見出し画像

寺田の「人生ってなんだ?」その5:どんな状況でも自分を見失わないためのシンプルな考え方

どーも!寺田です

ハイ、第5回がやってきました。願わくば週一くらいのペースで更新したいんですが、未来のことは分かりませんし…(!)

今回は、「自己決定」について語っていきたいと思います。

自己決定とはつまり、どんな状況でも自分を見失わないためにはどうするべきかという話です。

まず大前提として、世界には大きく2種類の人間がいます。自分でものごとを決めるのが得意な人間と、そうじゃない人間。基本的にビジネスなどのクリエイティブが求められる世界では前者の方が有利で、世の中で威張っている人間の殆どが前者なのだと思います。

ですが、実は僕自身は自己決定がそんなに得意じゃない。

まあ、得意かどうかは僕の主観的な判断であって、外部から見たらもしかしたら得意に見えるかもしれませんが。

とにもかくにも僕は主観的には自己決定は苦手だと思い込んでいるのです。どちらかと言えば、誰かに色々と決定してもらった方がラクな側の人間。

…というこの自己規定そのものが、実は僕の自己決定によって為されているのです。(と、無限ループに陥っていきそうですが、実はこのことが一番言いたいことです)

つまり(←ものすごい飛躍)、どんな状況においても自分を見失わないためには、自分が制御可能な、内的な宇宙(精神世界)の範囲でしか戦わないこと。その外の世界のあらゆる価値基準に引っ張られないことが大事で、

イコール、自分がすべてを制御していることが大事だと思います。それを短い言葉で言い換えると「自己決定」になるのです。

…これ、何か言っているようで何も言っていない=トートロジー(同語反復)ですかね?(しかし僕は最近、もしやすべての言葉はトートロジーなのではないか?と思ったりするのです!)

言葉なんてものはどうとでも解釈可能であって、それ自体では風に飛んでいく薄っぺらい紙のようなもの。語られたことは、常に、真実であると同時に嘘である可能性がある。

それは相手がペテンだとかそういう話ではなく、言葉の解釈の権限が常にこちら側にあるという事実によるものです。言葉とは、こちらの解釈次第で、ホントにもウソにもなり得る万華鏡のようなものなのです。

たとえば机の上に一冊の本があります。(話をややこしくしないために、それはイメージしたものではなく、そこに重みを伴って実在しているとしましょう。)

そして、その本にはとても高尚なことが書かれています。(何をもって高尚なこととするかも話をややこしくしないために横に置いておきます)

さらに、その本を手に取って、A男くんが読んだとしましょう。A男くんは高校生で、あまり本を読む習慣がありません。高校生だから、世の中のことに関してもひじょうに経験値が浅いです。だから、A男くんの内的宇宙のボキャブラリーはかなりの貧困状態であります。

A男くんの反応はいくつか予想できます。ひとつは、本を一部あるいは全部読んで、感動し、精神性の高まりを感じるパターン。

次に、本なんか興味ねえぜと開きもせずに、スマホに熱中し出すパターン。

他にも、本を一生懸命に読もうとしても漢字が分からなかったり、内容をうまく理解(これも主観的な問題ですが)できなかったりして、自信をなくし精神を病んでしまう場合などがあるでしょう。

では、この3つの中で、どのパターンは自己決定なのか?それを考えてみましょう。

まず1つ目のパターンは、一応、自己決定した感じがします。なんにせよ本を読んだのですから。

2つ目のパターンは、完全に自己決定です。本を読まずに、スマホをいじり始める。これも立派な自己決定。

3つ目のパターンはどうでしょう。これは自己決定をしたと言えるかは微妙です。少し考えてみましょう。

本の内容を理解できなかったことはこの際、問題ではない。だって、2つ目のパターンなんて、読書を放棄してしまったのに、自己決定能力は認められたのですから。

3つ目のパターンにおいて問題なのは「精神を病んでしまったこと」でしょう。

精神を病んだということは、自分自身を失ってしまったということです。ならば、たとえ本を真面目に読んだとしても、自己決定に失敗しています。その時A男くんは、自分という船の舵を取れなくなり、制御できなくなってしまったのです。

こんな簡単なことに、意外に多くの人が気付きません。僕は今の日本では、苦しいことを続けることが、自己決定能力だと思っている人が多いように感じます。それは完全に間違いであることが簡単に証明されてしまいました(!)

(厳密には、山登りや滝行など、自分から選んだ苦しみであればそれは自己決定の結果なのだから良いのです。)

自己決定に関する答えは極めてシンプルなのです。ひとことで言えば、

自分が常に、絶対的優位に立てるように、屁理屈をでっちあげること。

これさえできれば、基本的に余計なことに迷うことはありません。

余計な迷いというのは断つべきです。仏教では煩悩と呼びます。

もちろん迷うことが悪いことではありませんが、人生、どうせなら「あれもやりたい、これもやりたい」と妄想を膨らませながら「楽しいことで」迷いたいわけじゃないですか。僕はいつもそうするように心がけています。

つづく







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?