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ひとり親パパと娘のふたりきりな日常の話 その5

こんちわ。
東京で映像クリエイターをしている
1児のシングルファーザーのKENと申します。

シングルファーザーになるまでのお話はこちらから

市役所に行って様々な手続きを終え、提供されているサービスも確認したが、なかなか自分の仕事とはマッチしない。
あまり一般的な事例ではないのだろうから仕方がないのかもしれない。
けれど僕の仕事ではなくても世の中には夜中までかかる仕事もあるし、土日仕事をしている人だっている。
夜勤をしているお医者さんや看護師さんだって大勢いるし、消防士さんや警察官だって夜も働いている。
近所のコンビニでもそうだ。
そうしたエッセンシャルワーカーの人たちは一体どうやって対応しているのだろう?


1月と2月の日々

1月は手続き関連の雑事をこなしつつ、しっかり仕事もあった。
年初のお仕事で娘を仕事場に連れて行って大変だったので、状況が落ち着くまでリモートワークをすることにした。
幸いなことにお仕事の依頼をたくさん頂けて、当面の生活費はなんとかなりそうだったが、完全ワンオペ生活になったので日々の家事に冬休み明けで幼稚園に通う娘のお弁当も作っていた。

これは今日作ったお弁当。だいたいこんな感じ。

前にも書いたような気がするけど、実際家事や育児はそこまで大変ではない。
そもそも僕だって結婚前までは20年くらい一人暮らしだったし、料理も掃除も洗濯も当たり前にできる。
育児だって乳幼児ならともかく幼稚園生になっている娘の面倒を見るのは難しい事じゃない。
大体失敗したって誰にも怒られないし、ギャラが下がるとかって事もない。
一ヶ月前までウチにいた専業主婦はワンオペがどうとか言っていたけど、一体なにが不満だったのか、いまだに訳がわからない。こんな楽なことだけやって生活も保障してくれるなら最高だと思うのだけど。

これを読んでいる専業主婦の方でなにか不満があったら是非教えてもらいたいです。

なにはともあれ1月は家事・育児・仕事・手続きに加えてこども家庭支援センターにでかけたり、就労支援相談に話を聞きにいったり、オンラインで「ひとり親支援センターはあと」のズーム起業相談を受けたりしていた。
市に出張しているハローワークにもダメ元で話を聞きに行ったし、落ち込みまくっていたから精神科医支援相談
ついでに2020年のコロナ禍の頃からなんとなく始めてた映像編集のコーチングのバイトもやっていた。

そのままの忙しさで2月に入り、さらに忙しくなった。リモートワークだからというのもあるけど、一日3〜4件はこなしていた。
先の見通しも立ってないし、仕事があるうちはすべて受けるようにしていた。

そして2月の確定申告が終わる頃になってようやく実家に帰ることにした。

沖縄への帰省

前にも書いたとおり、離婚の報告をした直後に母は脳梗塞を起こして入院していた。
詳しくはこちらから↓

本当は年が明けてすぐに実家に帰りたかった。
元気であればどうせリモートワークしかできないので沖縄で娘の面倒を見てもらいながら仕事をしようと思っていたのだ。

しかし母の体調が良くないし、娘の面倒なんて到底無理だと思っていたから控えていた。
2月も終わりにさしかかり、母の体調も戻ってきたそうだ。
娘の春休みもあるので先行して幼稚園はお休みにして帰省することにした。

1ヶ月ほど帰るつもりだったので着替えや編集機材、念の為に確定申告関連の書類も用意して実家の沖縄へ向かった。

父が那覇空港まで迎えに来てくれて実家まで帰ったが、僕は長距離の移動に疲れ果てていたのだと思う。
僕のやつれた顔を見て、母は再び倒れた。

帰省早々に救急車を呼ぶ

母は顔面蒼白になり、かろうじて救急車を呼ぶように僕に言った。
事態を察して急いで僕は救急車を呼んだ。
僕は今まで救急車を呼んだことは無かったし、帰ってきていきなりだったからすっかりテンパってしまった。

一応住所はわかるので伝えたが、救急の担当者から「その住所のどの建物か?」と訊かれた。

僕は意味がわからず一軒家だと答え、もう一度住所を伝えたが、担当者は目印はないかと言ってくる。
後で知ったが実家の住所の区画はすべて同じ住所だったのだ。
考えてみれば今僕が住んでいる八王子の住所も同じだ。
いきなり目印は?と訊かれてもテンパっていた僕は思いつくことができず、外に出て誘導することにした。

また、母が最近まで入院していた病院に向かってもらう必要があったのでその病院を伝える必要があったが、僕はその病院を知らないし、苦しそうにしている母から聞いて伝えるが、救急車にうまく伝わらない。

緊迫した状況に娘も心配になり、外に飛び出した僕について来る。
あたりはもう暗くなっていたので娘には外に出てもらいたくなかった。
一方で母は苦しそうにサイレンを鳴らさせるなと言ってくる。
近所で騒ぎになるのが嫌だったのだろう。

もうしっちゃかめっちゃかで近所のオバサン達が様子を見に来るし娘は半泣き状態になっている。
遅れて母が父に支えられながら出てきて救急車に乗っていった。
父は付き添っていった。

僕はそのまま娘と二人で実家に残った。

沖縄での休日

1日入院してなんとか回復した母は帰ってきた。
母によると帰った来た僕のやつれ具合にショックを受けて心労によって具合が悪くなったようだ。

あの元気だった母が・・・と思いつつ、実際心配かけたのは僕なので申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

とはいえ、自分も娘も元気で問題ないと伝えたら少し落ち着いたようだ。
母はそれから一週間ほどはぐったりしていたが、徐々に元気になってきていた。

僕は、というと仕事もあったが、娘のリフレッシュも兼ねて遊ぶことにした。
母からクルマを借りて沖縄をドライブする。

海に行ったり北谷町の美浜を見て回ったり。
海洋博記念公園と美ら海水族館も見てきた。

海洋博記念公園には「ちびっことりで」という巨大ネット遊具エリアがある。

海洋博記念公園の「ちびっことりで」この写真の4倍くらい広い。


僕が子供の頃はまだ小さすぎて遊べなかった広場だが、娘にはちょうど良かった。
大人が遊ぶところではないが、極力近くで見守っていた。
娘は一人で遊ぶのがつまらないらしく、片っ端から他の子どもに話しかけていた。

僕の娘は全く人見知りをしない。
むしろ鬱陶しくらいにに絡んでくる性格だ。

ところが残念ながら話しかけた子どもたちはみな兄弟や友達と一緒のようで僕の娘とは遊んでくれなかった。
たぶん10人くらいには話かけていたはずだ。

美ら海水族館ではさらに困ってしまった。
同い年ぐらいの男の子がいる、よその家族に娘がやたら絡んでしまったのだ。
男の子にべったりつきまとい、一緒に遊び始める娘。
さらにその男の子のママさんにもベタベタと甘えていく。
ママさんは苦笑いしていた。
子どもだからかせっかくの水族館を凄い勢いで走り抜けていく。
気になった展示を三秒も見ればすぐに先に進んでいく。
その男の子も僕の娘も暴走しているものだからママもパパも僕も止めにくい。
美ら海水族館自慢の大水槽なんて止まりもせずに走り抜けていった。

せっかくのんびりと堪能したかった美ら海水族館(2180円)は15分くらいで終わってしまった。

美ら海水族館を出た他所様の家族に娘はさらにつきまとう。
僕が制止してもまったく聞く耳を持たない。

「ちびっことりで」や「美ら海水族館」でやたらと人に絡んでくる娘を見ながら僕は娘になにが起こっているのか考えていた。

母親が去っていった時の大泣き
その直後の立ち直り
他の子どもへのしつこい絡み方
他の子どもの親にも甘える

離婚前には娘のこんな様子は見たことがなかったと思う。
僕と妻と娘の三人の時だったら娘はそんな暴走はしなかったし、したとしても僕は止めていた。
でも今の僕は無邪気に暴走して遊ぶ娘を止める事ができなかった。

「オキちゃん劇場」で娘が絡みまくっていた親子を撒いた…いや撒いてもらった僕と娘は海洋文化館や熱帯ドリームセンターを見て回った。
夕方になり人も減った海洋博記念公園はあまり娘には面白くなかったと思う。

その日の帰宅は結局夜中になってしまった。
中部にある実家は美ら海水族館のある北部からはかなり遠いのだ。

沖縄での仕事

機材を持っていったので沖縄でも仕事はできた。
実家は一階が両親が住んでいて、二階には兄が住んでいる。
要するに二世帯住宅みたいな状態だ。

最初は一階で仕事をしようと思っていたのだが、思いの外娘の妨害を受けたりネットが遅いなどの理由で無理を言って二階の兄の家で作業をさせてもらっていた。

そして仕事はいつも使っているデスクトップ機ではなく出張の時に使うノートPCなので、

自宅じゃないのにリモートワーク

という謎なワークスタイルになってしまった。
そんな状態でお客さんとのズーム会議なども行っていたが、娘が二階にまで上がってきて騒ぎ始めた。
回復したての母には娘を止めることはできなかったようだ。

会議中にそれをやられたので対策を考えた。
気分転換も兼ねてシェアオフィスでも使ってみることにした。

howliveさんのコワーキングスペース
フリードリンクもありました

シェアオフィスはキレイなところでフリードリンクも付いていたが、あまりはかどらなかった。
なんというか仕事中のPC画面が他の人に見られてしまうのでどうにも落ち着かない。
やはり個室の方が良いかなぁと思って継続して使うことはなかった。

結局、実家二階の兄の家で仕事をさせてもらうことにした。

母の体調のこと

前年の年末から僕の母は健康に関して色々と問題を抱えていた。
僕の離婚問題でゴタゴタしている間に

  1. 脊柱管狭窄症の手術

  2. 心肺停止

  3. 蘇生

  4. 集中治療室

  5. 入院

  6. 退院

そんな事があり、退院直後には僕の離婚を知ってショックを受け、今度は心労がたたって脳梗塞で倒れてしまったわけだ。
幸い脳梗塞はそこまで重症にはならず、右手が動かしづらい程度だった。
これも現在ではリハビリである程度回復している。

そんな状態だったから心配かけることもできず今後の事はあまり話さなかった。
とりあえずこの一年をなんとか頑張ります。って事で終わった。

東京に戻る

結局仕事もしてたし娘のケアもしてたので、あまり休養を取れたという感じはしなかったが、母のお見舞いはできたので良しとしよう。(倒れたけど)

そんなこんなで4月になり娘の春休みも終わるので東京に戻った。

これからまたふたりきりの生活に戻る。
そう考えると、やっぱり心細いと思ってしまうのだった。


つづきます。

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