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必ず必要なことが引き寄せられる

休みの日、朝から新聞記事で、奈良県當麻寺の曼荼羅が、公開されることを知りました。
是非、行きたい。

『観無量寿経』
どうやったら極楽浄土へ行けるのか、苦しみ抜いた果ての、どうしょうもない自分のことを、救うのは、、。

解説します
當麻曼荼羅に織られた景色

インドの王様の悲話と、一晩で阿弥陀如来図を編み上げた、中将姫の悲しいものがたり、人は、昔から現代まで、世界中のどこでも、そんなに変わり映えなく、同じことをしていることがうかがえます。

ものには必ず、因果、原因があるといいます。

because 、、

知恵ある人が、こうでなきゃ、とか、こうすれば、とか条件づけをして、自分を統制しある意味縛っていくのは、悪いことが起きないように、”原因”を取り除くことが必要だと考えてしまうからでしょう。
自分を縛るだけでなく、大切な人、にも同じことを強要する場合があるかもしれません。
もちろん善意で。


こうしたいこうなりたい、こうしてはだめ、あれをしなきゃだめ、そのどれもが、欲望のまなざしで見た世界なのですよね。
それらは、煩悩というものです。

そしてそれがうまくいっているときには、自分がさも偉いと、自惚れてしまっています。
自分の力、私が言ってやったからだ、とか、してやった感を出してしまいます。
幸せの絶頂期、それも羨むほどのことではありません。


そんないいときばかりではないからです。

思い描いたようにならない不完全な自分を、本当に愛せるのでしょうか。
他の誰かと比べて、まだ不安でしょうがなくて、満足しない自分を、なだめられるのでしょうか。 

悩み、苦しみはどこからやってくるの?



お釈迦さまは、しっかりありのままを観るようにと、救済の方法を、ドラマチックに語ってくれるのです。

『やってみるといいこと、3つの善行をすること』で、救われると、教えられます。

けれど、教えられたとおりにやっても、ちっとも楽にはなりません。

ァァァ、おかしいな、私ってこんなにだめなのかな、こんなにやってるはずなのに。
こんなにつらいのに。
そんなはずないやろ。
なにが原因なの、誰が悪いの。

そもそも、私は、こんなにもちゃんとやってるはずなのに、、どゆこと?

こんな苦しいこと、おかしいやろ。
お釈迦様に問い詰めます。

そこで、答えを出してくれる存在、信用されるべく現れるのは、『信仰』です。

ブオォーーー
突然に、警笛が鳴らされます。

お釈迦様にも、不実な従兄弟がいて、あってはならない裏切りがあります。
”信じるもの”を間違うこともそのひとつ。
それは言葉巧みに近づいてきます。

欲深い煩悩を認めることは、なかなかできないものです。

都合の良い答えを選んでしまったら、悲しみを生みます。
誰かを悪者にしたところで、解決にはならないようです。

打ちのめされて、より多くの犠牲を払います。
憎しみや恐れは自分に返ってくる、そういうもんです。


ところが、心の眼が開くのは、そんなときなのです。


自分は何もできない。無力さ、悪の塊、それを知れとばかり、何度も何度も打ちのめされる出来事が押し寄せるのです。

 どうなってもいいや、もうこの世なんて嫌だ。

心の底から、全身をなげ出したときに、「ちょっと待て」、やっとお釈迦様は、微笑みます。

阿弥陀さまご来光〜

この世では見たこともない鮮やかで楽しげな景色がみえ、美しい蓮の花に乗った阿弥陀様が、目の前に現れるのです。


涙が自然と溢れ、自分は救われていることを知ります。

感謝の心は、生まれ変わった自分にほかなりません。
自分の中にこそ、阿弥陀様の慈悲があることを知り、包まれていることを知ります。

あぁそうか、全ては自分が種をまいていたんだな、それなら自分で刈り取らなければな。

こんな気持ちに、なれるなんて、喜ばしいこと。
何もかも、このために起きたことだった。
そうなのだ、ゆるそう、ありがとう、ありがとうほんとうに。



苦しまない人は、それはそれで極楽浄土が約束されています。


自分は、自分だけはきっと地獄へゆくのだな。

そんなことを受け入れられる人は、いるのでしょうか。
怖がりな私は、みんなのいるところ、きれいなところに行きたいですもん。

一人ぼっちだと、泣きたいです。大泣きです。
でも他の人も同じなら、大丈夫かな、そこにも少しくらい面白いことがあるかな?なわけないわ。

やっぱり、どうにか助けてもらおう。
助けてくださいまし。
南無、、


と、インドの王様の物語を読んで、ぼんやり考えていたら、弟から1年ぶりの連絡。

父母の納骨堂を整理したいというお話。
遠方、、というほどではないのだけれど、子どものいない彼ら夫婦にとって、この問題が、今のところ難儀らしいです。

管理費を払うか、永代供養をお願いするか、もしくは放置。
放置ってね、、。

調べると、実際、先祖供養の方法は現状は悩まれることが多いようです。

もちろんお墓参りには行くのですが。


私の子どもたちも同じことになるかもれないし、その頃にはもっと斬新な考えが当たり前になっているかもしれない。

お金にも関係します。

ご先祖様を大切に、それって、長男だけがやることではないはずですが、過度に関わると、もめることもあると聞きます。

大勢いたら大変だと、想像がつくのです。

阿弥陀様は、苦しむ人を必ず助けてくれます。

弟と、義妹のことを、どういう選択をしても、私は、認めるし、幸せでいてほしい。

相談の形で、連絡をよこした弟は実は怖がりです。
事後に、私に、そんなことしてーとか言われたら、怖いと思ったのだと思います。

言わないよ。
そんなこと。
なんにも。
そう思ってるのは、自分では。
ひといちばい怖がりで、気ままな人。

母はよく分かっていたようです。

私に、弟のこと、供養のことを委ねたことも一度もありません。

だから私も好きなようにお墓参りをします。
空を見上げて手を合わせます。
父母はいつも近くにいます。


ああ見えて、優しいとか、怖がりなんよ、とか、ほんとに?と思いながら聞いていましたが。
やはり、そうだったんですね。

話をしたあと、勢いで、墓寺には、連絡を取ったらしいです。

大変だったね。
年末のお墓参り、ありがとうね。


そうして、弟の引越し先に、お呼ばれする予定で、ついでに娘の結婚報告をしました。
なんだか希薄な姉弟関係ですが、私達は今のところ、このくらいが良いのです。

「いや、結婚て聞いてないよ、めでたいやん〜」
「ありがとう。」

めでたいついでに、納骨堂へ管理費を収めに行くと。

なんだなんだ、それは。
弟の優しさなのかな。

私たちの父母は、私達が幸せだと感じていれば、それでいいよ、というとおもうのです。

感謝しているよ。
お父さんお母さん。
まぁ、こんな感じで仲良くするね。

曼荼羅図を、見に行けたら、いいなぁってお話です。

われがわれがと、思っても仕方がないよな、そんな気持ちが、引き寄せたんだなーと思ったのでした。

なにはともあれ、救われたいと思ったときに、そばに、この言葉があれば。

南無阿弥陀仏

他の言葉でもいいでしょう。


宗教との関わりは、年々考えてしまうものですね。


曼荼羅、観無量寿経についての詳しい記事で、とてもわかり易いものがありました。

貼っておきます。

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