となる。そんなこと彼らには当たり前すぎるのかもしれない。
あるいは、これは完全に私の見当違いなのかもしれない。


ここで一つ思い出したことがある。
何年も前に、男性の友人たち3人と遊んでいた時のことだ。
私はとても楽しく彼らと時間を過ごしていた。そのうちの一人がこんなことを言った。

「なんか足りないんだよなぁ。女の子いないし。こういう場所は彼女と来るべきだな。」
「本当、そうだよ。男だけで遊んでてもしょうもない。虚しいし。」と別の友人。
私は同意もせずにただ、会話を聴いていた。私以外の3人はそこから盛り上がって恋愛の話を始めた。主に、恋人との関係の不安や文句だった。

当時はまだ、彼らの気持ちがわかる気がした。「男だけでいても何も"発展"がない。そうかもしれない」と。
表面ではそう感じる部分もあったが、私は正直、彼女と来るよりもずっと楽しいと心の奥で感じていた。しかし、「そんなはずはない、彼女と来る方が楽しいに決まっている。恋愛関係というのは至高のものなのだから。」とどこかで気持ちを抑圧していた。
そこでは、「彼氏」という役割を演じなくて済んだ。「男同士の友人」という役割はあったが、個人的にはそれを頑張って"演じる"必要もなかったので大した重荷でもなく、ただそこで彼らと過ごす時間を素直に楽しんでいた。
恋人の文句を聞いている限り、彼らだって今のこの時間の方がずっと楽しそうじゃないか。

それ一度のみではない。これまでの「彼女」たちと一緒にいる時間よりも、心を開ける友人たちといる時間の方が全体的に楽しかった。

「彼女」には心を開いていなかったのか。いや、違う。せっかく心を開いても、「彼氏ー彼女」「カップル」という関係性に飲み込まれてしまう。心を開いていく結果、何かが「彼氏」の規律と役割から外れてしまう。

「彼氏」の規律と役割は、社会的なガイドラインが基準になることがほとんどだ。抽象的な意味での「第三者」の承認なしに、「彼氏」は成り立たない。
「二人の間だけの彼氏の概念」なんてものがあるとしたら、そもそも「彼氏」という言葉を使う必要がない。それは「二人の間の特異的な関係性」なだけで、どの人間関係においても存在する。
固定的に「彼氏」と言っている時点で、そこには「カップル」の概念が必然的に付随してくる。

もちろん「友人」という役割も、窮屈に感じるときがある。「友人なのだから、これくらいするのが当たり前」というように。
私も便宜上、「友人」という言葉を記事でも日常会話でも使う。ただそれは仮に「友人」と表現するのみで、一人ひとりとの関係性が結局はすべてであり、それを重視する。
そして、社会的にも「彼氏」に比べて、「友人」はフレキシブルであることが多い。

そこにある関係性がすべて、それで良いではないか、と思う。
人間だからこそ、相手の属性、ステータスを基準に最初は見てしまう。それが安全のためにも重要なことは多い。それでいい。
しかし、そこから初期に持っていた相手の属性は解除されていき、その人との特異的な関係に"発展"していくものなのではないのか。
長年付き合いがあったとしても、当然相手からは新たな面が無限に出てくる。
以前のレッテルを決して剝がさずに、新たな面を抑え込み、見ないようにするのはどうなのだろうか。
自身の中の「他者」にも同じような態度で接していないだろうか。
仮にこうだとするのは構わない。しかし、それを固定的なものとしてしまえば、そこから溢れ出たものは無視されてしまう。

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