見出し画像

なぜ自民党の政治家は「感じ悪い」のか?安倍氏辞任にあたってのそもそも論的考察(前編)

(トップ画像はウィキペディアより)

なんか煽ったようなタイトルで、読解力のない人に攻撃されそうですが、日本人の男をディスる話ではない(むしろ逆な)ので、ちゃんと読んでいただければ真意は伝わると思います。

1●茂木外務大臣が突然やたら感じ悪い答弁をしたと話題だが・・・

実は昨日、茂木外務大臣が、会見でやたら「感じ悪い」答弁をした・・・っていう話があって、ツイッターで話題だったんですよね。

大住マグダレーナさんというポーランド人でジャパンタイムズという英字紙の記者さん(漢字表記や出身国などはお名前を検索して知りました)が、日本語で質問をしたんですが、突然茂木大臣が「What do you mean by scientific?」と英語で質問をしかえして、「いや馬鹿にしないでください。日本語で大丈夫です」と記者さんが答えて・・・みたいなやりとりがあって。

私がこの会見動画を知ったのは、日本在住アメリカ人の経営コンサルタント兼大学教授で、ビジネスにおける日米の文化的差異について著書を多く書かれているロシェル・カップさんのツイートからなんですが・・・

確かにまあ基本的なマナーとして、ある程度十分な日本語力で質問されたら日本語で答えるのが礼儀、というところはあると思うんですよ。

でも、ロシェルさんのツイートを読んだ時点では、「まあそれが基本だけど、あまりにも誤解が生じそうだな、とか思った時には切り替えることが必要な時もあるよね」と思っていたんですが、しかし実際の動画を見てみるとですね・・・


2●動画を見ると言語に関するマナー・・・という話でなく露骨に感じ悪かった

下記動画の2分15秒ぐらいからです。

なんとなく聴いてると、「なんでこんなに?」っていぐらい感じ悪い答弁だった。やりとりが終わってからも「日本語ワカリマシタカ?」みたいな凄いバカにしたような質問を何回もしたりしていて。

で!ですよ。

茂木大臣って自民党政権の中で結構な重要人物なんですが、あまり知名度は高くないので、「高圧的で国際感覚のない自民党の高齢男性政治家が、相手が女性だからと”いつものように”ヒドイ言い方をしたんだろう」的な、そういう印象で流れてしまうところだと思うんですけど。

でも、茂木大臣って英語もできるし国際経験も豊富だし実務能力もかなりあるし、何より普段結構温厚で失言とかもあんまりしない人なんですよね。

私はマッキンゼーというアメリカのコンサルティング会社で働いていたことがあって、茂木大臣はマッキンゼー出身の人なので、「同窓会」的なイベントで話しているのを間近で接したことがあるんですが、ほんとニコニコとユーモア溢れる受け答えを自然にする人で。

だから、個人的にはこの動画をみて「自民党の政治家なんだからこういう人がいてもおかしくないだろう」という感じではなく、「”あの茂木大臣”がこういう答弁になるんだなあ」というのは結構ショックを受けました。

「よく知らない自民党政治家がこういう答弁をした」という以上強い印象を受けたというかね。

今検索をしてると、アメリカの通商交渉担当者がカウンターパートの茂木大臣のことをべた褒めしてたという記事や、安倍後任として「竹下派の若手に茂木氏擁立の動きがある」という記事が流れていて、今後世間的注目も高まっていきそうなわけですが、その茂木氏の答弁を考えながら、単に

こいつ感じ悪いな!

で終わらせることなく、

なぜこういうすれ違いが起きてしまうのか?その背景にある文化的な違いはなにか?どう解きほぐせばいいのか?

について考える記事を書きます。


3●コロナ禍における在留外国人の出入国管理の問題とは?

まず、この問題の背景を説明すると、コロナ禍でどこの国でも出入国管理が厳しくなって、制度のハザマに落ち込んでしまって大変な目にあっている人が今世界中にいるんですね。

で、日本の場合で特に今問題になっているのが、「日本在住の外国人(留学だったり仕事をしていたり、日本人の配偶者だったり)」が、一度出国すると日本に戻ってこれなくなってしまっていることなんですね。

たとえば合法的な滞在資格を持って日本で働いてくれている外国人がいたとして、母国の親族に不幸があっても、お葬式のために一時帰国すると、もう仕事場も家もある日本に戻ってこれなかったりする。なにか特殊な医療ニーズとかでどうしても出国しないといけない理由とかがあっても戻ってこれなくなってしまっている。

あるいは、日本に家も仕事もある外国人がコロナ禍が広がった当時にたまたま外国にいたことで、公共料金も税金も家賃とかも日本で払い続けているんだけど、日本に戻れなくなってしまっているとか、国際結婚したはいいけどその外国人配偶者の入国許可がでなくてまだずっと会えていないとか・・・

別にノーガードで出入国OKにしろ、という話ではなく、ありとあらゆる外国人を日本人と同じように出入国させるべき、という話ですらなく、

日本人と同じように日本で働いて納税もしている「仲間」なんだから、せめて日本人が帰国する時の条件である「空港でのPCR検査と二週間の自己隔離」と同じシステムで再入国できるようにしてほしい。日本人の帰国の時と防疫上のリスクはそもそも変わらないはずですよね?

という要望を、もう何ヶ月も前から日本在住外国人が必死に訴えていたのですが、なんだかなかなか政府の対応がノラリクラリで、最近やっと「日本人と同じ条件に緩和します」という発表があった・・・という話なんですね。

これについてはかなり前から在住外国人の人たちが凄く怒っていて、たしかに「制度のハザマ」に落ち込んで凄く理不尽な思いをしてしまった人がいる問題だと思うのですが、だからこそ、

ではなぜ、国際経験も豊富で英語も堪能で普段は温厚でニコニコしてユーモア溢れる茂木大臣が、この瞬間突然やたら感じ悪い態度を取ってしまったのか?

について考えてみたいわけですよ。

繰り返すようですけど、たぶんツイッターでバズってる時に動画をみて「サイテーだな!」とかコメントしてた人が受けていた印象↓としての、

自民党にたまにいる、排外主義的な性向を持つ過激保守政治家がそういう態度を取ったという話ではない

んですね。


4●まずは、茂木大臣が突然キレた理由を考えてみる。

で、まず想像するに・・・ですが、茂木大臣個人が、職務と関係なくこの問題について意見を聞かれて、自由に答えられる立場にあったとしたら、

「それは良くないね。色々とお困りの人たちが多くいるでしょう。同じ条件になるようにしなくっちゃ」

って即座に当たり前のこととして言うタイプの人だと思います。

というか、別にあらゆる外国人に国境を開けという話ではなく、「合法的滞在者の出入国条件を日本人と同じにする」ということに反対するのはよっぽどの排外主義者というか、「外国人が神国の地を踏むこと自体がケガレなのだ」的感性を持っている一部の人だけだと思いますし。

ただ!何事にも縦割りになっていて横の連携が苦手な日本の官僚制度を隅々動かすのは結構たいへんなわけですよね。そして保守政権の大事なお客さんである一部の過激な排外主義者が騒がないように静かにいつの間にか緩和したい的な事情もあったりする。

一般人としては「別にそんなの入れてやりゃいいじゃん!」って軽く考えがちですが、在住外国人は260万人もいるそうなので、ひょっとすると空港の検査キャパシティがそれによって溢れてしまって防疫上の問題になったりするかもしれない・・・という懸念もあって(日本人1億数千万人からすりゃ誤差なんだから大丈夫だとは思いますが、母国人である日本人よりは出入国する率もかなり高いと思われるので)、ちゃんと政府が言った通りに官僚制度が動いてキャパシティを増やすことができればいいけど、本当にそれが実現できるのだろうか・・・とかね。

なんとかしたいと思っているけどウチの政府動きが遅いからなあ・・・的な難しさがあるわけですね。

その結果として、質問に対して茂木大臣は、

どこの国でも今防疫上の理由で色々と制限をかけている。国によってやり方は違うが、それは主権の範囲内の適正な処置だと考えている

みたいなことを言っているわけですね。

これを日本人の日常会話風に読み直すと、

「こちらとしてもできるだけはやく緩和してご不便を解消したいとは思っていますが、諸所の調整に手間取っておりますので、もう少しお待ちいただければと思います。ただ、諸外国も似た感じでそれぞれ制度上の問題が抱えているような種類の問題なので、完璧を求められても困るという次第でございます」

みたいなことを言ったつもりなんですよ。

で、ここに、記者さんは「その科学的根拠は?」という質問をぶつけているわけですが、それで結構茂木大臣がイラッとしてキレてるわけですよね。

「What do you mean by scientific?」

と突然英語になって「問い詰めて」やる口調になっている。

なぜ彼はここで突然キレたんでしょうか?あなたはわかりますか?

一応言っておくと、茂木大臣の答弁を「擁護」するつもりは全然ないというか、もっとスマートに意を尽くしてわかりあってくれないと、突然外務大臣が会見でキレるような発言ってどうなのよ・・・というのは当然あります。安倍政権に限らず日本の政権のこういうコミュニケーション能力の低さってのは本当になんとかしなくちゃいけない。

ただ一方で、「お互いが生きている文化があまりに違う時に、現場レベルの機転や優しさだけでディスコミュニケーションが解決することはほとんどない」ので、その「背景」をちゃんと理解して、どういう態度をお互いに取るべきなのか・・・という話を考えておきたいわけですね。


4●「科学的であることは常に良いこと」というのは「一つの価値観」にすぎないという異文化コミュニケーションの心得が必要な時代かも?

聞き手の価値観によっては、この「すれ違い」は理解できないんですが、茂木大臣がわからすると、「完璧に繋がっている議論」になっているはずなんですね。

というのは、要するに「科学的」という言葉をどう考えるのか?といった価値観の問題なんですよ。

国家で言う「主権」、個人で言う「個人の自由」みたいなものと、「科学的根拠」というものがあった時に、「どっちを優先させるべきなのか?」という価値観の違いがある。

で、茂木大臣側としては、「国家の主権の範囲でやっている」と言っていて、それは「科学的根拠」よりも優先されるべきものだという趣旨で答弁をしているわけですね。

とはいえ、「うるさい黙れ」的なことを言いたいわけではなく、この「すれ違い」を簡単な言葉に翻訳すると、茂木大臣としては

「ちゃんとなんとかしようと思っているけど現実の組織は理想論のようにはすぐ動かないのでもうちょっと待ってくれ」

と言っていて、それに対して

「そもそも最初から差をつけなかったらいいじゃないの。おかしくない?」

と言われてキレている・・・という感じ?

というとなんか物凄く茂木大臣はガキンチョか?って印象になってしまうんですが、これがなかなか、この時代難しい問題なんですよね。

そもそも「行動は科学的に合理的であるべきだ」っていうのは、一つの価値観にすぎないとも言える時代なんですよね。

コロナ防疫についての色んな「流派」同士の考え方についても言える話じゃないですか。

こないだニュースの街頭インタビューで、アメリカ人が、

「政府が個人にマスクをしろと命じる権利はない。アメリカ人にはそれを拒否する権利があるし、はやめに経済再開して死者が増えようとも、それは自由の社会を維持するためのコストなのだ」

みたいなことを力説していましたが、これはこれで一つの「主義」じゃないですか。

そりゃ僕もこのタイプの発言には「ちょっとそりゃ野蛮すぎませんかね?」と思うタイプではあるんですが、でも、

「そういう価値観を持って生きている人が、人口の何割とかいうレベルで存在する」という時に、ただそういう人たちを罵倒するだけで良いのか?

というのは考えてみるべき問題だと思います。

そういう人が「めっちゃ非科学的」な人間かというと必ずしもそうではなくて、世界最先端の医学研究者でも「体に悪いからといってアレもコレも我慢して長生きするより自分は好きなように生きたい」とか言う人普通にいますよね?

要するに、その人の中では、「個人の主体的自由」の方が「科学的合理性」よりも優先順位が高いというだけの話なんですね。で、これは「科学」というシステムが物凄く慎重に「どんな状況でも常に正しいと言える知識」を積み重ねていくために設計された制度であるということを考えると、「個人の人生」というどこまでも個別的な事象についての判断基準としては、むしろ科学とはある程度距離を起きながらその場その場で判断していくことが「科学という制度の本来的な意味からして合理的」だとすら言える問題がここにはあるわけです。

そのあたりの文化的齟齬については、こないだ日本のコロナ対策に日本の製造業の知恵を応用するべき・・・という記事を書いた時に詳しく書きました。結構いろんな「科学者」さんから熱い反応があった記事なのでよかったらどうぞ。


5●それにしても余裕なさすぎでしょ問題について。

でもほんと、今あらためて会見の動画を隅々聴いてると、「茂木さん余裕なさすぎやろ!」って感じるんですよね。

なんにせよ日本政府の「無誤謬感を求める」感じって凄い良くないクセとしてあって、やたらオドオドしてすぐに噛み付いてくる感じはなんとかしなくちゃいけないな、と思うわけですけど。

こういう感じのすれ違いが起きると、いつも「気に入らないんだったら自分の国に帰れ!」ってキレる人がたくさん出てくるみたいな話になってしまうわけですが・・・

ただね、日本政府って、明治維新いらい結構そういう要素はいつでもあるわけですよね。

だとすれば、「発達障害の人にはその人にあったコミュニケーションをしてあげましょう」的なレベルの話として、「彼らに通じやすい表現の仕方」をしてやる部分も、ちょっとぐらいはあってもいいんじゃないか・・・と、「毎回小さなことで紛糾している」たびに私は思ってしまいます。多少は歩み寄りが両者にあってもいいんじゃないかというか。

というのも、前回のnote↓でも書いたように、非欧米国の当局者というのは、想像以上にかなり難しいプレッシャーを受ける板挟みの状況におかれているんだ・・・という「理解」はしてもいいと思うわけですよ。

上記記事↑より引用

>>>

要するに「アジア社会の中のマイノリティ的な個」だって「弱者」だけど、一方で「欧米文明に対するアジアの文明の伝統」的な視点で言えば「伝統」の側だって「弱者」なんですよ。

どっちの視点を重視するタイプなのかは人それぞれですが、どっちの側も「相手だけが強者で自分は弱者!だからこっちに配慮しろ!」とだけ言い合っている状況だと整理すると、見えてくるものもあるかと思います。

「アジア社会の中のマイノリティ的な個」は「その社会の伝統的存在」が「圧倒的強者」で、だからこそ徹底的に「弱者である私の言うことを聞くべき」と思うかもしれないが、逆に「伝統を受け継いでいる側」から見れば「欧米文明の威を借るキツネ」的に無敵の傍若無人さでありとあらゆることを攻撃されている気分になっている人たちがたくさんいるってことですね。

<<<(引用終わり)

個人としての当局者がリベラルでスマートな人でも、「総体としてのその政府」と深く関わっている以上は簡単には動けない部分も当然あるわけで、そういうところをうまくコミュニケーションできる「異文化理解」はあってもいいんじゃないでしょうか。

なぜかっていうと、これ日本政府だけの問題じゃないからですよね。

「日本政府」ってダメだね、頭固いね、排外主義者だね・・・では済まない問題なんですよ。

そもそも中国政府の強権性はなぜ生まれているのか?

とか、

アメリカにおけるトランプvs反トランプ的分断はなぜ生まれているのか?

とか、そういう今の時代の普遍的な問題のコアにある課題じゃないですか。

日本政府がただ特異的に「変」なだけならもっと頑張れよ!で済ませられるかもしれないけど、アメリカでも中国でも世界中でも同じ問題が起きていて第三次世界大戦にもつながるんじゃないかという時に、ただ「日本政府ってほんとダメだよねー」で済ませていいのか?って話なわけですね。

トランプばーか!安倍ばーか!中国ばーか!って言い続ける人たちの希望・・・だった、たとえば韓国の文在寅政権とかも最近多少「国粋主義」的なことを言い出して、”純粋民主派”の人たちは結構失望しているのを見るんですが・・・

上記記事↑に書いたように、

「どこでもそうなる」なら、そうなってしまう不可避な原因」があるんであって、「日本政府ってほんと遅れてるよねー」で済まさずに「真因」に向き合うべきだ

・・・と私は思うわけです。

それはほんのちょっとした、その文化ごとのコミュニケーションスタイルの違いかもしれない。


6●ではどうすれば良かったのか?

なんども言うように、そもそもあんまりお互い配慮せずに言いたいことを言い合って、今回も茂木大臣の側が色々と余裕を持ってスマートに対応できてくれたら一番いいのは言うまでもありません。

ただ、そうなっていない現状がある時に、どうすればいいのか?という話で言うと、

「相手の価値観に合わせた言い方を工夫する」

のが、異文化コミュニケーションのスキルとして「定番」化していくといいと思います。

まあ、でもそんな難しく考えなくても、普通に「個人相手」に行動を変えてほしい時には、「できるだけ糾弾調に聞こえないように配慮して話す」じゃないですか。

アメリカのドキュメンタリーとか見ていても、普通に誰かに動いてほしい時には、


「お前がスゲエできるやつってことはわかってるし頑張ってるのもわかってる。お前はもっとデキルやつのはずだろ? だからな、この点だけもうちょっと気をつけてみなよ。そしたら絶対スゲエ良くなるから。一緒にお前のことしょうもないやつだって言ってる奴らを見返してやろうぜ? そうだろ、できるぜ俺たちなら、な?」

まあ、基本こういう感じじゃないですか。

日本でもだんだんそういうムードになってきて、こういう↑話し方以外の「アドバイス」をしようものなら一発パワハラ認定みたいな方向に変わってきています。

それが、なんか「政治的な主張」となると、なぜ途端にどれだけ高圧的にお前らは駄目だと言えるかレースになってしまうのか、私はちょっと理解できません。

要するに「糾弾に聞こえないようなコミュニケーション」がもっとできるんじゃないかってことなんですよね。自分が日本人同士でやるんならそのあたり物凄く気をつけながら話すだろうなと思うので。

これは、外資系コンサルタントが日本の会社相手にプレゼンする時も同じ問題が結構あるんですが、

1・現状の問題点

2・その解決策の方向性

3・実行段階での懸念点についての先回りした安心感を与えるディテール

という「伝えたい内容」があった時に、「相手が自分のことを聞いてくれないんじゃないか」との不安から「1」の部分だけに8割ぐらい時間を使って相手がうんざりして心を閉ざしてしまう・・・ってこと結構よく見ます。

そもそも、普通の人は「自分たちがもっと”良くなる”実行可能な案」があるなら、別に「1」の部分で延々脅されたりしなくても取り入れたいと思っていることが多いわけです。

もちろんあまりに相手が全然問題意識がない時には「ピシャリ」と必要最低限のレベルで冷水を浴びせる必要はありますが、相手が「聞く気」になったらもうその部分の情報はいりません。

「2・どういう解決の方法があるのか?」や、もっと重要なのは「3・その実行にあたっての問題を先取りして懸念点を解消してあげる内容」に徹底的な重点を置いて話すべきです。

「なんでそんなことまでしなくちゃいけないんだ?」と思うかもしれませんが、今回の件にしても、理想を言えば、

「在留外国人と日本人の対応に違いがあるのは差別だ!人権問題だ!」

という吹き上がり方は、「ピシャリ」とやる範囲内までにしておいて、相手の注意がこっちに向いたらそこで「1」は終わりにして、その後

「何が原因で制限されているのか?すぐに動けない理由は何なのか?我々の知らない致命的な難しさがどこかにあるのか?それとも官僚制度がギクシャクしていて動きづらくなっているだけなのか?」

・・・といった部分を、ちゃんと考える力がある人は考える文化があるといいですね。その上で、

「たったこれだけのこと」をするだけで、「国際的に巨大な印象悪化リスク」を避けることができますよ

・・・というロジックが組めるといいです。

「3・その実行にあたっての問題を先取りして懸念点を解消してあげる内容」というのは、なにかを売り込む時に、顧客にその「メリット」を伝えるだけじゃなくて、

「でも・・・お高いんじゃないですか?」

いやいやいや!そんなことはありません。なんと今ならコレもコレもアレもついてXX円!

「でも・・・使いこなすの難しいんじゃないですか?」

いやいやいや!大丈夫です、ここをこうやってこうすれば、あなたにもできます!

・・みたいなことを延々言うのがセールスの定番じゃないですか。本当に相手に動いてほしいと思ったら、

分量的には1<<2<<<<<3ぐらいが適切

だと私は考えています。

これは、「今まさに外国出張中に突然国境が閉ざされて自分の家に帰れない!」という人にそこまで配慮して考えろ!ってことじゃないんですよ。

以下のnoteで書いたように、

(上記記事から引用)

・「対話出来る余力がない人はとにかく大騒ぎして対話できなさを露呈させること自体が対話」

・「対話できる余力がある人は対話できない人のぶんまで引き受けて具体的な話をすすめる」

(引用終わり)

という「役割分担」ができるようになるといいですね。

だから、「今まさに締め出されて本当に困っている人」とかは余裕ないだろうしとにかくまずは「糾弾する」だけでいいけど、その「糾弾する人」と「当局者」の間に、「文化的翻訳者」みたいな人が出てくるといいんだけどな・・・と思うわけですね。

なんでそんな配慮しなくちゃいけないんだよ!って思うかもしれないけど、でも「こういう問題」って、特に非欧米国の当局者と「メディア」の間では「いつでも同じように起きている問題」じゃないですか。

「いつも同じすれ違い」が起きて、「嫌なら国に帰れ!」とかそういう嫌な罵倒合戦に発展してしまうのを見るのは辛いので、「もう少しあと一歩ずつ寄り添って」もいいんじゃないですか?と思うわけです。


7●価値観が違う他人とのコミュニケーションをする覚悟を

さっきも言ったけど、「判断が常に科学的であるべきだ」と思わない人もいるのだ・・・となった時に、明示的に「この野蛮人どもが!」とか「もうこんなの文明国じゃないわ!滅んでしまえばいいのに!」とかSNSで言いまくる人がいるんですけど、そういうのはほんとあまり生産的でない態度だと思うんですよね。

「価値観が違う他人と対話する必要性」とか言うのは、自分にとって都合がいいタイプの「多様性」だけにしか通用しないルールなんですか?という感じがする。

で、実際話してみれば、茂木大臣だって別に「科学的であることを否定するタイプ」じゃないわけです。ただ

「科学的であることがありとあらゆることで常に最上位な判断基準であるべきとは思っていない」

というだけの話で、

「科学的?なまっちょろいこと言ってんじゃねーよバーカ!」

っていう人ではない・・・この「違い」は物凄く大きいですけど、ちゃんとお互いの「違い」を尊重して理解し合う姿勢がないと全部「後者」の絶対コミュニケーション不可能な存在に見えてしまいます。

そもそも、たとえばワクチンをみんなに打ってほしいとか、そういう小さな問題ひとつとってみても、

「それぞれの価値観というものがある」のを前提としたコミュニケーション

が必要な時代ですよね?

「この非科学的なアホどもが!」みたいな態度をちょっとでも出したら余計にワクチン打ってくれなくなるに決まってるじゃないですか。

「それぞれの考え方があると思うけど、どうしてもこういう理由でみんなにとっての利益が凄く大きい事業だから、ぜひ打ってください」

的な態度が必要なはず。

これを否定しはじめると、もう一気に「民主主義とかもういいじゃん、中国みたいな仕組みでスムーズに行くならそれがいいじゃん」ってことになるまでの距離はあとちょっと・・ってことになりますよ。

さて、今回記事の無料部分はここまでです。

何度も繰り返して一応確認しておきますが、

今回の趣旨は、日本政府がちゃんと「そういう配慮をしなくても余裕を持ってコミュニケーションできるように」なっていくことも当然大事なことですよ。でも一方で、「今の日本政府がこうなっていること」の「原因」まで踏み込んで解決策を考えていくことも大事だよねってことです。

今回の記事で扱った内容をさらに推し進めて、「後編」として、「安倍氏やトランプ氏」についての激論をどう考えるべきなのか・・・という話について、もう一個のnoteがあるので、ここまで読まれて面白かった方はぜひお読みいただければと思います。↓

で、「前編」であるこのページのここ以降の有料部分では、ちょっと突然ですが「ギャル」の話をします。

はあ?突然?って感じなんですが、今たまたま宇多田ヒカルさんのユーチューブ無料ライブをやっていて、聞きながら書いてるんですけど。

当時リアルタイムではたいしてファンじゃなかったけど最近凄い凄いファンなんですよ。

で、今更のように2000年代初頭からの宇多田ヒカルさんの作品を聴いてると、想像以上に「ギャル」だなあ!って思うところがあるんですよね。

で、ちょっと前に、水原希子さんが、「2000年代にはギャル文化のような女の子が主導権を握っていこうっていう文化があったけど最近はなかなかなくてさみしい」的なことをインタビューで言っていて、個人的に「ギャル文化」がそういう「ガールズエンパワーメント」的なものだと感じたことが全然なかったので、「へえ!そういう感じ方ってあるのか!」って思ったことがあったんですね。

で、日本社会の「伝統と新しい考え方との新しい連携」の道には、何らかの「女性側から見て参加しがいのあるムーブメント」であり、かつ同時に日本社会側のコアの強みとぶつかり合わずにシナジーできるようなカルチャーの形成・・・っていうのがどうしても必要になってくると思っているんですが。

最近、前回記事で紹介した坂爪氏の著書に連動したフェミニズムについての結構アカデミックで網羅的なウェブセミナーを聴いたら、「第3波」フェミニズムというのは社会における多様な弱者の形を総合的に見てコミットメントを考えていく流れになりつつあったのが、「第4波」になってまた「徹底的に男vs女の仁義なき戦い」に戻ってしまったという話をしていて。

正直言って「古い社会にまつわるあらゆること」が「ただ無意味に抑圧してくる純粋な悪の化身」だと捉えるような「他責性のモンスター」的な種類の一部のフェミニズムムーブメントと、「日本社会のコアにある強み」がちゃんとシナジーできるという未来はあんまり描けないところがあるというか。

ただ「ギャルムーブメントが何らかのガールズエンパワーメントとして感じられる」回路があるとすれば、それは上記分類で言うところの「第3波フェミニズム」とか、前回記事で書いた「BOYS」の「対話するガッツのあるお母さんフェミニスト」とか、その前の韓流に関する記事で書いた「女性作者が書いたジャンプ大ヒット漫画”鬼滅の刃”に見える可能性」みたいな道も見えてくるんじゃないか?というような話をします。

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。結構人気がある「幻の原稿」一冊分もマガジン購読者は読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

また、倉本圭造の最新刊「日本人のための議論と対話の教科書」もよろしくお願いします。以下のページで試し読みできます。

ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。

「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。

また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

ここから先は

2,830字
最低でも月3回は更新します(できればもっと多く)。同時期開始のメルマガと内容は同じになる予定なのでお好みの配信方法を選んでください。 連載バナーデザイン(大嶋二郎氏)

ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?