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日本の国債は”無限に”発行できるという妄想とどう付き合うべきか?(MMTを否定しているわけではなくむしろちゃんと実現するために)

(トップ画像はウィキペディアより福沢翁の写真)

一個前の記事↓、個人的には凄い大事な話だと思うけど、内容としてキャッチーとは言い難いし長いので、少数でもちゃんと読み解ける人向けの記事になるだろうな・・・と思って書いたんですが、公開直後からなぜかどこからかアクセスが集まってきて、結構評価されているようです。

こういう反応は「予想外」だったのですが、それだけ竹中平蔵氏が恨まれてるってことなのかも(笑)

ただ、この記事の反応が面白いのは、結構熱烈に「いいね!」というコメントを残してくれる人がいる反面、やたら出会い頭に罵倒してくるというか、

「こいつは全然わかってねー!経営とマクロ経済を一緒にするなカス!」

みたいなコメントをいっぱいもらったんですね。普段でも結構攻撃的なコメントもらうことはありますが、今回の記事は普段と比べ物にならないぐらい多かったです。

こういう人たちは、

「日本国債はほぼ無限に発行できるので、私が一個前の書いたような生産性向上策などは全部無意味どころか逆効果だ!」

というふうに思っている人たちなんだと思うのですが。

こういう論調を「MMT(現代金融理論)」とか言うんですが、私は著書などで書いているし、一個前の記事の「前半」である2つ前の記事には書いてあるように、もともと結構MMTには肯定的な方なんですよ。

自国通貨建てで発行できる先進国の国債は「伝統的に思われていたよりは」発行余地があると思っているし、それを使って積極財政を行っていくことが大事だ・・・という意見を持っているわけです。

だから一個前の記事はそういうMMT論者の人たちにとって「敵」じゃなくて、むしろ補完する議論なんだと思ってほしいわけですね。

そのあたりの、議論について書きます。

1●国債の発行余地は「伝統的に考えられていたよりも」ありそうだが、しかし「無限」なはずはない・・・だからこそ「使い方」をうまく考えないと踏み込めない。

まず本質論的に、「国債を発行できる余地が伝統的に考えられていたより多くありそう」っていうのはどういうことなのか?を考えてみたいんですが。

為政者が「財政難でお金印刷しまくってインフレになる」って歴史上よくある事だったので、人間には「お金を刷りまくればいい」という発想に対する本能的な忌避感があるんだと思うんですね。

日本国は借金大国だ・・・・というような話は20年前からあり、ここ10年は常にメディアで毎年「破綻する」と言われ続け、実際、国際投機家の中で売り浴びせにチャレンジした存在もちょくちょくいたらしいけれども、結局、日本の国債と日本円の信任は揺らいでいないどころか、むしろ金利もこれ以上なく下がってゼロ近くに張り付いてしまっていて、いったいどういうことなのか? いろんな人がいろんなことを言っていますが、本当のことは誰にもわからない、という状況にあります。

さらに安倍政権になってからは、国債をほとんど日本の中央銀行である日本銀行が買い取ってしまう状況にあり、これは実質的には「財政ファイナンス」 になっているなどという批判がなされます。また、そういう日本の状況に勇気を得て、アメリカでは『「MMT(Modern Monetary Theory:現代貨幣理論)』」という過激な理論が一部に熱狂的な支持を集めています。

「政府がお金を刷る」といっても実際に刷っているのは中央銀行(日本の場合は日銀)なわけですが、

その中央銀行を政府が自由に動かせるようにして、国債を全部、中央銀行に引き受けさせてしまえば、政府は借金し放題、いくらでも公共事業が起こせるし、みんな公務員にしちゃえばみんな給料もらえるし、何の問題もないじゃない?

・・・などというのは、「普通の感覚」からするとメチャクチャすぎて話にならない感じがしますが、ここ何年かの日本が世界最先端の大実験を身をもってやってきた結果、「そう単純に馬鹿にはできないんじゃないか」という印象を、ある程度良識的な経済学者も表明するようになってきているわけですね。

そういう「お金刷れるんだからいいじゃん」的な解決を「財政ファイナンス」といい、さらにそれをもっと推し進めて、「自国通貨建てで国債を発行している国は絶対破綻しないんだから、バンバン国債発行して徹底的に政府による景気刺激などをするべき」という指針にまでしたのが「MMT」・・とりあえず大雑把に言うと、そういう理解でよいでしょう。

私の立場は、

「伝統的に思われていたよりも、日本や米国などの自国通貨建て国債の国には借金する余地があるように思えるが、それは”いくらでも無限に使える”打出の小槌のようなものではもちろんないので、適切な量を管理して支出するための体制が整わない限りは決して使えないようになっている」

というものです。

インターネットを覗くと、IMFは日本の財政再建は完了していると発表しているとか(実際にその報告書を読みに行ったら全然そういう趣旨の報告書じゃなくて脱力しました)、日本国債が破綻した時の保険(CDS)のレートが上がってないから絶対大丈夫だとか(リーマンショックのときも破綻直前あるいは実質破綻してからも上がらずにいたようなレートを信頼していいのだろうか?)、その他、専門用語とあまり本質的な意味のない細部の数字を並べて、日本は国債を「いくらでも」発行できるのだ!と主張する話に結構出会いますが、しかしどう考えても「いくらでも」なはずはありませんよね。

「いくらでも」なら、日本政府がいくらでも国債を発行し続けて、そのお金で世界中のあらゆるものを買い占めてしまうことができることになる・・・などというのは極論にしても、要するに「どこかに限界がある」からこそ、その「適切な量」をどうやって決めるのかについて深く前もって考えておかないと、ネット上で「緊縮主義者を罵倒しまくっている」だけではマトモな政策論議に反映させられないわけです。

2●もしMMT的な積極財政を実現させたいなら、その説得方法は?

もし私たちが、財務省の持つ緊縮志向を超えて、国債の発行を拡大し、政府支出を拡大して不況を乗り切るべきだと考えているのなら、「日本政府はいくらでも国債発行できるのだぁ! ぬわはははは!」的な「無限」を前提にした大雑把すぎる議論で内輪だけで盛り上がり、疑問を持つ人たちをネット上で罵倒しまくっているだけでは実現できません。

過去の歴史においては、為政者が大規模な事業や戦争や個人的な贅沢をするためのお金が足りないときに粗悪な貨幣を乱発し、貨幣の価値が一気に下がって(いわゆるハイパーインフレ)経済が混乱し庶民が苦しんだ・・・というのはおなじみの光景でした。

つまり「普通はそうなるはず」なわけですから、直感に反することを実際にやろうとするわけで、巨大なインフレがやってくるんじゃないかと懸念する人たちが現れるのは当然ですし、それを単に「論破」しようとするだけで理解を得ることは難しいでしょう。

しかしこの「どの程度なら許されるのか」というのは、本当にやってみないとわからないことではあります。そもそも「同じ金額」でも、そのやり方の「印象」とか「人々の空気」で結果が全然違ってくることになるでしょう。これについては人類の誰もがまだ体験したことのないことなわけで、なにか理屈をつけて数字を並べてはい論破!みたいになっている議論はそもそもかなり怪しいです。

だから実際には、伝統的な国債に関する議論を超えて使う額とその使いみちをある程度目安として提示した上で、「危なくなってきたらすぐに切り替えられるように、状況に応じて機動的に変化させられる態勢を用意するからやらせてくれ」という方向で、その「機動的な態勢をつくる具体論」を詰めていき、その上で議論をまとめあげていくことが、本当に「伝家の宝刀」を抜きたいのならば必要なプロセスということになるでしょう。

MMTを主張する人たちの中には、というか例によってある種のオリジナルなオピニオンリーダーのレベルでは「いくらでも」とは言ってないことが多いようですが、それがネットでみんながコピーして騒ぐうちにどんどん文字通り「いくらでも国は借金できるのだから」という意見に過激化していき、「いくらでも国債発行できるのだからアレもコレもソレも全部政府のカネでなんとかすればいいんだ。それができないのは財務省の陰謀だ」という、妄想レベルの盛り上がりになってしまっています。

話の性質からいって、ヒットアンドアウェイ的に可変的な支出ではなく、あまりに固定的で変動しづらい支出をMMT理論に依拠して「いくらでも使えばいいのだぁ!」的にやるのはかなり危険であるように思われます。そもそもそういう宣言自体が、今後、円の価値を人工的に無理やり下げていく公式宣言みたいなものなので、それに応じて日本円を持っている人がみんな全財産を一気に外貨に変え始めたり換え始めたりしたら大変なことになる。

さきほど最終的には「印象」とか「人々の空気」の問題だから細かい数字の議論にハマるのはよくないと言ったのはそういうところで、そういう宣言をしても日本円を持っている(多くは日本人)が、国へのミサオを立ててというか、単に惰性でということなのか、我慢づよく円を持ち続け、円で預金をし、円の価値が目減りしていくのを我慢づよくボンヤリと眺めていてくれるのなら・・・しかしそうなるかならないかの「分水嶺」がどこにあるのか、私たちが前もって「わかる」というのは無理がありますよね。同じ金額の国債発行でも、「雰囲気」によっては大きく風向きが変わってもおかしくない。

日本人は、他の国の・・・たとえば、人々が集まったら金融商品の利率の話ばっかりしてるとか冗談で言われる中国人と比べて、明らかにこういう話に疎いほうです。そういう意味では、おそらく世界で最もMMT的政策に”耐性”がある国民性と言えるかもしれない。そんなのはアホで盲目な日本人だけでクールで知的な俺は違うぜ!と思うかもしれませんが、そういう人でもこれがなかなか、案外、精神の根っこのところで意外な性質を持っていたりするんですよ。

私も基本的にはそういう国粋的な気分は嫌いなタイプだと自分では思っていたんですが、こないだ日銀が金融緩和政策を転じるのではないかという観測が流れて日本国債の利率がほんの少しだけ上がった時に、アメリカ人の友人がその折れ線グラフへのリンクとともに「終わりの始まりか?」みたいなEメールを送って来た時にはなんかちょっとカチンと来てしまった自分に驚きました。結果、アメリカのヒップホップグループ「N.W.A.」の有名なラップの歌詞をもじって「Now you are about to witness the strength of the ties between Japanese people and the goverment!!(今からお前は、日本人と日本政府の間の絆の強さがいかに凄いかってことを目撃するだろう!!)」みたいなことを返信して、自分でもアホなこと言ってるなあ・・・・と呆れたものです。

ちなみに元ネタはコレですね↓この曲はマジでカッコいいです。

3●「国債の発行余地が伝統的に考えられていたよりもある」ことの本質的な意味はどういうことだろうか?

こう考えてみると、

結局MMTが言っていることの本質は、国がある程度ザツな通貨発行をして自国通貨の価値をちょっとずつ下げることで、その自国通貨を持っている人たちから薄く広く”徴税”し、それを原資に国のお金にしていろんなものを買うということなのだ

・・・と言えると思います。

税金の率を変えるとなると、常に政権が倒れるほどの大問題になりますが、MMT的に「自国通貨で富を持ってるあらゆる人から薄く広く富を持ってくる」となると、もしお金持ちも含めたあらゆる自国民が辛抱強く円を持ち続けて、それを売ってしまったり”しない範囲でやる”のなら、「あまり揉めずに徴税できる方法があるから、非常時にはこれを使って政府支出を増やそう」というのは、ある程度容認できる話かもしれない。

そんなことをしても その通貨価値が崩壊しない範囲で行われるならば、そのこと自体が、国民の「無意識レベルでの信任」を象徴していると言えそうなので、ある意味で「非常に民主主義的な意思決定」であるようにすら思えてきますし、国全体の歴史の流れを考えたときに、少子高齢化で「急激に縮むプロセス」の一番つらい部分を、こうやって手当をすることは妥当性が高いのかも?と私は考えています。

日本は常に資本収支黒字・貿易収支もほぼ黒字を続けてきていて外貨準備も潤沢なので、基本的に「円経済圏」の内側で何が起きていようと他の国の人はあまり関係ないわけです。(ただ「日本人は政府に従順すぎるだろ、アホじゃないの」と言われるだけですみます。)

アメリカの場合は日本よりさらに複雑で、世界中でドルを決済に使っているありとあらゆる人から、「アメリカの存在感で世界の秩序を維持している用心棒代」のようなものを、MMTで薄く広く「徴税」できるということなのかもしれません。これはまた、やりすぎればもういっそ中国の時代になってしまえ!的なエネルギーが噴出しかねない相当危ない橋なので、アメリカ政府とアメリカ国民にはできる限り冷静に慎重に検討することを期待したいと思います。

なんにせよこれは明らかに「危ない橋を渡る」ことなので、もしこういう「非伝統的な一歩」を踏み出す方向に合意形成をしたいのならば、

「いくらでも発行できるのだぁあああわはははは!」みたいなことを言って「論破」

しようとするのではなく、

「機動的に量を調節しながらやれる、危なくなったらすぐ逃げられる方法を具体的に考えておいたから試させてくれ」という方向で議論をまとめていくことが必要

になるでしょう。

(もし本当に「いくらでも」なレベルでMMTが可能だと思っている人でも、とりあえず「この説得方針」から始めることは理にかなっているはずです。いつでも逃げられる算段をした上で試してみて、もし本当に問題がないのであれば、そのときさらに拡大する決断をしたっていいわけですからね。)

少子高齢化で増え続ける社会保障費があり、いわゆる「国土強靭化」的に老朽化したインフラの全国の再整備があり、科学立国も風前の灯火みたいになっている科学技術予算もあり・・・と、国債発行余地がもう少しあるとするなら「使い道」はいくらでもあります。

でも、「固定的に引き返せない予算」をMMTで組んでしまうことの危険性を考えると、なかなか「踏み込む」ことが難しい状況にあります。

ネットのMMT論者のみなさんは、ぜひ「ヒットアンドアウェイ的に可変的なMMTの使い方」の議論に踏み込んでいってくれたらと思っています。

●4「昭和の時代とは違う」という理解が必要な領域がある

ネットを見ていると、日本の国債は無限に発行できるのだから、それこそ「穴を掘って埋める」レベルのことを大量にやりまくって給料を出せばいいんだ、それで景気は問題なく回復するのだ・・・みたいな議論が暴走していて、凄い危ないなあ・・・と思います。

そういう「無限大」を前提にした議論が暴走するから余計に危なっかしくて実現に踏み込めない・・・みたいな感じすらあるような。

なんというか、この「国債」の問題は、単によくある「借金は逆から見たら資産なのだから」的な暴論だけで片付く問題じゃないんですよね。

さっきも書きましたが、

「円経済圏」がその外側に対して黒字を保っているなら、その内側である程度ザツな通貨発行をやろうが他の人達からは特に関係ない

みたいな条件があるんですよ。

つまり大雑把に言えば

「日本国全体で”儲け”が出ているなら、円をザツに発行することで”円で資産形成している人たち”から”薄く広く徴税”してきて政府に使わせて貧困対策しても良い」

という構造なわけですが、この「日本国全体で儲けが出ている」という現象が結構風前の灯火というか、何らかのアクションが必要な状況にあるわけなんですよ。

単にネットでよくある「昭和の時代のみんな簡単に食えてた時代にもどれ」的なノスタルジーが不可能なのは、

ちゃんと投資し続けることができていないようなタイプの日本の中小企業ができるようなことは、今や中国や韓国どころか、東南アジアやインド、アフリカですらできるようになってきているという大問題

があるんですね。

冷戦当時の日本は、そういう意味では「ライバルが少ない特殊な恵まれたポジション」であったと言えると思います。

だからこそ、一個前の記事で書いたように、

・労働人口が激減する時代に、ちゃんと仕事を「高付加価値」なものに転換していく変革圧力を維持することがすごく重要なこと

なんですね。そしてそのために、

・人工的に非常に小さいまま放置されている日本の中小企業を、「中堅企業」レベルまで統合して、”普通に前向きな投資余力”が常に持てるように転換していく

ことは、

・MMT的な積極財政をやるとしても必要・・・というかMMTやりたいからこそ必要なこと

なわけです。

とにかく政府支出を増大させていくと、「マクロに見て時代のニーズに合わせた配置転換」が起きなくなってしまうことが問題だ・・・っていうのは経済学の常識という感じなんですが、MMTの実践に踏み込むなら「この問題」が最後まで大問題なわけですよ。

なぜなら、結局日本でMMTが実現できるかどうかは、「日本経済の先行き」に対する内外の自信によって決まる・・・といって言いぐらいなわけで、電機産業がこの20年で崩れてしまったようなことが自動車産業でも起きたりして、かつ「何らかの圧倒的な代替産業」が盛り上がってきたりしなければ、MMTなんて夢のまた夢なわけです。

●5「B級グルメとゆるキャラ」ばかりの日本を脱却するリーダーシップの変化が必要

一個前の記事でもう一つ重要なこととして、今の「バラバラに放置されて前向きなことが何もできなくなっている中小企業」を、

・明確なメッセージ性を持った個人ライフスタイル起業のチャレンジ

と、

・投資余力がちゃんとある中堅企業規模への統合

で置き換えていくことの意味は、日本社会を

「もうちょっとインテリの意見が通りやすい」社会に変えていく効果

にあると私は考えています。

たとえば観光業にしても、過去20年間の「サブカル的気分」が蔓延している日本だと、ついつい

「B級グルメとゆるキャラ」

みたいなのばっかり必死にやることになってしまいがちでしたよね。

いやいやそういうのも悪くないけど、そればっかりってどうなのよ?というね。

こういうのは、「投資余力が全然ない中小企業の集まり」だとこうなってしまいがちなんですよね。

でも、「もうちょっと大きな中堅企業ぐらいまで統合」すると、今は雇う余裕がない「文系博士人材」みたいな「ハイソなインテリ」を雇う余地だって生まれてくるんですよ。

そういう「余力がある中堅企業」がある程度高い視野で投資を行い続ける一方で、逆に「個人ビジネス的なチャレンジ」は思う存分ライフスタイルを突き詰める・・・ことによって、

「B級グルメ」的なのじゃなく、ちゃんと歴史を学問的に知的に捉えた上でそれをプレゼンテーションするようなアトラクション

といったような方向性を観光業化できるようになる。

そうすれば、今は行き場所がない文系の修士博士といった人たちの行き場所もできますし、本当に地元の歴史と伝統をしっかりプレゼンテーションしてくれるようなものであるなら「観光業疲れ」的な問題も起きづらくなるでしょう。

今の「学術会議問題」みたいなのは、ああいうのは「学問者だからこその貢献」というより「学問の形を借りた政治活動」なんで、紛糾して当然みたいなところがあるわけですよね。

「竹中平蔵でなくデービッド・アトキンソン路線」というのは、そういう意味で、

「B級グルメとゆるキャラで埋め尽くされた日本」を、「もうちょっと知的な理解から自分たちの強みを捉え返して表現できる国」に転換すること

を本質として含んでいる変化だということを理解していただければと思います。

一個前の記事を読んで「MMT路線が否定されている」と感じて私に攻撃的なリプライを送ってくる人たちに届けばいいんですが・・・

ちょっと今日本中で「右派論客のかなりの部分が来年もトランプがアメリカ大統領と思っている」みたいな異常な状況なので、もちろんここまで「第一波グローバリズムに対する抵抗力」をつけるために「右派的暴走」が必要とされていたのだ・・・という事情は重ね重ね理解するにしても、そろそろ「ちゃんと国際的潮流の中で確かな独自性を主張できるナショナリズム」に「お乗り換え」いただいても良い頃合いなのではないかと思ったりしていあmす。

・・・とりあえず今回記事の無料部分はここまでです。

ここ以降は、「フェミニズムとネオリベと構造改革の関係」という話をします。

最近、上野千鶴子さんが「本来お仲間のはずのフェミニストの人たち」から攻撃されているのを見たんですが、その記事を読んでいると「ネオリベだなあこの人は!」って思ったんですよね。

その記事自体は有料記事なので、似た趣旨について語っているこの記事なんかがそうなんですが。

まあ、この記事自体は例によって「一方的な被害者意識」を感じないこともないわけですが、ただ、日本における女性の社会進出が数字上他の先進国よりも遅れがちになっていることの原因を、単に

・日本の男が性差別的で女を下に置きたいカスだから

みたいな暴論に帰着させていないことは評価できるな・・・と思いました。

要するに、「構造的原因」があるんだ・・・という話なんですよね。

で、その「構造的原因」にしても、ここ最近の記事で書いてきたように、「第一波グローバリズム」的な「血も涙もないネオリベ」に何の防御壁もなく飛び込んでいたら、女性の社会進出は今より進んでいたかもしれないが、社会内部の分断は激しくなってそれはそれで別の巨大な問題に直面していたわけですよね。

だからこそ、「第一波グローバリズム的な血も涙もないネオリベを拒否してきた」こと自体は、別に「男社会のエゴ」というより、男女含めた日本社会の「結果的な平均的な住みやすさ」をみんなで維持するための決断みたいなところがあったはずなんですよ。

これはもちろん、「知的なエリート階層に属する女性」から見れば「他の国なら得られていた利得が得られていない不満」に繋がるわけですけど、他の国でそういう「経済エリート」が優遇されているのは明らかに「経済エリート以外の普通の人」から強烈に収奪することによって成り立っているので、それはそれで別の問題があるわけですよね。

そのあたりを総体としてフェアに見ないと、ただ「日本社会が大事にしていること」を無視して日本の男をディスってるだけではマトモな議論にならないわけです。

というわけで、「日本の男」をやたらディスりまくっていても押し合いへし合いになるだけというか、「そうは言っても寄り集まって自分たちの紐帯を守っていた」ことにも意味はあったよねという話にしかならないわけです。

で、「デービッド・アトキンソン路線で竹中平蔵路線を否定する」というのは、さっき書いたように「今よりもある程度知的な層のリードで日本社会が動くようにする」ことで、「B級グルメとゆるキャラに埋め尽くされた社会」を変えていく・・・ことに繋がるわけですけど。

マットウな経営が日本中津々浦々で行われるようにする適切な仕組み化が行われるならば、無理やりなパワハラホモソーシャルで自分たちらしさを守らなくても良くなる・・・という効果もあるはずだと思っています。

逆に言えば、今は「古い社会」をただただ他責的に攻撃するだけになってしまっている「フェミニズム的なエネルギー」を、「血の通ったネオリベ」路線に吸収して転化していくことが必要なタイミングなのだというか・・・

・・・というような話の細部について、有料部分だけにもっと口に衣着せぬ表現で(笑)書いてみたいと思っています。

こないだこの記事↓で「今までの欧米型フェミニズムとは違う新しいガールズエンパワーメント」が鬼滅の刃のブームにはある・・・って話しましたけど。

その流れで、今日出た最新巻と、特に外伝の方を読んでて、やっぱり胡蝶しのぶさんって男が描く変なツンデレキャラみたいなのと違っていて新しいタイプの凄い魅力的な女性キャラクターだなあと思った・・・みたいな小ネタ話もします(笑)

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