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ポスト安倍時代のポリコレのあり方について。ゴーストオブツシマと欧米のフェミニズム本「BOYS」と「萌え絵」問題と悪役令嬢ストーリーとサムライカルチャーにハマる外国人についてなど

(トップ画像は「ゴーストオブツシマ」公式サイトより)

・はじめに

この記事は一週間前ぐらいに概ね書き上げていたんですが、なんか「記事の最後の着地をどうしようかなあ・・・」というところで何かピンとこないまま放置していたら、安倍氏の辞任のニュースが流れて驚きました。

安倍氏辞任については、いずれまたそれ自体を深く別記事で扱いたいと思いますが、手短に今月の「世界的大変化」について考えてみると、

アメリカで次の四年間の方向を決める巨大な鍔迫り合いが始まっていて、また安倍氏の辞任もあると、今回のテーマである「意識高い系の社会変革運動(”ポリコレ=政治的正しさ”的なもの)」と「その社会の伝統的な価値観」との間をどう取り持っていくのか・・・というのは、また「別のステージ」になっていく

ように思います。

安倍氏が倒れるということは、「反安倍」を叫ぶこと”ソレ自体”が大きなメッセージだった状況の終焉ということでもあって、「変革を求める側もちゃんと現実レベルでの落とし所を考えていく責任が生じる」構造がある

・・・はず。(次回の記事でも述べますが、アメリカでも同じことが起きるかもしれません)

(追記)この記事と対になるようにバズっている安倍氏辞任とアメリカ大統領選挙についての記事はこちらです。この記事が終わったあと良かったらどうぞ。

(追記終わり)

と、言うなかで、

・「意識高い系ムーブメントと社会の伝統との対話はどうあるべきか?」

・「対話可能なポリコレ勢力とはどこにいるのか?」

みたいな話を書きます。

最近、「ポリコレ=ポリティカリー・コレクトネス=政治的正しさ」を求めるムーブメントと「伝統的な社会の価値観」とのぶつかり合いはどこの国でも激しくなっていて、その一番大きなものは人種差別問題やフェミニズムなどなわけですけど。

場所によってはネットを舞台に果てしなく平行線の罵り合いに発展して相互に憎悪をかきたてるだけで終わっている分野も多いですが、今回の記事は、最近ネットで話題になった「ポリコレ関係の騒動」について触れながら、あらためて「意識高い系ムーブメント」が「伝統的な社会」とうまく協業して意味のある変化を勝ち取っていくためには何が必要なのか?を考えてみます。

なかでもまずは、先月7月17日に発売されるやいなや全世界で大絶賛を受けている「アメリカのゲーム会社が作った、元寇に立ち向かう対馬のサムライがテーマのアクションゲーム」ゴーストオブツシマについて考えてみたいんですよ。

1・「文化盗用」批判とは?

「アメリカのゲーム会社が作った、元寇に立ち向かう対馬のサムライがテーマのアクションゲーム」・・・って聞くとなんじゃそりゃ?って感じですけど、この一ヶ月世界のゲーマーを超熱くさせている話題作なんですよ。

ゴーストオブツシマは、発売後全世界でたった3日で240万本も売れたらしく、これは「有名ビッグタイトルの続編」以外では世界最速らしいです。

レビューサイトにおける評論家の評価もプレイヤーの評価もメッチャ高くて、次々とプレイ動画が日本でも海外でもあがっているので、まだまだ売れていくんじゃないか、PS4というゲーム機の最後に大ホームランタイトルになるのは確実という情勢らしいです。

で、私は普段そんなゲームしない人なんですが、なぜコレが気になって、いつ以来からわからないぐらい久しぶりにPS4をテレビにつないで(めっちゃソフトウェア・アップデートが溜まっていた 笑)やってみようと思ったかというと、このゲームが「文化盗用」だという批判が当初あったというのが非常に話題になっていたからなんですね。

「文化盗用」というのは、たとえばこういうゲームを日本人以外が作るという行為は、「自分以外に属する文化を盗んでいるんじゃないか」というタイプのポリコレ系の定番の批判なんですが、何が文化盗用にあたるのかはいつも凄く難しい問題なんですよね。

2015年にアメリカのボストン美術館が、モネの着物を着ている女性の絵の展示にあたって来館者が着物をコスプレ的に着られるイベントを開催したのが「文化盗用」だとして炎上して中止になったんですが、あのときは日本人は「はあ?なんで?どんどんやってくださいよ。京都とかでも普通にやってるぜ?」みたいな感じでした。

一方で、去年キム・カーダシアンというアメリカのセレブが自分が作った補正下着ブランドの名前を「KIMONO」で売り出そうとして、「いやいや補正下着はKIMONOじゃねーし!」的に炎上して、結局名前を変えて発売されるという事件があったんですが、あの時は日本のネット世論としても、「商標登録されて、全世界的にKIMONOと言えばこの下着ってことになったら困るでしょ」的に批判的だったことが多かったように思います。

その他、今検索して知ったんですが、2019年のラグビーワールドカップの時に、イングランド代表が開催地日本に敬意を表して「サムライ」風のプロモーション動画を作ったらしいんですが、この日本のサイトだと「これは敬意があるからOKな例」と紹介されてるんですが、その動画自体も見られるこのニュージーランドのウェブメディアでは、「典型的な文化盗用だから問題だ」ってことになってました。

あと今検索していて面白かったのは、アメリカ在住のエッセイスト、渡辺由佳里さんのこの記事で、同じケイティ・ペリーの「日本風」ステージを見ても、自分は笑っただけだったけど、”日系アメリカ人”の娘さんは激怒していたそうです。

なんでこういうことになるかというと、日本人は普段「日本の芸能界」のドラマやら映画やら音楽やらを聴いているので、「ハリウッド映画に出てくるカッコいい役は白人ばかりだ!」って言われても、「まあアレは自分のところのじゃないからね」ってなるんですよね。

一方で、巨大な「アメリカ」に囲まれて偏見も受けながら暮らしている日系アメリカ人からすると、自分が暮らしている国の芸能界で「カッコいい役」に自分と同じ人種がいない・・・っていうのは結構大問題なんだと思うんですね。ガリ勉オタクのメガネくんか、やたらセクシーで謎めいたスレンダー女性しかアジア人は出てこない・・・ってことだと、特に思春期の難しい時期には凹むだろうなあ、という感じがする。

こういう「自分と同じ人種・性別の人にも普通にカッコいい役が回ってくるようにしてほしい」というのは、実際にその国でマイノリティとして生きているとたぶん切実なんだろうなとは思います。

だから「文化盗用にあたるかどうか」というのは、「力関係」に依存するところがあるんですよね。

で、「母国」がそもそも消えてしまっているネイティブアメリカンの文化とか黒人の文化をアメリカの白人が軽い気持ちで真似したりすると、さすがにそれはね・・・ってなると思うんですけど。

一方で、若いアジア系アメリカ人のユーチューバーの動画とかを見ていると、韓国系は韓流コンテンツを、中国系は中国コンテンツを、日系は勿論日本のコンテンツを「母国語(ちょっと言葉遣いが適切でないかもだけどなんて言っていいかわからないのでこれで)」で楽しんで育っている世代が出てきていて、彼らはネイティブアメリカンやアメリカ黒人の場合とは結構違うセンスを持っている感じがします。今やほぼリアルタイムにネットを通じて全部”母国人”と同じぐらい摂取して育っている人も多いしね。

アメリカの白人の友人が好きで「やれやれだぜ」とか「波動拳!」とか、「かぁーめぇーはぁーめぇーはぁー!」とか「Water breathing 1st form!(水の呼吸、一の型!)」とか言ってフザケていても、嫌がる日系アメリカ人はあまりいないと思います。(井上ジョーっていう日本でデビューしていた日系アメリカ人ミュージシャン兼ユーチューバーがいるんですが、子供の頃日本のアニメ知ってるクラスの友人がいて”知ってるの?!”って凄い嬉しかったみたいな話をしていました)

たぶん、韓国系アメリカ人も最近は同じ気分なんじゃないかな。

2・ゴーストオブツシマと文化盗用批判

で、ゴーストオブツシマについて、発売直後日本のネットで「頭おかしいポリコレリベラルどもが、文化盗用だとか騒いでるらしいぜ」的に話題になっていて、その「反ポリコレ感情」ゆえに逆張り的に買ってみた人も結構多かったように思うんですが・・・

ただ、今「Ghost of Tsushima Cultural appropriation」でネットやSNSを検索しても、「ポリコレで頭オカシイ人たちが文化盗用とか叫んでるけど当の日本人が大絶賛してるぜ!リベラルどもってバカだよね」っていう方向のSNS投稿は結構見つかるんですけど(笑)あんまり「文化盗用批判」的な感じの批判そのものをしている人は多くないんですよね。

と、言うのも、

日本人がプレイしてもグウの音も出ないほど日本を舞台としたゲームとして完璧だから

なんですよ。

そりゃゲーム上の”演出”をやたら史実にこだわる姿勢であら探ししたらツッコミどころはあるかもですが、普通にゲームとして楽しもうと思うなら、下手したら最近の日本人が作るよりよっぽど「黒澤映画的日本」を完璧に表現していて、もう「文化盗用がどうこう」みたいな人工的な理屈を振り回す余地がぜんぜんない。

まず映像を見ているだけで超美しい!そしてゲームとして面白い!

とりあえずこのゲームプレイトレイラーを、飛ばし飛ばしでもいいんで見てほしいんですけど・・・

これは「オープンワールド」系のゲームと呼ばれるもので、プレイヤーはこの超美しく再現された対馬を本当に自由自在に動き回れるんですね。

動画見てもらったらわかるけどもう超絶感動的に風景が美しい。だけじゃなくて「世界観」がめっちゃもう「サムライムービー」なんですよ。主人公の立ち振舞いとか、殺陣の動き、音声に日本語を選択した時(上記動画は英語版になってますが)に主人公がジャンプしたり剣を振ったりする時の「ムゥッ」「フッ」「ハッ」的な何気ない掛け声まで、もう笑っちゃうぐらい「かっこいい日本」で。

開発者インタビューとかを読んでいると、ちゃんと「サムライの動き」にするために、いろんな武術の型とかを参考にしながら、「西洋人のように動きすぎず、抑制された一撃必殺的な動きになるように」作り込んだらしく。

単に見た目がそうなってるだけじゃなくて、ゲームシステム自体が非常に「サムライ的」なんですよね。

移動していると狐がいて、それを追いかけていくと稲荷の社があってそこで手を合わせると主人公が成長するとか、絶景のポイントでは正座して和歌を詠めたり、山中に隠れた温泉を見つけて浸かると体力の最大値が上昇するとか、これらがテキトーな思いつきじゃなくて日本人が見て全然違和感ないどころか「よくこんな凄いゲーム作ったな」って唖然とするレベルで作り込まれている。

戦闘も、「暴れん坊将軍」型の、囲まれた敵の攻撃をパキーンパキーンって跳ね返しながら一撃で倒していく戦闘(上の動画8分半ぐらいから)と、相手に気づかれないうちに背後から飛び降りて脇差でズバッとやる「必殺仕事人」型の戦闘(上の動画11分ぐらい)と、それぞれが本当に「らしく」作り込まれていて、文句のつけようがないんですよね。

プレイスタイルの自由度が高い上に難易度設定もできるので、普段ゲームとかしない人でも一度試しにやってみるだけの「すごさ」はあります。おすすめです。

パッケージ版は一瞬で売り切れちゃってるので、PS4をお持ちの方はダウンロード版をどうぞ。


3・ゴーストオブツシマ騒動からわかる「あるべきポリコレ」3箇条

で、この騒動の教訓は何かっていうと、以下の三箇条だと思うわけです。

1・「文化盗用批判」的な緊張感があることは良いこと(他文化のテキトーな参照に慎重になるため)

2・しかし「本当に凄いもの」を作れば、文化盗用批判のような人工的な理屈は吹き飛んでいく

3・だからこそ、「形式的な理屈での批判」が暴走して表現の自由が失われないようにしなくてはいけない

・・・要するに、

「どちらかだけ」が「絶対的な権力」を持てないような拮抗関係をいかに維持できるかどうかが大事

なわけですね。

正直言ってゴーストオブツシマみたいに凄いゲームは、今の日本人にはなかなか作れなかったと思います。

日本人以上に黒澤映画的な世界にハマっている人がいるなら、白人だろうが韓国人だろうが中国人だろうが男だろうが女だろうがLGBTだろうが、黒澤映画的なゲーム作りたい!ならやってみればいい。

「やってみる」前に、形式的な理屈だけで否定してしまうと、本来可能になるはずだった「凄い作品」が生まれなくなる可能性がある。

もちろん、「他者の文化」を使う以上は、覚悟がいるぞ・・・ぐらいのプレッシャーはあった方がいいですよね。

でも、その「形式的な理屈」だけで「チャレンジする自由」を縛ってしまうと、ゴーストオブツシマのような凄い作品は生まれなくなる。

この「ケース・バイ・ケースの微妙な力関係の妙」を最適に扱えるようになっていくことが、人類社会の幸せな多様性実現のために大事なことなはずです。

4・何かを作り上げるより、文句つける方が簡単すぎる問題

この問題の本質はなにかというと、

「凄いゲームを作る」ことに賭けているエネルギーの大きさ・真摯さに対して、「あ!これ、ポリコレ論理で攻撃できるぞ!SNSでけしかけてやれ!」っていう脊髄反射的な反応で憂さ晴らしをする人があまりにもカジュアルに攻撃できてしまう非対称性

なんですよね。

そういう「憂さ晴らし的にSNSで誰かを攻撃することに熱中するばかりで、実際の問題を解決することには全然興味がない」ような運動が何かを生み出すことはない・・・っていうのは、オバマ元大統領ですら力説してる状況なんですけど。

↑リンク先でのオバマ氏の「他人に石を投げているだけでは、変化をもたらすことはできない」っていうのはとにかく今噛み締めたい言葉だなと思うわけですけど。

要するに、「文化盗用」とか「差別問題」とかでもそうなんですが、「形式的な理屈だけでありとあらゆる他者の活動を停止できる権利」は誰に対しても認めるべきではない・・・ってことなんですよね。

「プレッシャーがかかっていく」ぐらいの感じは社会を前に進歩させるために大事なんですが、それが「相手の事情とか聞く耳全然ない」感じで「自由自在に確殺できる」ような設定になっていると、それは一種のファシズム的全体主義ですし、「殺されないための必死の抵抗」ゆえに余計に社会の中に相互憎悪が募っていって、「抗議する人」のSNSアカウントに果てしない悪口雑言が投げ込まれる事態もエスカレートしてしまう。

5・また「隠れトランプ」にやられてしまうかも?

この点、特に最近のアメリカは極端になりすぎていて、人種差別問題の是正に反対している人なんてほとんどいないし、一部の警官による黒人の扱いを改善することが必要なのはトランプ政権関係者だって認めてると思いますが、一部の人が暴徒化して関係ない商店とかを襲っていることへ懸念を少しでも表明するだけで、SNSで物凄い剣幕で罵倒のコメントが殺到するみたいなのが・・・・

誰が銃を持ってるかわからないアメリカで警官やるって本当に大変なことだと思うわけですが、

「我々の日常生活を守ってくれる警官の命も大事だし、黒人の命も当然大事だし、どうやったら改善していけるか考えたいですね」

という程度の発言ですら、徹底的に罵倒されてしまいそうになる昨今のアメリカの状況は、

そういう態度が、いわゆる”隠れトランプ支持者”を静かに強力に増やしまくっているのではないか?

とかなり私は心配しています。

リベラルメディアを見ていると、「トランプは分断を煽っている」って決まり文句のように言ってますしそれは否定しないですが、一部の民主党側支持者の「警官側の事情とかちょっとでも考える発言する人」に対するメチャクチャ攻撃的な罵倒を見ていると、「分断を煽っている」のはどっちだよという気持ちになります。

もっと普通に穏健に、一部の暴徒には厳しい姿勢を見せたり、警官たちへの敬意やねぎらいの姿勢は当たり前に見せておくことは、バイデン側の選挙戦術としても重要なんじゃないかと私は思うんですが。

せめて、

「今日も命の危険をおかしながらコミュニティの治安を守ってくれている多くの警察官たちに私達は敬意を払っているし、問題は一部の黒人と見れば攻撃的になる偏見を持った警察官をいかに掣肘するかなのだ」

的な、

「デモ隊と暴徒を一緒にするな」の論理を「警官」の側にも向けるようなキャンペーン

をちゃんとやらないと、ジリジリと「隠れトランプ」の増殖を招いて、また4年前の悪夢を繰り返すことになりますよ。

6・アメリカだからできることもアジアなら別の論理が必要

まあしかし、アメリカはアメリカのやり方でやるしかない・・・のかもしれず、自分の国じゃないからあまり余計な口出しをしたくない気持ちもある。

あちこちで銅像を引き倒して、徹底的に相手を悪者にして、それで押し切って選挙の結果を確定させてから、現実的な対策は実務家が考えるんだよ・・・ということなのかもしれない。

ただ、それは「アメリカだからできること」でもあるんですよね。果てしなく反政府意識を焚き付けていっても、とりあえず崩壊しない国力があるからやっていけている、みたいなところがある。

アメリカに限らず欧米諸国は、自分たちの文明の一貫性について非欧米諸国ほど”今はまだ”根底的に相対化されきってしまっていないので、その特権的地位を利用してこういう「遊び」ができると言ってしまってもいいかもしれない。

ここ最近のnoteで何度も言っているように、アメリカの人種差別問題に対する発想は、「アジア」が関わってくるとバグるんですよね。

たとえばこの記事

で書いたように・・・・

>>>>(以下リンク先記事から引用)

欧米人は歴史的にアジアに近づけば近づくほどある程度経験値がたまって老獪になってきたのと、アジアの側に独自文明としてのまとまりがちゃんとあって抵抗力があったこともあって、「欧米vsアフリカ」の関係性は、「欧米vsアジア」の関係性とはかなり違います。

で、この時の問題は、欧米においては「おまえは欧米側に立つのか、アフリカ側に立つのか」みたいな二者択一の世界観になりやすく、ここで一度「抑圧された側に立つ」という選択をしてしまうと、「為政者側の都合」などというものをちょっとでも勘案すること自体が「悪」みたいになってしまいがちなわけです。

「お前は権力者の肩を持つのか!」みたいな糾弾がはじまる。人種差別反対運動の一環であればどんな略奪が行われようと警官が殺されようと、それに疑問を唱えること自体が「政治的に正しくない」ことにまでなってしまう。

でもそういう世界観は、「アジア」という要素が入ってくると途端にバグるんですよね。

その社会内部で比較的「抑圧された」立場にある人達を理不尽から守る必要は当然ある。一方で、そのローカルな共同体の安定性を崩壊させずにちゃんと生活を成り立たせるための紐帯を崩壊させないようにする必要がある。

その「両方」が大事ですよね・・・というのは、欧米文明の「外側」にあるアジア的立場からすれば当たり前すぎるほど当たり前のことであって、「どっちかを明確に選ばず声をあげないこと自体が抑圧に同意したことになるんだ!」みたいな態度自体が持っている無責任さに対する反発も当然強いことになる。

欧米人は、自分たちの文明の自明性に対して盤石なコンセンサスがある(と少なくとも現時点では思えている)ので、野放図にバンバン「反権力」だけを突出させていっても「その国を成り立たせる安定性」は崩壊しないという楽観を持てている。

しかし、こういう態度自体が明らかに「持てる者の特権」でしかなくて、歴史的に果てしなく欧米由来のムーブメントにローカルな共同体の一貫性を崩壊させられる危機にひんしてきた非欧米国から見たら、そういう態度自体に潜む傲慢さがヒシヒシとわかるわけですよね。

果てしなく欧米的に純粋化した懐疑主義が共同体の自明性を掘り崩し続けるので、かなり無理矢理な独裁とかでしか社会を維持できなくなっている第三世界の国はたくさんある。

歴史的に言って、たとえばフランス革命とかでもなんでもそうなんですが、「当然のようにポジティブな面もマイナスな面もありますよね」っていう当たり前の話が、21世紀には大事なんですよね。

<<<<(引用終わり)

で、この問題は、まさに米中対立の根本にある問題でもありますよね?

7・柔らかく受け止めるサスペンションを作り出す使命が日本にある

最近ファインダーズの連載では2連続で米中冷戦について書きましたが・・・

混迷を極めて第三次世界大戦すらありえる現代の世界の中では、最近何度も引用しているこの図のように、

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欧米文明的に先鋭化させすぎたムーブメントを、いかに「生身」のレベルまで引き戻して、「ちょうど良さ」を実現できるかどうか・・・それが東西文明の狭間で生き延びてきた私達日本人が今果たすべき使命なんですよ。

欧米文明の理想は消さないが、その独善性は相対化して中和する。アジア社会の閉鎖的で構成員に抑圧的になりがちな悪癖が暴走しないように注視しつつ、そのアジア社会の特質がもたらす「調和」を生み出す力は徹底的に活用していく。

米中冷戦の時代に、世界は日本の「こういう貢献」をこそ、本質的に求められているはず。

しかし現状はといえば、「土着の社会側の事情」を一切勘案せずに「欧米みたいになんでならないのムキー!」って吠えまくる人と、そのSNSアカウントに「うっせえここは日本だ黙れ!」的な悪口雑言を投げ込みまくるガチのネット右翼さんたちと、どっちかしか生息していないイメージになってしまっていますけど(笑)

ただ、この問題を、単に「欧米的基準で見た時に非欧米社会の閉鎖的なところを指摘する」だけだと、「非欧米社会が社会の運営上必要としている免疫システム」的なものまで崩壊してしまう可能性があって、その「危機感」がその「ネット右翼的悪口雑言」に結実しているのだと考えると、私はなかなかそういうものを否定する気にはなれないんですよね。

ポリコレ用語で言うところの「権力勾配がある時にトーンポリシングしてはいけない」的な課題がここにはあるというか、もうちょっとロマンティックに言うと村上春樹風に「壁にぶつかって壊れる卵があるなら、卵の側に自分は立ちたい」的な意味で、どうしてもその「ネット右翼的暴言」を否定する気になれない自分がいる。

それは今年出した拙著「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」に書いたとおりです。

要するに「アジア社会の中のマイノリティ的な個」だって「弱者」だけど、一方で「欧米文明に対するアジアの文明の伝統」的な視点で言えば「伝統」の側だって「弱者」なんですよ。

どっちの視点を重視するタイプなのかは人それぞれですが、どっちの側も「相手だけが強者で自分は弱者!だからこっちに配慮しろ!」とだけ言い合っている状況だと整理すると、見えてくるものもあるかと思います。

「アジア社会の中のマイノリティ的な個」は「その社会の伝統的存在」が「圧倒的強者」で、だからこそ徹底的に「弱者である私の言うことを聞くべき」と思うかもしれないが、逆に「伝統を受け継いでいる側」から見れば「欧米文明の威を借るキツネ」的に無敵の傍若無人さでありとあらゆることを攻撃されている気分になっている人たちがたくさんいるってことですね。

最近、昔なら何の批判性もなく「欧米じゃこうなのに日本って遅れてるよね」的なことを吹聴していたSNSアカウントですら、”一応は(笑)”、

「なんでも欧米がいいわけじゃないし文化の違いもあるだろうけど・・・」

的な但し書きをつけるようになってきたように思います。まあ、あと一歩さらに押し込んで、徹底的に「相対化」を行っていけば、

「人工的な理屈で誰かをぶっ叩きまくること」よりも、「そこに生きている人が実際に幸せに生きられるかどうかが大事だ」

という当たり前の「対話」のモードが立ち上がってくるでしょう。

8・「誰とでも対話しようとするのではなく、対話可能な人と対話する」べき

で、結局どうすればいいのか?って話なんですが、さっきのゴーストオブツシマの三ヶ条を応用して・・・・

・非欧米社会が閉じすぎて、それに抑圧された個人が「異議申し立て」すらできない状況にはならないようにすることがまず大事なのは言うまでもない。

・しかし、欧米文明の独善性をちゃんと相対化していないような、ローカル社会の独自性を尊重しないような暴論はちゃんと抵抗勢力が現れて、どちらにも進めない拮抗状態にまで持っていかれるようにする。

・そして、「相手側を無理やり従わせる権利はどちらもない」押し合いへし合いの状況を作った上で、改善可能なポイントを一個ずつ積み上げていく作業は地味にやっていく

SNS社会の永遠の問題は、地味な問題解決よりも「敵」を作ってナルシスティックに悲憤慷慨してみせて騒いだ方がアテンションが集まっちゃう・・・ってことだと言われつくされてるわけですけど。

一方で、「一部サークルだけで過激化してソレ以外を敵視する思想」がある閾値を超えて広がっていくことはありえない・・・という社会の実情もあったりするわけですよね。

ポリコレ関係の炎上ニュースって、四六時中SNS見てる人には次から次へと「世界中が大激論」みたいになってるイメージになりますけど、あまりそういうの興味ない普通の人から見たらほとんど知られていないですからね。

私は経営コンサル業のかたわらいろんな個人と「文通」しながらその人の人生を考える、みたいな仕事もしてるんですが、昨今かまびすしい「萌え絵」関係の騒動とかについては、かなり”政治的”なタイプの文通相手さんでも「なんですかその話?」という反応になって驚くことが多いです。

SNS中毒者の印象ほどには全然広がっていかないからこそ、

「対話不可能な人同士が無理に対話することなく、対話可能な人同士だけでちゃんと意味のあるカイゼンを積み重ねていけば良い」

というビジョンが見えてくるわけですよね。

「一歩ずつでも変わっていけている実感」が出来てきさえすれば、単に罵り合ってるよりそっちの方がいいよね・・・という理解はどこかでのタイミングから急速に広まるんじゃないかという感じはしています。

で、じゃあやっとこの記事の狙いだった「対話可能なポリコレってのはどこにいるのか?」という話になってくるわけですが!

もちろん今後もいろんな可能性が模索されていくと思いますが、とりあえず本記事では、個人的に「これは面白い動きだなあ」とずっと注目していた2つを紹介したいと思っています。

9・面倒くさい具体的な話をしよう(メタ認知編)

一つは、坂爪真吾氏の

「許せない」がやめられない SNSで蔓延する怒りの快楽依存症

・・・という本で。

これは、「許せない」という感情に依存症になって日夜SNSでバトルをし続けてしまう人たちを、男も女もLGBTも表現規制関連もジェンダー論も、とにかく

「誰の独善性も許さないぞ!」とばかりに「全方位的に斬りまくる」

・・・なかなかストイックな本でした。

男嫌いのフェミニズムも、女嫌いのミソジニーも「両方均等に斬る」という感じで(笑)

凄い面白い本だけど、発売後はそれほど話題になっている感じがしないのは、あまりに「あらゆる存在を斬って」しまっているので味方が減ってしまったところがあるかもしれません。

フェミニズムを斬る!けど男は斬らない・・・とか、男を斬る!けどフェミニズムは斬らない・・・とかだったらもっと話題になっていたかもしれないけど・・・

あ、今この記事をアップしようとしたら気づいたんですが、この本についての発売ネットイベントが、本日8月29日の夜にあるそうです。

こういう関係の問題ではかなりアクティブな活動家の柴田英里さんが主催?なのかな。僕も参加申込をしたので、楽しみにしていようと思います。(こういうのがネットイベントになって、東京のどこかにわざわざ集まらなくて良くなったのはコロナ禍がくれた数少ない良い点のひとつですね)

この坂爪氏の話を読んで面白かったのは、この柴田さんがネットにアップされていたイベント用の資料で言うと、この図↓のように・・・

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現代ネットSNS政治活動家の多くは、

「許せないがやめられない」がゆえにどんどん「一番近い仲間以外をどんどん”敵”にしていってしまっている」

という指摘はなかなか勉強になりました。ここではフェミニズム側だけが取り上げられていますが、坂爪氏の本の中にはLGBT側も男性学側も、色々とそういう傾向があることが物凄く具体的に分析されていたので良かったらどうぞ。

この本は凄く前から注目していて発売日に買って読んだんですが、坂爪氏の何がいいかというと、「とにかく全方位的に容赦なく例外なく独善性を相対化していく」姿勢なんですよね。

単に男の立場から女を叩くとか女の立場から男を叩くとかLGBTの立場からマジョリティを叩くとか、そんなレベルの話じゃない。全方位的に、ちゃんと対話して社会を前に進ませるために独善性を掣肘していく。

正直言うと、

「め、めんどうくさい人だな・・・」

っていう印象になる人も多いと思うんですが、その「めんどうくさいこと」から逃げないところが凄くいいなと思うんですよ。

こういう動きが活発化していくことは、「対話の第一段階」として非常に重要なことだと思います。

こういう「みんなが自分を省みるべき」的な方向性は非常に「日本ならではの可能性」と言えるかもしれないですね。

10・面倒くさい具体的な話をしよう(真剣な対話編)

で、そうやって「メタ認知」的に状況を整理することも大事だし、また一方で、「ちゃんと一対一で逃げずに対話する」的なことも大事だと思うんですが、それが次の本で・・・↓

「ボーイズ 男の子はなぜ男らしく育つのか」

これは、「同性婚しているカナダのレズビアンカップルが、男の子を育てる」というなかなか極限的な状況の中で、いかにも「男の子!」って感じに育っていく息子のリアルと、「ポリコレ」的な「あたらしいジェンダー規範」的なものとぶつかりあいの中で、どう関係を結んでいけばいいのか体当たりで模索する・・・みたいな話です。

息子がアイスホッケーをはじめたら、その体育会系文化の中にある「古い」考え方とどう付き合うべきなのか真剣に悩んだり、息子が”暴力的な”テレビゲームをやりたいとなったら、そのゲームそのものやゲームによる子供の発達についての科学的調査について調べまくって、それを元に息子と延々と話し合い、

まだグランド・セフト・オート(暴力的なので有名なゲーム)はダメだが、ファーストパーソン・シューティングゲームについては妥協する、ということで落ち着いた。

とかなんとか一個ずつ対話をしていこうとする様子はなかなか痛快で面白いです。

まあ、正直この人も、

め、めんどくせー!!!!!

って感じのお母さんなんですよね。

でも、「頭ごなしに相手を否定しないぞ!」というガッツが溢れていて、ちゃんと調べてちゃんと自分も体験してちゃんと子供の側の意思も尊重しながら一歩ずつ「自分たちの家族だけの個別の答」を見出そうとしているところは凄く好感持てました。

子供がゲームにハマってるのを見て、「ゲームが子供の発達にどう影響するかの研究者」に話を聞きに行って、「恐れないで親も一度ゲームの楽しさを体験してから判断するべきなんじゃないか」とか言ったりしていて、徹底的に「私達は決して誰かに頭ごなしに何か言ったり命令したりはしないぞ!」というガッツというか高潔な対話精神がある感じが筋金入りで凄いです。

昨今ネットで騒がれている「萌え絵」騒動でも、萌え絵を楽しんでいる女性がたくさんいて、たとえばアイドル文化とかも消費者側にも作り手側にも女性がたくさんいて、その人達は別に男に媚びるためとか男社会の価値観に洗脳されて自己破壊衝動に駆られてそれをやってるとかではないのだ・・・という「事実」を認めた上で、「偏見で判断しないで、その楽しさを一部は体験して味わってみよう!」からスタートする人がいてもいいはず。

この「ボーイズ」の本、例の”文通のしごと”で繋がってるある女性(地方政界で頑張るお姉さんで二児の母親)に読んでもらったら、凄い「わかるなー」って言ってたんですが、特に、

子供がフォートナイト(ファーストパーソン・シューティング)やりはじめた時は銃で打たれた人が四つん這いになってウゴウゴするシーンが残虐すぎに感じて嫌だったけど、子供が凄くハマってるモノだからちゃんと向き合おうと思って過ごしていると、だんだん「男の子の世界」を拒否せずに受け入れられるようになった。私は女三人だけの家族で育ったから、今みたいに男三人プラス私で暮らしていると「未知の世界」ばかりで、最初は拒否感あったけど最近は「世界が広がるなあ」と感じられるようになった。

みたいな感想を送ってくれて、なかなか良かったです。

もちろん、今やファーストパーソン・シューティングのプロ級プレイヤーの女性もたくさんいるので、こういう「性別観」も変わっていけばいいねという話ではありますが、それがちゃんと変わっていくためには、「現時点での親」の側が偏見を捨てて同じ目線でその「文化」をまずは一緒に味わってみて考える姿勢が必要なのではないでしょうか?

11・「萌え絵文化圏」の可能性を味わって理解するところから!

かく言う私もあまり「萌え絵文化圏」に詳しいわけでもなくむしろあまり触れてこなかった人間なんですが、ただ彼らが生み出す文化が物凄い「独自性」を持っていることは明らかなので、あまりに自分と違う発想すぎるからこそ尊重しなくちゃ!・・・と思っているところがあるんですよね。

ネットのSNSで日々「表現の自由」で戦いを挑んでいる人も、「別にそんなに萌え絵が好きってわけじゃないけど、独自文化圏が形成されている事実があるところに無理解の上から目線で帝国主義的な態度を取るヤツがムカつく」的な義侠心が理由で参戦している人も多いんじゃないかと思います。

欧米文明の発想がデフォルトになって、その視点で「欧米外の文化」を見ると、まあ色々と「未開の蛮族め!」みたいな気持ちになる時があるわけですが、果たしてそれが本当に「この多文化共生社会時代に主張していいものなのか?」をちゃんと自己検証しておきたいわけですよね。

「BOYS」のお母さんたちが自分の息子が残虐っぽいゲームにハマってるのに対して、頭ごなしに否定する前にちゃんと「そのゲームの何が面白いのか」を体感できるところまで知ろうとしていたように。

たとえば最近、「文通のしごと」で繋がっている司書の女性に教えてもらったんですが、中高生に人気のライトノベルのジャンルとして、「悪役令嬢もの」ってのがあるらしいんですよ。

悪役令嬢っていうのは、いわゆる「乙女ゲーム(主に女の子が遊ぶ、イケメン何人かに言い寄られる系の恋愛シミュレーションゲーム)」の「主人公でなく悪役」に、「普通の女子高生」が転生してしまう・・・というような設定の一連の作品群なんですが・・・

といってもよくわからないと思いますが、私はその司書さんに延々と説明してもらったあとで、この漫画を読んで「すごい分野だ・・・」て思いました。

これ、主人公の女の子はその「乙女ゲーム」をプレイしていたので設定を全部知っている状態で、「乙女ゲーム」内の世界の「悪役」に転生してしまうわけなんですけど。

もともとその「乙女ゲーム」の設定的にはその悪役はたいてい主人公に恋人を取られた上で死んだりする役回りなので、それを事前に知っている主人公はそれを回避しようとアレコレ必死に頑張る・・・んですけど。

「愛に飢えた育ちゆえに暴走する王子が自分の破滅の原因になるはずの設定」だから、「その子をちゃんと愛してあげればいいんだ!」的に色々と回避策を練っていくうちに、なんか登場人物全員がなんとなく幸せになっちゃう話なんですね。

なんか、これに限らず「異世界転生モノ」って、自分自身に向き合うことから逃げて調子の良い設定に逃げ込んで「俺強えええ!」的夢想にふける負け犬の物語的なジャンル・・・だと思ってませんか?

でも、これ読んで思ったのは、「この世界が誰にとっても優しいものであってほしいという願い」が凄いあるんだな、って思ったんですよ。

「主人公タイプの人に生まれついた自我」も、「端っこで生きがちなタイプに生まれついた自我」も、それぞれなりに「居場所」が存在するような並行世界が無数にあるような「一面的でない豊かな社会像」を追い求める切なる気持ちがある。

これって、いわゆる「差別問題」的な話と凄く表裏一体の問題で、社会は万人が共有しているものだから、スポットライトが当たりがちな人も当たりがちでない人もいるわけじゃないですか。

そこに「差別」があるんだ!っていうことを果てしなく言い募っていくと、「自分の正統性を果てしなく他人に対して主張しあい続けなくてはいけない社会」になっていくわけですけど、それが人々を幸せにしているんだろうか?みたいな話もあるわけで。

日陰が好きなひとも日なたが好きな人もいて、日陰が好きな人同士がワイワイ楽しんで生きていて、日なたが好きな人同士もワイワイ楽しんで生きていて、お互いをある程度尊重できていれば、「形式的な論理で非対称性がどうこう」みたいなのだけを見て「問題だ!」と騒ぎ続けるよりも、あらゆる人にとってもっと「自分らしい」道が見えてくる可能性がある。

そういうふうに考えると、「萌え絵文化圏」とか、「果てしなく平行世界が広がっているような世界観」とか、欧米文明に毒された人間観・世界観が結構深いところにある人間(僕も含めてなんですが)からすると果てしなく「理解不能」に一見すると見えるんですが、でもある意味「欧米文明の行き詰まりを現地現物に解決しようとする物凄くオリジナルな試み」だったりするのかもしれないと思えてくる。

先月、「韓流ドラマ」に出てくる男のカッコいいふるまいは、むしろ物凄く前時代的に強権的なシステムに支えられていて、「1人の男がカッコいい存在になるために何十人もの男を”ダメ男役”として生贄にする」ような構造はサステナブルじゃないという記事を書きましたが・・・

「果てしない平行世界」の中で、「いろんな人のエゴの自己充足的満足をぶつかりあわないように調整する優しさ」って、上の記事で書いた問題を超える道を見出そうとする切実で非常にオリジナルなチャレンジの結晶だと言えるかもしれないと最近は思っています。

なんにせよ、「局地的にでも大ブームになるようなジャンル」とか、そのための細部の文章や絵の磨き込みに投入されているエネルギーの量に対して、全然興味もないのに通りすがりに「なんか差別ってことにできそう」となったらSNSで燃やしてやる・・・みたいになってるムーブメントの軽薄な傲慢さってやっぱりあると思うんですよ。

なにより、さっきの「全く同意見の味方以外は全部敵にしてしまう」的な話で言うと、萌え絵文化圏にいるような人は結構リベラルで女性に対して抑圧的でない人も多くいると思いますよ。もっとヤバい抑圧的な態度を取る男はもっと生得的に権高に行動するし、「萌え絵文化圏」のような持って回ったオタク的な趣味を持ってないことのほうが多いと思います。

「本来大事な味方」になってくれるはずの存在を、「なんか叩きやすいから」レベルの安易さで叩きまくってどんどん「敵」を増やしつつ、結局「大事な社会的カイゼン」のための仲間を募ることはできずにいる・・・のではないでしょうか。

12・”ジェンダー問題や差別問題の外側にある真因”に迫らなくては!

さっきの坂爪氏の本に、「ジェンダーの問題だけじゃない問題をジェンダーだけで解決しようとする無理」っていう話が出てきたんですが、これは差別問題とかも一緒で、具体的な法律論とか、制度の話とか、そういうところの課題に落とし込まないと、結局「日本の男に呪詛の声を放ってストレス解消して終わり」みたいにしかならないんですよね。

よく言われてる医学部入試の男子加点問題なんですけど、そりゃ受験生の女の子本人は「恨み言」のレベルでとどまってもいいけど、オトナなフェミニズムムーブメントの関係者は、「なぜそうなっているのか」を、単に日本の男が女を支配して下に置いておきたいからだ・・・みたいなアホな理由で留めないで深堀りしてくれないと!

そしたら、崩壊寸前の国民皆保険制度を世界一の高齢化社会の中でなんとか維持しつつ回しているいろんな人の必死の取り組みも見えてくるわけで、日本の医療が実現している患者から見たクオリティを考えれば、「アメリカじゃできてるのに日本じゃできてないのは結局差別主義者がいるから」みたいな単純な話じゃないことはわかるはず。

以前、ネットの匿名投稿で、「女医も労働環境が厳しい診療科で働くようにしないと、今後女性医師が増えたら日本の医療は崩壊しちゃう。それがわかってるから頑張ろうと思ってたけど、自分だって結婚したいし子供もほしいし私生活も充実させたい。だからすいませんけど私はラクな診療科に行きますごめんなさい」みたいなのがバズってたことがあったんですけど、単に「入試」の部分を叩いて溜飲を下げるんじゃなくて、その「背後にある制度的な事情」を理解して、その解決策を考えることに社会の注目を集めるように持っていかないと。

「単に日本の男を呪詛して終わる」のに費やされているエネルギーが、ちゃんと「問題の真因」までちゃんと誘導されることで。やっと医師の労働環境とコストと国民が医療に求めるクオリティのにらみ合いの中で、どうしたら女性がそこに今よりもっと入ってきても崩壊しないようにできるか・・・をやっと真剣に考えられるようになる。

その「議題設定」までちゃんとやってくれないと、「ジェンダーの範囲内だけで”抑圧者ども”に文句を言っているだけ」って、あなたがたはこの社会の「お客さん」でしかないのか?って話じゃないですか。

これは、アメリカの人種差別問題もそうで、黒人差別問題を解決するには、例えば教育制度の問題とか、特に学区制度によって「金持ち地区の住民以外マトモな教育を受けづらい」構造があるとか、そういう色々な「制度的な問題」は指摘されてるわけですけど。

そういう「粘り強く取り組む必要がある課題」には全然触れずに、「いくらでも殴っていい敵としての警察」を設定して「警察予算を削減しろ!」と騒ぐ・・・そういう単純化した運動に疑問を持つタイプの人も罵倒しまくる・・・ってそんなので本当に問題は解決できるんでしょうか?

最近ちらほら使ってる図ですけど、以下のような形で「古い社会がわにある事情」をちゃんと読み取って解決していかないと、「糾弾して悲憤慷慨して理解しようとは全然しない」態度は、既存社会の側からの信頼感をどんどんドブに捨てていってしまうような感じになっていると思います。

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13・対話できない人とは対話できなさに意味がある。そして対話できる人と対話する

まあ、いろんな人がいるし、とりあえず今本当に辛い状況にある人は「異議申し立てしかできない」ってのも確かだと思います。

だから、それが無理に黙らされず、SNSで結構盛り上がってたりするのも意味があることでしょう。

でもその糾弾が一面的でローカルな社会の事情を理解しないものであるなら、当然のように「バックラッシュ」も受けて押し合いへし合いになります。

こういう面においては、

この「対話が成立しなさ」自体が「大事な対話」(笑)

と言っていいと思います。

「双方向性」を失った自己絶対化は必ずバックラッシュされるのだ・・・という構造がちゃんと徹底されていれば、「異議申し立て」の機能は果たせるし「黙らされることはない」状況にはなるけど、あんまり前にも進まないし不毛っちゃ不毛だよねえ・・・って感じにもなってくるでしょう。

大事なのはその「バランス」が維持されることですね。誰も黙らされないが、独善性はちゃんと掣肘される。

その先に「対話」する・・・という段階では、「対話できる余裕がある人が、代理的に代表してやる」みたいな態度が必要かなと私は考えています。

「医学部入試の点数で不利な扱いをされた18歳の女の子」は、ただSNSで怒りを発して異議申し立てをするだけで十分その役目を果たしたと言える。

でも、50代の大学教授のフェミニストさん・・・とかは、その女の子の気持ちを受け止めてやりつつ、「どういう制度的変更が必要なのか」という議題設定をちゃんと「オトナの責任」としてやって、官僚なり医師会なりそういうところに働きかけるようなことまでやる。

・「対話出来ない人はとにかく大騒ぎして対話できなさを露呈させること自体が対話」

・「対話できる余力がある人は対話できない人のぶんまで引き受けて具体的な話をすすめる」

こういう社会になっていけばいいですね。

さて、今回記事の無料部分はここまでです。

以下の部分では、「ゴーストオブツシマ」をプレイしていて思った「サムライカルチャーに世界中の人々が惹かれる理由は何なのか?」みたいな話について考察したいと思います。

ユーチューブ見てると、世界中のゲーマーが「対馬のサムライ」になってバッタバッタ蒙古を切り伏せるゲームを楽しんでいるプレイ動画が見れるわけですが・・・彼らは何にそんなに「ハマって」いるんでしょうか?

サムライカルチャーって、かなり「日本」と「中国韓国」の文化を分ける違いを生み出してるところもあると思うんですよね。

もちろん「軍人」はどこの世界にもいたわけですけど、それが「一点集中化された政治的中心から見てあくまで”属”とされる中華文明圏」と、「一所懸命」的なボトムアップの中間集団が自己決定権を完全に持っていて、「その総体としての武士自体が政権を担う実務集団になった日本」との違いは、未だにそれぞれの社会の運営の端々に影響を与えている「違い」を生み出しているように思います。

なんかこう、日本と「中国や韓国」に「文化的な違いがある」っていうことをちょっとでも言うだけで「脱亜入欧的な蔑視だ!」みたいなことを言う人がいるんですけど、そういうのって一周回って物凄いアジアの実情を下に見てる偏見だと思うんですよ。

と、言うのは、例えば北欧と南欧には「文化的違い」があって当然だし、食事がテキトーでワーカホリックな北の欧州人が毎食一時間ベチャベチャ話しながら食べるし昼寝もたっぷりする南欧の国の人と「同じヨーロッパ人だろ!違いなんてないさ!」的な付き合い方をしたら余計に揉めるじゃないですか。

「違うんだな」ってわかった上で付き合うのは、むしろ「近い関係でお互いを尊重しあおうとする」なら当然の配慮だったりして。

同じことをアジアではできない・・・というのは、「欧米さまにはそれぐらいの違いがあるが、極東のよくわからん国同士が”違い”を主張するなんておこがましいぞ」的な感覚があるんじゃないかとすら思います。たまに「中国と日本って違うんだっけ?」的なことを言う無知な欧米人がいる感じで。

で、「日本の文化のサムライ的な部分(中間集団の自律性と価値観の徹底的な相対化・多様化)」と、「中韓」系のトップダウンに価値観が統一されていく文化って、ある点では物凄い相性が悪いんですよね。

お互い「同じ文化」だと思って同じように動くべきだと期待していると、物凄く相互憎悪が募ってしまう。

さっきも貼りましたが、先月のnoteで、最近流行りの韓流コンテンツの分析と、「古い社会の権威」を次々と焼畑農業していく先の不毛さ・・・みたいな話をしましたけど。

日本が、今のどうしても「閉鎖的になりがち」な構造を抜け出すには、ちゃんと日本側の歴史や社会の伝統や人びとの価値観を深く理解した上で、その解決をオリジナルに図っていかないといけないわけですが。

そのあたりの文化的なもの、「武家政権」的な独自性が日本にもたらしたものは何なのか?そして現代社会においてサムライ的カルチャーに郷愁を覚えてくれる世界中の人がそこに期待しているものは何なのか?という話を以下の有料部分ではします。

なんだかんだ言って、萌え絵が嫌いってわけじゃないけど、あまりに「日本の対外イメージやアピール」が萌え絵的なもので「埋め尽くされる」のが嫌なのだ・・・って人も結構いますよね。そういう違和感ぐらいなら僕も持ってるかもしれない。

そういう時には、単に「萌え絵があらゆるところに使われるを批判する」んじゃなくて、「萌え絵が今実現しているプレゼンス以上にもっとちゃんと構成員の同意と自然な誇りと商業的な注目を集められるコンテンツのジャンル」を、萌え絵をやってる人以外が自分たちで育てて作っていく必要があるわけですよね。

「ゴーストオブツシマ」的なものは、その「新しい選択肢」になりえると私は思っていますし、今後の日本が徐々に「萌え絵イメージ」から「ゴーストオブツシマイメージ」に再度転換していければいいなぐらいのことは思っています。

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普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

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