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神様に嫁さんを寝取られてシングルファーザーになった話 その12

こんちわ。
東京で映像クリエイターをしているKENと申します。
先にお断りしておきますが、このnoteは自分自身のメンタル上のリハビリを目的としています。
認知行動療法とかいうやつじゃないかと思います。


あちこちに相談したり、財産分与や養育費の話もまとまり、ついに離婚が成立する。
だがもう一つ大きな問題があった。

両親への報告だ。


ついに離婚届を提出した

12月も終わりの頃、僕はついに妻と離婚した。
サインするのが本当に嫌だった。

どうしてこんなことに?
と何度も自問自答しながらサインした。

これで6年間の短い結婚生活が終わってしまった。
そういえば入籍も年末の同じ頃だった。

暗澹たる気持ちだった。
涙がにじみ出た。
しかも出家するとは。
何度も話し合っていたはずなのに全然現実感がない。

元妻は、というと、僕がいつまでもサインしないからとイライラしていたと思う。
サインした離婚届は妻が市役所に提出しに行った。

こうして離婚は成立した。


両親に報告するのだが

ここからがまた大変だった。
実はまだ両親に離婚のことを話していなかったからだ。

これには事情があって、
僕の実家(沖縄)に住む母は脊柱菅狭窄症という病気で11月に手術をする予定だった。
なので、余計なストレスを与えたくなくて手術が終わって落ち着いた頃に報告しようと思っていた。

ところが、
沖縄でのコロナ感染者が爆発的に増えてしまい手術が延期になってしまったのだ。
手術の予定は一ヶ月ほど伸びて12月の上旬になった。

しかし、母の手術は無事に終わったが、別の問題が発生していた。
脊柱菅狭窄症の手術の前に行った検査によって心臓に狭心症の問題が見つかり、追加で心臓のカテーテル検査を行うことになった。
それが12月18日だったのだが、その日母は検査中に心肺停止してしまった。

緊急でICUに入り心肺蘇生が行われた。

一時は同伴して外で待っていた父親も手術室に呼ばれて声を掛けていたそうで、危なかった。
なんとか蘇生は成功したが、まだこの時点で僕が離婚することは知らずにいた。

結局ずるずると母の入院も伸びてしまい、5日後の12月23日に母に離婚を報告した。


母について

僕の母は結構厳格な人だ。

あまり冗談も通じない堅物でやたらとエレガントであることを好む。
これは戦中に産まれて沖縄戦で荒廃した環境で育った人としては珍しいタイプだと思う。
ご先祖的には首里から派遣された官吏(役人)だったらしいが、自身は完全に極貧状態で育っている。
沖縄戦で父親も戦死しているし、写真も無いので父親の顔も知らないそうだ。

沖縄。おそらく1950年ごろの母。僕の娘に瓜二つだ。


高校卒業までは天真爛漫なピアノ好きというだけで何も考えてなかったと母は言っていたが、高校卒業後から米軍で働き、後に結婚する父と出会い家庭を築いた。

高校生くらいの頃


当時としては珍しく晩婚で(28歳くらい)結婚し、兄が産まれた。
兄が産まれても仕事をしていたようだが、僕が生まれる前に二度流産も経験している。
そういった経緯もあって僕を出産する前には仕事を辞めている。
ちなみに僕の名前は漢字で健康の「健」だ。この由来は母には聞いていないが、流産の経験があったからだと思っている。同時に英語圏でも通じる名前としても選んだようだ。(英語でKENは普通にある名前)


僕が12歳ごろになると米軍での仕事に復帰し、(それまでもパートや自宅でピアノを教えていたりした)それ以降はバリバリのキャリアウーマンとして働いていた。
米軍なので当然英語も独学で学び、高卒だが高ランクのグレード6まで出世して契約業務をしていた。(ちなみにグレードは7でチーフになるらしい。課長クラスかな?)90年代の初頭ですでにE-mailを利用してたと思う。
さすが米軍。ARPANetだろうか?
さらに一人で家事も育児も休まずやっていたので、かなりのスーパーウーマンだと思っている。
兄は、「結婚してなかったら一角の人物になっていたかも」と言っていた。

そんな母が「出家するから家族を捨てて離婚する」という僕の元妻と相対する。

母 VS 嫁

母は退院したばかりだったのでお見舞いでもあった。
いつものようにiPadのFaceTimeでつなぎ話した。
一度は心肺停止した人とは思えないほど元気そうだ。

体調の話を一通り聞いた後、いよいよ離婚の報告をした。

当然母は「!?」となり、一気に不機嫌になった。
耳を疑ったかのようにも見えた。
しばらく沈黙があってから僕の説明を聞いた。

母はじっと画面の先の僕を見ながら話を聞いた後、(元)妻を呼び出した。

そこで彼女からもう一度事情を聞いた。
そして僕に何か問題があったのかも尋ねた。

彼女は僕の母の表情を見て察しているのか神妙な面持ちで説明していた。
僕についても原因は無く、とても良くしてもらっていると答えた。


いつも僕にガミガミと口うるさい母が、

「このことについては、あなたに苦言を呈さないといけない」

と、驚くほど落ち着いて彼女にこう言った。
そして僕が今まで見たこともないかしこまった言い方で

(彼女の実家に僕と娘が世話になるとしたら)
「実家の皆さんには、どうぞよろしくお願いいたしますとお伝え下さい」

と言った。
この言葉は僕にとってとてもショックだった。
文字にするとわからないと思うが、沖縄方言イントネーションでの最上級の謙譲語で彼女に頭を下げた。方言といっても言葉自体は標準語だけど。

母がこのような言い方をするのを僕は初めて見た。
(元)妻はこんな理不尽な事をしておきながら誇り高い僕の母に対しても頭を下げさせてしまった。
僕は母のプライドが傷つけられたのだと思った。
とても悔しかった。
僕はなんて親不孝なことをしてしまったのだろうか。

電話のあと、その事を彼女に話した。
しかし彼女はわかっていない。
いや、わかっていないのではなく
考えないようにしている様に見えた。

完全に何もかもを振り切って出家に逃げ込むのだという意志を感じた。


そしてこの日の一週間後の大晦日、母は脳梗塞で緊急入院した。


憂いの大晦日、喪中の元旦

離婚が成立し、実家にも報告し、すべてが終わった年末は不思議と穏やかに過ごしていた。
家族三人での最後の大晦日もそのように過ごすはずだった。

しかしお昼が過ぎた頃、兄から連絡が来て母が脳梗塞で緊急入院したと知った。
かろうじて症状は軽く左手が動きづらい状態程度までには収まったようだ。

僕は離婚を報告した時の母を思い出し、胸が締め付けられる思いがした。

僕の家族は結局大晦日は病院で過ごすことになってしまった。
僕のこともあって年越しぐらいは豪勢に焼き肉でも、と和牛を用意していたようだがそれも無駄になってしまったそうだ。

後から聞いた話だが、やはり母は離婚の報告を受けた後、かなり落ち込んでいたらしい。
心労というかストレスが原因なのだろう。
手術と蘇生と退院明けだったというのに本当に申し訳ないと思う。

そんな状態で年は明けた。

翌日の元旦。
元妻の実家と祖父の家に挨拶に行く。
元妻の父親が亡くなったばかりの喪中なのでみんなで集まって新年を祝うということはしない。
お年玉も内々でという事になった。
また、元妻(と僕)が離婚したので祖父の家にはその報告をするのかと僕は思っていた。

しかし彼女は全く話に入ってこなかった。
というか祖父とも挨拶ぐらいしかしなかった。
叔父にも何も話さなかった。

皆が集まるリビングではなく家の端の廊下に一人でいた。

彼女はどうしてこんなにも義理や礼を欠くのだろうか。
義理の関係である僕が祖父や叔父らと話をし、血のつながった彼女は遠い所で何もしない。
何かやましいことをしている意識でもあるのだろうか。

僕らの娘もお世話になっているというのに、本来なら報告しなければならないはずだ。
義理の叔母には彼女の母親からの連絡があったそうなので、おそらく祖父達は離婚のことを知っているのだと思う。
それでもきちんと報告をするのが筋のはずだ。

たしかに元旦で親戚一同が集まっているという状況でめでたくもない話をしたくない、というのはわかるのだけど。

僕が話をしてもよかったのだが、義理の関係にある僕が話すのもなにか違う気がして、結局新年の挨拶だけとなってしまった。


僕はやはり彼女が卑怯な人間なのだと思ってしまうのだった。



そして翌日の正月2日。

彼女は大きなスーツケースを持って僕との娘の前から去っていった。


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