コミュ障、まちづくり、コロナ

※下書きに眠っていた記事。2020年5月7日に執筆していた。当時、旅行代理店に勤めていたけど、感染症拡大の影響でゴールデンウィークが16連休になっていた。

リアルで人と話すことが極端に減って、コミュニケーションってなんだろうな、と考えていた。

元々、知らない人と二人きりになったり、自分の居場所じゃないところにポンと放り込まれたとき、何を話せばいいかわからないタイプではある。

バイトの初日とか緊張する。バイトならまだ、仕事についてわからないことを聞くことからはじめればよいかもしれない。あまり気心知れていない大勢の飲み会とか、ひとりでなんとなく飛び込んでみたイベントとかはもっと苦手(じゃあ飛び込むなよと自分でも思う)。コミュニケーションのきっかけを自分でつくらないといけないとき、相手がどんな人なのかわからないとき、相当勇気がいる。嗚呼、そういうのめっちゃ苦手。

大学で観光まちづくりについて学んでいたとき、いいまちって「コミュニケーションのきっかけ」があるまちなんじゃないかな、と思っていた。ゆるキャラがプリントされたお菓子をレジに持って行って買うという行為に、コミュニケーションは生まれない。せいぜい〇〇円です、〇〇円のおつりです、くらいのもの。でも、たとえば「この店は代々こういうお醤油を作ってきて、このおせんべいはこういう焼き方をずっとしているんですよ~」とか紹介されながらお土産を物色すると、「え~!その頃のこのあたりってどんなだったんですか?」とか「なぜお醤油屋を」とかいろいろ気になってくるし、そうなってしまえばもう「どこから来たの?ええ~遠いところからありがとうね~~~」というような感じでキャッチボールが生まれてくる。

ぼくは学生の頃、特に被災地観光について考えていた。どうしても語り部さんやガイドが一方的に話して、聞くほうは質問が思いついても「こんなこと聞いていいんだろうか…」と遠慮してしまう。やっぱり被災地にも、悲しみを乗り越えて復興しました、的なメッセージだけではなくて、被災に直接関係のないように見える食とか文化とか、気軽に「これ、何ですか?」って聞きたくなるようなものを仕掛けておく必要があると思うのだ。

社会課題における[当事者-非当事者]をはじめとして、教育における[教える-教えられる]、災害支援における[支援者-受援者]、[都市-地方]、[登壇者-観客]…この社会には様々な分断がある。その壁を突破する鍵は、イシューとは特に関係のない「コミュニケーションのきっかけ」がどれだけ用意されているか?ということに尽きるのではないか。


そういえばこのあいだ、ふらっと友人とお祭りに行ったとき、たまたま声をかけられて「SDGs de 地方創生」というカードゲームに参加することになった。お祭りと合わせて企画したはいいけど、人が集まらなかったらしい。まだ数回しか行ったことのないまちで、特に知り合いも多くなかったので結構キョドった記憶がある。ゲームの内容は、そこにいるメンバー全員が「住民」となり、それぞれお金やアイデアを融通し合ったり行政(公務員役の人もいる)に相談したりして、まちにSDGsの好循環を起こしていこうというもの。アイデアとか人脈とかお金とかがカードになっていて、「持ってますよ!」とか「足りません!」とかコミュニケーションをとりあって進めていく。

ぼくはいきなり飛び込んで、知らない人だらけで、カード配られて、あ、もうゲームはじまってしもた、どないしよ…という具合に固まって立ち往生してしまった。周りは活発な人が多かったので「こんなことしたいんやけどいいアイデアないかな」とか話しかけてくれて、なんとか巻き込まれていった。

これって実際のまちに置き換えてみると、若者がひとり地域に入ったときに、ちゃんとまちの人とコミュニケーションをとって化学反応を起こせるか?みたいなことにすごく関係しているような気がしている。立ち往生するのはしかたない。でも、あんまりストレートに「何しに来たん?」とか言われたらちょっと委縮しちゃうかも。

ここで前の話に戻る。「コミュニケーションのきっかけ」が生まれるしくみが、やっぱり大事なのではないか。ふらっと訪れて「これ何ですか?」って自然と言ってしまうような、場づくり・まちづくりのデザイン。

と、ここまで話を進めて、昨今の状況に目を向けると、人と会うことが限りなく制限される社会が立ち現れている。リモート会議、ZOOM飲みといった身体性のないコミュニケーションが突然要請されるようになり、戸惑っている人もいるかもしれない。インターネットでのコミュニケーションに目的とはちがう余白を生むにはどうすればいいんだろう。

さっき湖畔をランニングしていたら、お世辞にもうまくはないヒゲダンをトランペットでがんばって吹いている人がいた。なんかいいなあ、と思った。なんかそういう、まちがいを許容する、不完全なものをあけっぴろげにしておく、みたいなのってすごくリアルな感じがするなと思う。ZOOM飲みって、飲みなのに、なんかちゃんと話す人のターンが決まってて、ちゃんと聞かなあかん感じするよなー。話すほうも、いつもよりちゃんとせなあかん感じがする。聞き取れるようにはっきりしゃべるみたいな。飲みなのに…。

カンケーないものとか、間違ってるものとか、いいかげんなものとかが、もっと許容される世の中になればいいな。地域でもオンラインでも、なんでも。コミュ障を救う仕掛け、もっとくれ!


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