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書いて、晒す。

"文章を書く”
人間の欲望としては
少し不思議な感覚だと思う

お腹が空いたら、ご飯を食べる
眠くなったら、眠る
愛を感じたら、セックスをする

これらの欲望は生物として
とても素直で純粋な欲望です

しかし、文章を書くという欲望は
それとは少し違う場所にあるような気がする
ぼんやりと柔らかい場所に浮いてる感じがする

✳︎

素晴らしい映画を観たとき
素晴らしい小説を読んだとき
素晴らしい食事を食べたとき
素晴らしい景色を見られたとき
素晴らしい女性と出会えたとき

これらの素晴らしさを
誰かに話したい、誰かに伝えたい
そんな欲望は誰にでもあると思う

しかし、それらの欲望を
文章にして残したい、文章にして伝えたい
そんな行為は少し遠回りな気がする

なぜなら文章として形にするには
大きな時間も労力もかかるからだ

そんな直線的ではない遠回りの行為に
強い欲望を覚えてしまうのは
何故なんだろうと、ふと思った

たぶん、そこには対話だけでは埋められない
特別な何かがあるんだと思う

文章でしか伝える事ができない
特別な何かがあるんだと思う

文章でしか発散する事ができない
特別な何かがあるんだと思う

✳︎

対面しての会話は
表情、感情、身振り手振り
会話の抑揚、声のトーンなどなど
それだけで色々な情報が得られる

一方、文章はというと
ただの文字の羅列でしかない
かなり伝わりづらい媒体です

しかし、そのただの文字の羅列に
表情、感情、熱量、温度、トーン
色、音、味、匂い、感触など
とても深く感じられる事がある

会話よりも相手の想いを
強く感じられる事が
往々にしてある

読書が好きな人は
この感覚を大切にしてる人が
多いのかなと思う

✳︎

読むことが好きな人が
必ずしも書く行為へ向かうとは限らない
その違いって何なんだろう

何で書きたいという欲望が
生まれるのだろうかと
単純に疑問に思ってしまう

・人と話すことが苦手で
心の中に溜まった想いを
吐き出したという欲求なのだろうか?

・強いナルシシズムから
自己顕示欲として
自分自身を誇示したいのだろうか?

・強いコンプレックスから
歪んだ感情をエネルギーにして
それらを発散させたいのだろうか?

・良い人間に見られたかったり
充実した人生を送ってることを
誰かに示したいという
承認欲求を満たしたいのだろうか?


頭の中や心の中を文章にするという行為には
様々な理由があると思いますが
よくよく考えてみたら
「書いて、晒す」という行為は
とてつもなく自分本位で
恥ずかしい行為でもある

何故そんな恥ずかしい行為が
長い歴史の文化として
世界中に根付いているのだろうか

そこには人間としての
本能のような本質的な欲望が
潜んでるのかもしれない

己の欲望を満たす為に
書きたい人がいて
他人の欲望を覗く為に
読みたい人がいる

書きたい人と読みたい人が
絶妙なバランスで綱引きをしている
それが優雅で優しいと思える

✳︎

「文章を書いて自分を表現したい!」
こんなような事を言ってる人を
自分は蔑んだ目で見てしまう
そんな人をあまり信用できない

でも自分自身もこうやって
全国に向けて「書いて、晒す」を
何年も繰り返している
とても自分本位で恥ずかしい人間だ

しかし、それの何が悪いんだ!
という開き直りのような感情もある

そもそも人間なんて恥ずかしい生き物だ
強欲で、矛盾だらけで、身勝手な生き物だ

自分本位で恥ずかしくても
心から湧き出る欲望に素直になって
人間らしく生きて死んでいきたいと思う

できるだけ人間らしく
人間という生き物をまっとうしたい
だから今後も「書いて、晒す」を
繰り返していくんだと思います

とりとめのない文章ですが
頭の中の想いを吐き出して
何だかスッキリできました

そう考えると自分にとって
書くことは排泄行為に近い
そんな感覚なんだと思います

曇天の3連休の真ん中の日に
早朝、散歩をして思ったことです
産ぶ声を上げるようにセミが鳴いていた

【後記】

どこの誰かも分からない
文章を書くことが好きな人の
念の籠った文章に触れると
艶やかな色気を感じてしまう

そんな文章を読んでいると
抱擁されてるようで
愛撫されてるようで
心の粘膜が優しく摩擦される

ごく稀に勃起してしまう時がある
たぶんその文章は優れてるんだと思う
文章にはそんな途方もない魅力がある



それではまたCiao!

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