コロナのち鬱のちゼロスタート【激戦編】
【謎のウィルス襲来】
僕の修行時代の恩師(前職の社長)はこう言った
「飲食である程度リッチになるなら3店舗はやれ。」
僕はひたすらになんの疑いもなくそこに向かっていた。やれやれ、4年かかってやっと2店舗目だ。でも3店舗まであと1店舗になる。法人化や社員雇用、顧問税理士など2店舗目までのハードルは意外と高かったが、これが出来上がればあとはタイミングで3店舗は時間の問題だと思った。そうだ、ゴールがようやく見えてきた。
2店舗目は今までの和食店とは異なり焼肉業態だった。業態開発は未経験だが、前職の上司がやっているのをずっと傍で学んでいた。テーマは「働き方改革」を遵守できて尚且つ利益率の高い業態だ。
「働き方改革」とはつまり労働者に「いつまでも長時間労働してないで、もっと人生にゆとりを持とうぜ!」という大義の下に、「雇用主は労働者の月残業時間を40時間以内に収めなさい」と言う雇用主に対する新しい法律のことだ。違反者は30万以下の罰金か2年以下の懲役刑が課せられると言う罰則付きの法律だ。
それまでの我が社の実績は月残業時間は平均70時間を越えていた。残業の人件費としても利益を圧迫して来ていたので、法令遵守で月残業40時間は社の命題だった。
ただこの命題もしっかりクリアできる業態が立ち上がった。これで勝負できる!
なんて思ってた。あんな事になるまでは・・・
「人の噂も75日、もうそろそろ皆んな飽きてくるよ。」
連日、報道されるフェリーの感染者情報に半分嫌気がさしながら朝の朝礼時に僕が言った言葉だ。
2020年2月 我々は念願の姉妹店をオープンさせ、来たる歓送迎会・お花見・オリンピック・夏の観光シーズン・秋の松茸狩りそして忘年会と息つく間もないであろう一年の商戦の始まりを迎えていた。
しかし、やはり気になるのは連日の報道だった。武漢から始まったコロナ騒ぎは瞬く間にヨーロッパに広がり、アメリカに広がった。
日本も東京でちらほら感染者が出ていたが、まさかこの長野県の山の中まで大騒ぎになるとはその時は想像すらつかなかった・・・
【謎のウィルスパニック、潮目の変わった瞬間】
2020年3月上旬
安倍首相から全国の小中学校に休校要請が出された。ここ長野県ではまだ感染者は北のほうでちらほらという状態だったが、長野県で一斉休校を決断した時から各役所のご予約が全てキャンセルされた。田舎では世間というものがより身近な社会という事もあり、地元の企業も一斉に右にならえでそこから2週間はキャンセル電話が殺到する。電話が鳴り止んだ時にはまっさらな予約台帳が残っているだけだった・・・
2020年4月
緊急事態宣言が発出されイートインの休業を余儀なくされ、テイクアウトのみの消耗戦が始まる。消耗戦といっても、最初からわかっている負け戦だ。今までの売上の6割以上が地元住民の単価5000円程度の宴会で支えられていたが、それがすっぽりとなくなり、単価1000円程度のテイクアウトでは同じ売上を望むなら2倍以上の人員が必要になる。しかし現実は山の麓の一軒家レストラン。そこまで足を運んでくれるお客様はそうはいないし、そもそも2倍の人員を抱えたら売れたとしても赤字だ。だから最初からわかってた。これは負け戦だ。
完全に休業にして雇用調整助成金で雇用を守るなんて選択肢もあったがそれは選択しなかった。飲食業というのは超労働集約型なので社員は安い基本給に残業代で基本給ぐらいの(時にはそれ以上の)額を稼いでいる構造になっている。助成金で保障されるのは基本給と交通費ぐらいなので100%保障したとしても社員給与は途端に半分以下になるからだ。それでは彼らの生活は守れない。
2020年5月
いつもならGWで猫の手も借りたいぐらいの時期だが、田植えの弁当で盛り上がった程度のGWになった。それでもいくつも新しいテイクアウト商品も投入し、市で発行したお食事券喚起もあって全体では250万の売上を叩き出した。一日平均100個の弁当を売り切ったのだ!この山の麓で!
これで利益が出ていれば美談なのだが、結果-150万の赤字・・・
やっぱり、わかっていたけど「負け戦」。これが現実。
2020年6月
その現実を変える為、色々な書籍、セミナーを買い漁る。ホリエモンの書籍を見ていたらアマゾンがオススメして来た。革命のファンファーレ?キンコン西野?とりあえず購入。
食い入るように見た。なんじゃこの人?芸人か?面白ろ過ぎた。色々なマーケ本を見ていますが、現役バリバリで現在進行形で結果を出し続けるその鮮やかさにすっかりハマる。必然的にオンラインサロンに入会、やばい!毎日面白い。。。
あ、僕の強みと弱みをひとつお話しします。「行動力」です。
良くも悪くも見切り発車します。周りは振り回されます。
周りの皆さんごめんなさい。
2020年7月
両店イートイン再開、ここ長野県は未だ第二波の影響なく、良い感じでイートインが動き始める。サロンに入って、サロンメンバーに地元の和牛農家さんがいる事がわかりご縁が繋がる。彼と牛を一頭買いとるプロジェクトをいつか実現したい。再開したイートインに加え、3ヶ月間テコ入れしまくったテイクアウトも好調で両店で月商600万、イートインの影響やはり大きい。
結果、プラス100万円の黒字!今年2回目の黒字を記録!!
2020年8月
ついに第2波が到来・・・地元の病院で感染者が出て、デジャブのような悪夢再来。先ずは市役所関係のキャンセルそして右にならえのキャンセルラッシュ・・・いつまでこんなウィルスに翻弄されなきゃならない!!
【自分の給与は自分で稼ぐ。】〜スタッフとの亀裂〜
コロナ以前から僕は会社の財務状況を月次で社員に共有するようにしていた。自身の役員報酬も含めて全部開示している。狙いは我々の日々の活動がどの部分に直結しているかが見えれば、どこが上手く行ってて、どこが問題かがわかり、各々が自分で自信を深めたり、問題意識を持ってくれると思ったからだ。全員で経営に参加してもらいたいというのが僕の思いだ。
そして、社員全員に入社時にこう伝えている。
「会社から給与を貰うという感覚は捨てて欲しい。あくまで自分の給与は自分で稼いでくれ。」
【わかってても止められない悪循環】
どんなビジネスでもそうだと思うが、売上が好調な時には人手不足や、トラブルがあっても、とにかくポジティブバイアスが働くので、いくら重労働や、大きなトラブルに見舞われても、それすらも楽しみながら乗り越えて行ける状況になりやすい。キャッシュが動くので、新たな投資(チャレンジ)も出来るし、実際に場数をこなす事で、生産性も良くなり、人も育つ。いったん好循環が生まれると、その店と店長のキャパシティーの限界まで好調はつづく。
なので、結論からすると「売上」が全てを解決してくれる。それは、裏を返せば売上がなくなれば全ての歯車が合わなくなることも意味した。
2020年3月からの赤字転落でその好循環も途絶える。4月にはイートインの完全休業でアルバイトさんは勤務0になった。雇用調整助成金は非正規労働者(アルバイト)にも適用される特例が出たので迷わずアルバイトさんへの給与の60%を休業手当として補償した。いつ終息するかわからないが、終息が現実的になれば必ず彼ら(アルバイト)の力が必要になるからだ。
助成金は3ヶ月遅れで振り込まれるので、自前のキャッシュは相当減るが今はそれで耐え凌ぐしかない。また、社員も時短休業を行って100%の補償をするが、社員に関しては以前言った通り、残業代が無くなれば収入は半分になってしまう。
いくら副業大丈夫だと言っても、限られた時間の中で、本業優先の条件があれば、中々短期で都合の良いアルバイトなどこの田舎では探しにくい。そこで、一人一人面接をした上で、生活に必要な必要最低限の額まで会社から手当を補填することにした。アルバイトさんもそうだが、V字回復を諦めないなら彼らの力は絶対に必要だからだ。
上記の理由で全てを削り倒せば、赤字幅も50万程度まで圧縮できたが、その選択肢は選ばなかった。(それが正解かどうかはわからなかった)
それが、僕のスタッフに対してできる精一杯の感謝と誠意だった。
「こんなにしてあげてるのに・・・そこに魔が潜む」
とは仏教の教えの一節だ。この一節はこの世の中に人として人と関わり生きる上で非常に興味深い教えだ。人は人に尽くせば尽くすほどに見返りを心の中で求め始める。尽くしても尽くしても相当な見返りがなければ、それは「不満」と言う感情を生む。
当時の僕も社員を守る。スタッフを守ることで手一杯だった。打てる手は全てやってきたつもりだ。だがどうだ?年を跨いで2021年になっても状況は何も変わらない。売上という大きな燃料を失った店からは活気が消え、焦燥感が漂う。一度回り始めた悪循環はどうにも止まらなかった。
業務が減るので口数も少なくなり、すれ違いは徐々に増し、店への不満、僕への不満が当回しに耳に入る。みんな最後は自分がかわいい。そういうことさ。
そうやって溝は深くその傷口をえぐっていく・・・
【アイディアが溢れてくる。】
そんな状況でも持ち前のバイタリティは発揮され、テイクアウトで頂点に立つつもりで色々な角度からアイディアを練りに練り実現してしてゆく。結果の良し悪しはあったが全てがデータだと思えば全てが成功だと言える。そうなってくるとPDCAはもはや遅すぎる。それに対応できるのが「PDR」P(プラン)D(実行)R(評価)のサイクルだった。
設計し、各業者に発注し、店内に落とし込む。周りのスタッフもついて来れるのがやっとと言う状態が続く、ただそれが絶え間なく続くと誰もが疲弊してくる。当たり前だ。
ただ、止まれば売り上げも鈍化するのも目の前にある現実だ。
僕が止まればそこで終了となる。
だから僕は打ち手を緩めなかった。半年先まで前倒しして、企画立案、設計、店舗共有、業者に発注、微調整のサイクルが回っている。それと同時に半年前の企画を実行した結果が出てくるのでその結果を評価しながら直近から半年後までの企画の微調整をする。
思えばコロナが直撃してから何をしても100万単位の赤字が続き、このままじゃ店も従業員も守れない現実に手詰まりを感じていた、それでもどこかに打開策があるんじゃないかと信じて、書籍を読みあさっていた。そんな中手にした「革命のファンファーレ」がこの半年を変えることになる。実際はkindleだったが、目からウロコの内容と独特の西野氏の語り草に引き込まれたのは記憶に新しい。
これだ!と思うととことんやる性格なので、当然すぐに影響されまくり、見よう見まねで転用しまくった。結果が出なかった事、失敗もたくさんあるが、あの時と違うのはあの時感じていた「手詰まり感」がない事だ。次から次へと「気づき」や「アイディア」が降ってくるので、ある種の「転用脳」みたいなものが育ちつつあるのが自分でもわかる。実は一番サロンで恩恵を受けてるのは僕らのような者なのかもしれない。
気づけば、店を救う、従業員を救うという目的と、西野氏を応援するという目的がごちゃごちゃになり始めている。多分、大きな(無謀と思われた)挑戦を信じて信じて進めている西野氏の姿を、なんとなく自分自身に照らし合わせているのかなと思う。(皆さんもそうですか?)だからどうしても大成功を収めて世界中で大ヒットして欲しい。させたい。
大きな7万人も乗ってる船の船尾を追って、10人定数の我々の小さな船もまた
信じて、信じて、進む。
【予想外の幕切れ。】
その一方で社員との確執はさらに深まっていく事になる。つくづく思うが立場が違うと見える風景も感じ方も全く違うもんだ。それは仕方ないと割り切らなければならないとも思うが、僕はまだまだ未熟者ゆえ、理解してもらえない鬱憤をまた社員にぶつけてしまう。
こんなに(雇用を)守ろうとしているのに何故できない?
こんなに考えているのに、どうしてそんな態度が取れるの?
こんなにしてあげているのになぜ?なんでそれを理解できていないの?
それが繰り返されるごとに怒り、悲しみ、孤独を感じた。
気づけば1人孤立して、自分が何の為に頑張っているのかわからなくなって行く。
ある時思った。
あれ?繋ぎ融資を2500万も受けて、今なお奮闘しているのって何の為だったっけなあ?
「守ってあげたい」っていつまで思っていたんだろう?
こんな打てど打てど響かない太鼓を叩き続ける意味って何だったっけ?
僕はいつの間にか「守る理由」を何処かに置いて来てしまったようだ。
そして決断した。「店を畳もう」
父の代から続いた28年の歴史をもつ店を閉店することにした。最後の務めとして社員には有給を全て消化し、雇用保険を次月からもらえるよう「解雇」と言う名目で退職してもらうことにした。
決断から1ヶ月、たくさんのお客様に惜しまれながら店を閉店した。
ただその時点ではまだもうひと店舗は続けるつもりでいた。働き方改革に対応したその新店舗は幸か不幸か僕1人でも何人かのアルバイトさんがいれば悠々回る設計をしていて、しかもこのコロナ禍でも利益が出ていた。
“涙が止まらない”
先の店舗を閉店し最後の店舗掃除をする日、これまで溜め込んできた感情が溢れてきた。今までの軌跡、楽しかった事、夢を語った事、あんな事こんな事本当に沢山たくさん溢れ出てきた。
涙が止まらなかった。何十年ぶりの涙だろう。
これで良かったのか?もっと違う方法があったんじゃないか?どうしてこんな事になってしまった?
涙で声が出なくなった。
心が壊れ始めた。あるいはもっと以前からとっくに壊れていたのか?
それは自覚症状として平時ではないからと言う状況がそうさせているんだろうと思っていたが、それにしてもあまりにも感情が制御できないでいた。
自分でも制御が難しいその状況に、心療内科の予約をした。3日後だった。
そこから2日間の記憶は定かではない。事実としては1人で名古屋と東京に行った。喪失感で押し潰されそうだったことだけ覚えている。本当にこの苦しみから解放されたかった、逃げたかった。「死」も頭をよぎった。
3日後、かろうじて帰って来た。涙は枯れていた。心療内科に指定された時間に向かった。
心療内科で経緯を先生に話し出すと、またもや涙が溢れてきた。枯れたと思っていた涙は枯れてはいなかった。泣きじゃくりながら無意識に出てくる感情を話した。話した。その後別室連れていかれた、看護師さんが寄り添ってくれている。すると看護師さんに向かってまたもや泣きじゃくりながら話した。涙と鼻水が止まらなかった。
しばらくすると、先生の判断で近くの精神病院を紹介され移動。
到着すると、病院の当直の先生にまた泣きじゃくりながら話す。付き添いの看護師さんも泣いていたのを思い出す。
結局「重度のうつ病」と診断され、その場で即「保護入院」と言う事になった。
病室は真四角の空間に布団と便器のみの24時間監視されると言う「保護室」と言う部屋だった。便器にさえドアや仕切りがなく、1日3食鉄格子越しに与えられるような外部から一切が遮断された空間だ。拘置所に行ったことはないが、独房といえばそれ以外の例えはないような部屋だった。
そこから3日間、僕は布団に入り天井を見上げながら休んだ。こんなに何もせずに休んだ事は生まれて初めてだった。休むとはこう言うことを言うのかなあ。なんて思いながら徐々に心が落ち着いていく。
3日後、初めて主治医の先生が鉄格子越しに面会に来てくれた。一通り自分の病状を説明していただいた後、僕は一番気になる質問をした。
「先生、僕はいつ頃退院できそうですか?」
それはまだ生かしてあるもうひと店舗の再会準備や休業中の告知文などを手配しなくてはならなかったからだ。シフト組みしたアルバイトスタッフにも予定変更を伝えなければならなかった。いわゆるショック状態は抜け出していたので冷静は取り戻している。後3日ぐらいか?それとも1週間?2週間だと色々な調整が必要だ。
先生は穏やかな表情で答えてくれた。
「一般的には3ヶ月の入院が目安になりますが、個人差があるので目安としか言えませんが。」
頭の中が真っ白になって行くのがわかった。「3ヶ月」と言う時間は僕にとっては途方もない時間に感じられた。そして、身体中から力が抜けた。辛うじて張っていた蜘蛛の糸ほどの緊張も切れた。そして全てを諦めた・・・
降参だ。コロナに負けた。
「そうですか・・・わかりました。」そう答えた。
だが心の中ではこう言ってた。
「そうですか・・・観念しました。全てお任せします。」
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