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「マジョリティへの配慮をマイノリティに求めるな」論について真剣に考えてみる記事。(わかりあえない真剣な話より”とりとめない話をする関係”を維持しよう)

毎月月末に記事更新が重なってしまってすいませんが、年末年始ステイホーム中のおともにお読みいただければと思います。

今日アップされるのは三本で、一つがファインダーズ連載

もうひとつが一個前のnoteで鬼滅の刃の話

そしてコレが三本目です。

今回は、「対話」について。

特に今回のファインダーズ記事のような内容を書くと、定番の反発というか、

「マジョリティへの配慮をマイノリティに求めるな。それはお前たちの罪なんだからお前達でなんとかしろ!」

的な話になるんですよね。

で、ある種欧米由来の『ポリティカリコレクトネスを守ることがあらゆる優先順位の一位に来る宗派』の人たちの間では「そういう教義になっている」のは教えてもらわなくても知っているし、で、実際に「抑圧」を感じている人が声を上げることが重要だというのも凄く同意なんですよね。

で、ネットで炎上するほとんどの「ネタ」は・・・たとえば「今日さっき見た」というレベルで言っても「嫁」って言葉に抵抗感があるとか、「お母さんだけが料理をすると思わないでほしい」とか、それ単体で見たら全然同意なんですよ。

こういう「小ネタ」だけじゃなくて労働問題とか人種差別とかもっと大きくて深刻な話でも、だいたいにおいて自分は社会不正をどうやって解決するか・・・とか真剣に考えたいタイプなので、そういう記事を普段から読んでいる方だと思います。(それがSNS内部でメチャクチャ盛り上がっている時でも、一般的認知は全然ないことが多い・・・ことには危惧を抱いていますが)

だからちゃんとジャーナリズムが機能して、色んな意見がスムーズに表出される社会にしていきたいと思っている。

ただね、なんかこう

「マジョリティ」というのは何の悩みも義務も果たさずその特権性にあぐらをかいている存在にすぎないのだから、「マイノリティ」である私たちの苦しみをしっかり勉強して理解して配慮するべきだ・・・というイデオロギー

になってしまうと、なんというか・・・

1●「全部お前たちが悪い」型イデオロギーの課題

まず違和感があるのは、

・「属性的にマジョリティ」だけど明らかに弱者な人

・「属性的にマイノリティ」だけど明らかに強者な人

みたいな構造がこの世の中にはいっぱいあるわけですよね。

日本において日本人でも不遇な立場にいる人はいっぱいいるし、「マイノリティ」属性の人でも、そりゃ多少の無理解でイラッとすることが日常的には色々あるんでしょうけど、普通に考えたら「相当な強者」である人もたくさんいる。

「不遇な人への配慮」「不遇な人に優しい社会」にしていこう・・・とする時に、「マジョリティという幻想」を果てしなくサンドバッグのように叩きまくることが最適なことなんだろうか?というのはやはり疑問なんですよね。

結果としてアメリカじゃあ「国内の半分がトランプ派」みたいになって、ポリコレ宗派の言うことを全部徹底的に反対してやろう・・・みたいになってるじゃないですか。

結果として「トランプ文化圏」世界では、どんどん「ポリコレの逆をやってやるぜ」という文化が生き続けるわけで、結果として人口の何割かは「ポリコレ的配慮の真逆な実生活」を送ることになるわけですよね。

2●人類社会のGDPにおける欧米のシェアが低下し続ける世界における「取るべき態度」とは?

今回のファインダーズの記事で書いたウェスタッドの本を読んでいると、1945年(第二次世界大戦が終わった年)のアメリカっていうのがいかに世界で隔絶したスーパーパワーだったか・・・ということがわかります。全人類のGDPの3分の1以上がアメリカだった。なんせ欧州は焼け野原だったしね。

そりゃもう、みんな心底憧れるから、何が何でもアメリカのやり方を真似しようと必死になりますよね。ジーンズ、ジェームス・ディーン、エルビス・プレスリー。

しかし、今は20%代前半まで落ちてきていて、逆にアジアの経済発展によってアメリカだけじゃなく「欧米諸国」が占めているGDPのシェアはどんどん落ちていってるわけですよ。(むしろ”先進国のシェア”が80年代の65%程度から今や4割切っているところまで落ち込んでいることの影響が大きいかもしれない)

だから「単に欧米社会における流行」を押し付けるだけだと余計に反発を受ける時代になっているわけですよね。

『欧米的理想を諦めろ』っていう話ではなくて、本当に今後もそういう理想を維持したいのであれば、もうちょっと「セールスマンメンタリティ」じゃなかった「セールス”パーソン”メンタリティ」みたいなものを持っていかに欧米社会以外でもそういう理想を普及できるかを考える人がもっと必要な時代になっているのだと思うわけです。

何度も言うけど、「今実際に足を踏まれている人」が声をあげるのを妨げるべきじゃないってのは本当に本当に本当に同意しているんですよ。

でも

その「声」を社会の側がちゃんと受け取れる余力を醸成する努力

だってそれ以上に必要だし、余力がある人はむしろ「コレ」に真剣にならないと、結果として社会の末端でマイノリティに暴言吐く人を止めるなんてことは自由主義社会では不可能なんですよね。


3●「異議申し立てを自由にする」だけでなく「それを社会が受け入れられる余力を育てる」作業をもっと真剣にやるべき

そんなのどうすればいいんだ?って思うわけですが、3つあって、

対策A ファインダーズ記事で書いたような「イデオロギー的空論の暴走をリアルな議論に置き換えていく

対策B「さむらいしぐさ」的な地続きの共感を広げる。

対策C「相手側社会の伝統と接続した表現方法を考える」

なんですね。

ひとつずつ見ていきたいわけですが・・・

対策A ファインダーズ記事で書いたような「イデオロギー的空論の暴走をリアルな議論に置き換えていく

まずはこれ。

たとえば気候変動問題についても、ドイツとかその他の「環境先進国っぽい」国のイメージに引きづられてかなり実体と違う数字と印象で日本を批判しまくる人がいるじゃないですか。

国土形状も全然違うので自然エネルギー使うにしたって本当に全然違う条件をそれぞれの国が考えなくちゃいけない話題で、そのへんテキトーな熱情で暴走したら大変なことになるケースなわけですよね。

ファインダーズの今回記事で書いたように、20世紀の共産主義国では「ぼくのかんがえたさいきょうの農業政策はこれだ!」を何のてらいもなくゴリゴリ実行した結果、ほんとうに数千万人単位で餓死者が出たりしてるわけですからね。

だからこそ「空疎な欧米礼賛主義」が暴走すればするほど、逆に非欧米国における政策当局者とか実際の責任者は過剰なまでに保守的な見積もりにならざるを得なくなるし、結果として市井の一般人による無理やりな「ここは日本だ黙ってろ!」風の暴論がSNSで吹き荒れるのを誰も止められなくなるわけです。

ちょっとナイーブな理想論を言うようですが、

自分の身の回りの「仲間」が言ってることが「イデオロギー的空論っぽいな」と思ったらちゃんと異議を唱える・・・ということも含めて「本当の言論の自由」があるなら、議論がちゃんと「リアル」な領域に収まるので、「保守派」がやたら攻撃的に抑圧する必要もなくなる

んですよね。

でも実際には、「とにかく徹底的に相手をワルモノにして自分たちで溜飲を下げることが目的」になってしまいがちで、どんどん「批判自体が空論化」していくんですよね。

で、「左派の内ゲバ」って、歴史的に見て「右派の内ゲバ」よりもよっっっっぽど苛烈なことが多いですからね・・・ファインダーズ記事で紹介したウェスタッドの本には、スターリンを批判するフルシチョフの言葉を聞いただけで心臓麻痺で死んじゃったポーランド政治家の話が出てくるんですけど(笑)

「政府をつきあげる左派」は「その内部では一切異論を許さない」的な状況になることって人類史で多くて、そうなると社会が現実的グリップを維持するために「政府側」「保守側」も攻撃的にならざるを得ないメカニズムがあるんですよ。

こういうことを言うのは今の時代なんだか凄く暴論に聞こえちゃうんですが、ファインダーズ記事で書いた「20世紀百年の人類史」を考えたらメチャクチャ大事なことじゃないですか。

だから、「イデオロギー的空論で日本サゲを行う」人が増えれば増えるほど、「ここは日本だ黙ってろ!」みたいな話も暴走して止められなくなるんだ・・・・っていう「歴史問題の左右対称性」とちゃんと向き合わないと。

経済問題にしても、ネットでやたら読まれたこの記事のように、「単にイデオロギーでイッちゃってる議論」をするんじゃなくて、リアルな話に常に自分が開かれているか・・・を自己検討し続けないと。

そうやって「左派の強烈な党派性のしめつけ」を客観視できるようになることで、「右派の暴走」も同じように抑止できる情勢に持っていけるはずなんですよね。

「ただ単に溜飲を下げるため」じゃない「リアルな批判」ができるようになることで、「右派の暴走」も抑止できるようになる構造にあるわけです。

4●「さむらいしぐさ」で、特殊な恵まれた階層から普通の人へ地続きのバトンを渡していく

で、次が

対策B「さむらいしぐさ」的な共感を広げる。

なんですけど。

これは、これも以前ネットでやたら読まれたフェミニズムに関する記事で書いたんですが。(例によって長いけど凄い好評だったので良かったらどうぞ)

サムライしぐさ・・・っていうのは、上記記事より引用すると、

>>>>(以下記事引用)

ここで「サムライしぐさ」と「ナイトしぐさ」と私が呼んでいる2つの態度について考えてみたいんですが。

あなたが、もし例えばコンビニの店員に怒鳴ってるおっさんとかがいた時に、どういう対処をするか?イメージしてみてほしいんですよ。

欧米のSNSでよく動画がシェアされてバズる傾向にあるのは、そういう時に「店員の側」に立って、

おい、なにしてんだテメー!あっち行け!シッシッ!


ってやるやり方ですよね。これを「ナイト(騎士)」しぐさと呼びたい。

でも僕はちょっとこういう「ナイトしぐさ」は苦手で、日本人の多くは苦手な人が多いと思う(中略)

かわりに、僕がよくやる(結婚してからは奥さんにキケンだからやめろって言われてあんまりやってないですが)のは、逆に「騒いでるオッサン」の方に近づいていく方法なんですよ。

「おっちゃん、何があったん?ちょっと話聞いたるから外出ようや。店員さん困ってはるがな」

とかいって「店員さん」から「オッサン」をどんどん離して行こうとする。コレを私は「サムライしぐさ」って呼んでるんですけど。(中略)

今でも覚えてるのは、コンビニで騒いでるオッサン客をなだめつつ外に出したら、突然軍隊式の直立不動の姿勢を取って、深々と頭を下げたあげく

「す、すまんかったー!!!」

って大声で泣き始めたことがありますよ(笑)

(中略)地元の友人とかが外人フォビア的な発言した時に私がやるとしたら例えばこういう感じ↓です。

「いやいや、そりゃいきなりコンビニの店員さんが外国人やったらちょっと緊張するけどもやな、わざわざ日本語覚えて日本に働きに来てくれてるんやで?ありがたいことやんか。しかし、あんな複雑な業務母国語以外でやるとかなかなかできへんで、マジで超凄いと思うわ〜」
これ↑、前半でちゃんと「相手の気持ち」を抱きとめてることが大事なんですよ。

(中略)

<<<<<(引用終わり)

要するに、こうやって「地続き」にバトンを渡していくようなことをしないと、ほんの一部の都会のインテリ階層の内側で物凄い高度な「マナー」が発達する一方で、「普通の人」がどんどんその環からはずれていくことになるわけですよね。

でもそうやって、「あっち行け!シッシッ!」ってやったその不届き者を、ガス室に送り込んで抹殺したりできないんだから、そういう人たちは、「同じこの社会で一緒に生き続ける」わけですよ。

結果として、「シッシッと排除された人たち」が同じ社会の中でぐるぐると滞留し続け、日常生活で触れ合う瞬間とかSNSとかにおいて結構些細なことでメチャクチャな暴言を吐く人が現れたりするわけですけど、それはそれで視点を変えればある種の「弱者による異議申し立て」だったりするわけですよね。

で、しつこいぐらい繰り返しますが実際に今日常生活で追い詰められていると感じていて必死に異議申し立てをしようとしているマイノリティの当事者がここまでやれ・・・という話ではないんですが、

「だれか」がコレやらないと、この問題解決するわけない

ですよね?

5●「受け入れ側社会の伝統と接続した表現方法を考える」

3つ目が、これなんですが

対策C「相手側社会の伝統と接続した表現方法を考える」

たとえばね、同性愛嫌悪とかって、欧米に比べて日本社会は相当もともとユルユルだったはずですよね。歴史上の人物でも全然普通に同性愛がいたし、むしろ美談になってたりすることもあった。

そりゃ「今の欧米社会が理想とするタイプの政治的正しさ」とは違う形かもしれないが、歴史的に物凄い苛烈な同性愛嫌悪があった欧米社会とはそもそも文脈が違うわけです。

そういう文脈を踏まえずに、「日本は遅れてる」みたいなことを言えば反発も受けますよね。分野によっては欧米よりよっぽどサバケている独自のゲイ文化とかもあるわけだし。

そういう「反発」が、「日本に同性愛差別はない!」という保守派の反論に繋がっていくわけですが・・・

で、ここで「”差別がない”わけがない」ってポリコレ宗派の人は思うし、この遅れた感性の土人どもに最新型の人権思想というものを教え込まねば!って思うかもしれないけど・・・

さっきの「サムライしぐさ」に似てるんですが、

・確かに歴史的に言って日本には欧米と違う独自の同性愛文化がありましたね。アレとかコレとかソレとかね。(とここまででちゃんと気持ちを受け止める)

・ただ、その後明治期以降の欧米由来の文化の影響なのか偏見が根付いてしまった部分もあり、今でも実際に当事者は普段こういう暴言をぶつけられたりすることがあるんですよ。だからこういう部分は配慮できたら、もっと同性愛者の人も暮らしやすい社会になりますね。

まあこんな感じ↑で「欧米から輸入したものではなくあなたがたの文化にもともとあった美点を活かすためのステップになっている」という立て付けにしようとすることは今後世界中でもっと考えられるべきタイミングだと思います。

6●対話といっても不毛な対話はしなくてもいいと思う。罵り合いもコミュニケーションだったりするしね。

で、「対話」という話についてなんですが・・・・

「対話が必要だ」という話の中で、

「切羽詰まって異議申し立てをしている人」のSNSアカウントにわざわざでかけていって、「俺と対話してマジョリティのことも理解しろ〜」って言う

みたいなのをシーライオニングと言うらしい。

個人的に、もっと世界には「対話」が必要だと思うけど、こういうの↑はまあ、不毛っちゃ不毛だよなあ・・・と思うんですよね。

何度も言ってますが「今大変な思いをしている人はとにかく異議申し立てをするのを妨げられてはいけない」のが自由主義社会のルールだからね。だからまあどんどんやってくれたらいいというか、それは多少やせ我慢してでも受け入れないと自由主義社会の看板を降ろさなくちゃいけなくなるんで。

で、大事なのはそれを「言いっぱなし」で終わらせるんじゃなくて、「今必死になっているその本人」でなくてもよくて「他の誰か」でもいいんだけど、とにかく誰かが「既存社会との調和」についてアレコレ動いていく必要があるわけなんですけど、誰もやってないよね・・・って話なんですよ。

むしろ鬼舞辻無惨風に

『黙れ。何も違わない。私は何も間違えない。』
『全ての決定権は私にあり、私の言うことは絶対である。』
『お前に拒否する権利はない、私が正しいと言ったことが正しいのだ。』
『お前は私に指図した。死に値する。』

的な、「俺たちは正しいことを言ってるんだからお前たちは一切の異議申し立てなしにただただ土下座して受け入れろ」みたいなのばっかりになっていて。

いやほんと、それぐらい余裕がない状態に追い込まれているんだ・・・ということも理解できるから、その「異議申し立て」自体を咎めるつもりは全然ないわけだけど、それをどうやって「今までの社会の伝統と調和させるのか」について余力のある人はもっと真剣に考えないとね。

そういう「アウトリーチ」について真剣に考えないと、結局ほんの一部の過激派がネット内で呪詛の声を上げ続ける運動みたいになっちゃうじゃないですか。

さっきも書きましたけど、個人的に結構そういうポリコレ的なことや社会問題にそれなりに関心がある方だから、自分のSNSのタイムラインがそういう話題で埋め尽くされてる時も多いんですが、その話についての一般社会への浸透してなさっぷりはヤバいです。

私は経営コンサル業のかたわら、色んな「個人」と文通しながら人生とかアレコレについて一緒に考える・・・っていう仕事もしていて、そのクライアントには本当に老若男女、日本に住んでいる人も海外に住んでいる人も、都会の人も地方の人も、お金持ちもまあそうでない人もいるんですけど・・・

結構マニアックなサービスだから普通に考えて相当「意識の高い」人たちだと思うけど、それでも「自分のSNSのタイムラインがそれ一色になっているような話題」ですら「は?なんの話ですか?」って言われることがなんと多いことか。

いわんやウチの母親とか、正月の親戚の集まりとか・・・になったらもう絶望的ですよ。

そういうのは、「さむらい仕草で地続きにバトンを渡す」アウトリーチ作業を全然せずに、ただただ蛸壺に籠もって自分たち以外を罵倒しまくる、その社会が大事にしてきた価値や伝統を足蹴にしまくる、全部お前たちの「罪」であって自分たちは全然悪くない・・・と先鋭化していく・・・結果として起きていることなんじゃないでしょうか。


7●今は脳内がマジョリティへの呪詛の念でいっぱいになっている人も、もう一歩積極的な関与をしてもいいと思える人もいるかも?

こういうこと↑を言うと「抑圧されているマイノリティに指図をするな!」って怒られるんで、まあもしほんとうにあなたの気が向いたら・・・でいいんですけどね!・・・と重ね重ね言っておいた上で言うんですが、

今「マジョリティへの呪詛」で人生が埋め尽くされてしまっているような人も、「もう一歩積極的な関与」を、ここまで書いた対策ABC的な手法でしていってもいいかな?って・・・・思う人も結構いるんじゃないかなと感じています。

「マジョリティへの配慮をマイノリティに求めるな」っていうのは、基本的に「今困っているマイノリティの人が忌憚なく声をあげられる仕組みであるべき」という意味においては同意なんですが・・・

その「言いっぱなしになった問題をいかにその社会の伝統と調和して広い範囲に受け入れてもらえるようにしていくか」を誰も考えないことが、本当に「マイノリティの人の生きやすさ」に繋がるのかどうか、意固地にならずに少し考えてみませんか・・・とネットでの罵り合いを見るたびに思います。

たぶん「マイノリティ当事者」でも、余力のある人はここで書いたような「対策ABC」的な作業に参加することだって可能だと思うんですよね。

ただちょっと余談ですが、さっきリンクしたこの記事

でも書いたんですが、実は「さむらい仕草で引き取って広げてくれるパートナー」を見つければいい・・・というだけの話かもしれないんですが、今の「マイノリティ当事者」は

「一緒になって社会を徹底的に呪詛しまくってくれる存在」を「味方」

だと思う反面、

「一緒になって呪詛したりしないが、サムライ仕草的に蛸壺の外側まで地続きに広げていこうとしてくれる存在」は「敵」

だと思ってしまいがちで、そのへんのボタンの掛け違いについて少し戦略を変えるだけでも随分違ってくると思います。まあこの記事に凄い反発を感じてる人も、↑ここの部分はちょっと覚えて帰ってくれたらと思います。

8●「対話」はとりあえず「とりとめない話」からはじめよう

とはいえ、「何から」始めたらいいのか・・・って思うかもしれないけど。

上記の「対策ABC」的な理想をできるだけ目指そうとしつつ、とりあえず日常的にできるかな、と思うのは、

「真面目な対話じゃなくてまずはとりとめない話をする」

ことから始めるといいんじゃないか・・・と思っています。

イデオロギー的な党派性から離れた存在でも、「危険な話題」以外で何気なく話していれば共感もするし、その人の目線からの社会を疑似体験できたりもする。

ある程度「とりとめない話」で共感関係の下地ができてくれば、「実はこういう時嫌だなあって思うことあるんだ」っていう話も「そりゃそうだな」という「地続きのバトン」を広げていくことが可能になるはず。

さっきも書いた「文通」の仕事、最近凄い楽しいな・・・と思うことが多くて、それは「どんどん世界が広がるな」って思うんですね。

たとえば「鬼滅の刃」も、最初自分ひとりで読んだ時には、「ふーん」って感じだったんですよ。むしろ違和感が凄いあった。

面白いのは文通している人たちの中で男性は結構「まあ、今のジャンプ漫画はこうなのね、ふーん」って人多かったんですが、女性の中に数人、物凄いハマってる人がいたんですよね。

それはもう「物凄い熱量」でハマってる女性が結構いるんだな・・・っていうことを「体感」で知って、その人たちがどこに魅力を感じているのか・・・とかの話を聞いているうちに、なんかその「体感」が伝播してきたというか、ある時期からパッカーン!って「鬼滅の刃の良さ」が自分なりにわかるようになったんですよ。

「鬼滅の刃」的なコンテンツの好みの話だけじゃなくて、たとえば文通してる人の中にはかなりの「日本政府ぎらい」で常に政府批判しまくってる女性もいたりするんですが、でもその人なりに筋の通った意見を持ってるから、フンフンなるほど・・・って感じでもう何年も週一回話を続けてるんですが・・・

そしたら、「反政府的な気分」も理解できるように徐々になってきている気がするというか、「そりゃこういう部分は嫌だよなあ」って「自分の感覚」で理解できるようになる。

ネットでポリコレ関係で炎上している時に「相手の身になって考えろよ!お前らこうなってたら嫌だろ?」っていう「ミラーリング」的な話で論争が紛糾することがあるんですが、だいたいもってそういう「ミラーリング論法」がちゃんと「相手に届いてる」ところを見たことないというか、そもそもの現実の感じ方が全然違うので完全にすれ違いまくった話にしかなっていないことが多かったりしますよね。

要するに、

「とりとめない話を積み重ねた下地がない人」と「相互理解」なんて無理

だなと思うわけです。

「別属性」の人と繋がって、あえてとりとめない話をする。そういうところからはじめていって、上記の「対策ABC」まで自分のできるところまで踏み込めたらいいね・・・という感じでいければいいですね。

「マクロに見た対立」が放置されたままだと、その結果として自由主義社会においてSNSに湧いてくる暴言吐く人を抹殺したりとかできないんですよ。

しかし「マクロに見た時の対立」さえ止揚していければ、「ミクロな世界」においてちゃんと「抑止力」を効かせる人縁の環を閉じていくことができる。

それは、「さむらい仕草」によって、都会の一部のインテリ以外の世界にも地続きに「その宗派に共感する人」が増えていくことで、やっと可能になるんですよね。

今回記事の無料部分はここまでです。

以下の部分は、ファインダーズ記事で書いた「北欧人って凄いいいなって思う時があるな」っていう話をします。

ちょっと何度かどこかに書いた思い出話なんですが、何年か前に岐阜の山奥の凄いマイナーな温泉地に「父親の定年退職祝い」とかで旅行に行ったことがあって、この歳になって両親と一緒の旅行が気詰まりすぎて、両親と別れて一人でそのムラをブラブラしていたらドイツ人女性二人組に会ったんですけど。(半月〜一ヶ月ぐらい滞在して何もせずに周囲をトレッキングしたりしていたらしい)

なんかね、結構意気投合して半日ぐらい行動したんですけど、すっっごい楽しかったんですよ。まずお互い英語ネイティブじゃないから気兼ねなく話せるし、自分はそんなに英語が達者なタイプではないんですが、「俺ってこんなに英語できたっけ?」ぐらいに楽しかった。

ウェスタッドの本、英語版も買ったんですが、非ネイティブだけに逆に凄いプレーンな英語で、凄いわかりやすかったんですよね。

「北欧人」にしろ、その二人は北部ドイツ人だったんですが、なんかこの「ルター派地域の欧州人」みたいなのは、「知的な会話を知的な会話としてノイズなくやりたいです」みたいな時には最適な話し相手だなあ、って凄い思うわけです。

アメリカ人とか、あんまり人の話聞いてなさすぎて、突然物凄い唐突なことを言って茶化したり・・・ってなりがちだけど、北欧の人とか一部のインテリドイツ人とかって、そういうのが全然ない感じが凄い落ち着くな・・・と思いました。

「サヨク」的傾向の人で、北欧やドイツをやたらめったら美化して思い入れてる(同時に日本社会を呪詛しまくっていることが多い 笑)人がいますけど、その気持ちめっっちゃわかるなと思ったです。

で!

でもね、楽しく話して終わってから、逆に怖くなるのは、

こうやって「知的でプレーンな会話」をノイズなく楽しめるってことは、「知的でプレーンな会話」ってものが扱いづらい問題は「存在しない」ってことになってる

んだよな・・・とも思ったわけなんですよね。

これって怖いし、要するに「その特権階級のサロン」の外側からしてみたら、この「サロンの論理」が絶対で、そこにはまらないヤツはダメだ・・・みたいになったらそりゃ腹立たしくもなるよね。

ドストエフスキーの小説の主人公が、なんか何度も「ルター派のドイツ人みたいなやり方じゃダメなんだ」みたいなことをめっちゃ唐突に言うのが凄い面白いな、と思ったことがあるんですが、基本的にこういう「プレーンな理想論というのはそれ自体非常に特権的なあり方なのだ」ということを表しているのだと思います。

「歴史認識問題に関するドイツ人のやり方」みたいなのに日本の保守派の人が毎回欺瞞を感じて怒っているのもそういうところですよね。

で、そういう「純粋さ」がどういう時に現実との軋轢を起こすかというと、

例えばウェスタッドの本を読んでいると、20世紀半ば〜後半以降には、例えばインドとかユーゴスラビアとかが、「米ソ冷戦」の大国主義から脱した新しい第三の道を模索しよう・・・みたいな話があったんですけど。

その中で、米ソの指導者は自分たちのエゴのためだけに勢力争いをしていて第三世界の人びとのことは全然考えていない・・・みたいな主張をするんですが、それ読んでいると、

いや別に米ソの指導者だって好きで核戦争の瀬戸際にいるわけじゃないよな

・・・ってどうしても思ってしまうわけです。

結局その「誰かが人類社会を統治しないと果てしない”万人による万人に対する闘争”みたいになる」という現実と向き合うことなく政治なんてできないわけですよ。

結果として「第三世界ムーブメント」路線はその後それぞれの国の事情でどんどん頓挫して消えていくことになったわけですよね。

前も書いたけど、「ピラミッドは奴隷を使って作ったから壊すべき」みたいなのは、「そうやって大規模に協力しあう形式が生まれなかったら、人間はまだ猿のままの生活してるんやで」って思うわけですよね。

当時のことは当時のこととして、今後はどんどんちゃんと「抑圧される存在がないようにしていきましょう」ならいいんですが、その時に「人類社会全体の運営者側の事情」もちゃんと「自分ごと」として考えないと、革命はしてみたもののその後のことはちゃんと考えてなくて、農業政策に失敗して数千万人餓死させた指導者・・・みたいなことになってしまう。

「経営者側・為政者側の肩を持つのか!」とか糾弾する人いるけど、自分たちが権力を握りたいなら、「今の為政者以上に、もっと為政者として真剣に考える」必要があるのだ・・・っていうのが20世紀最大の教訓ではないかと思うわけです。

・・・というような話を、昔本に書いた「ルター派神学」みたいな話も引用しつつ、私たち人類は「ドイツ人や北欧人のような理想主義」をどうやったら「人類全体レベルに着地させられるのか」について考えてみたいと思っています。

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