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「竹中平蔵的ネオリベモンスター」を日本から排除するためには、「第二波グローバリズム」の潮流をうまく捉える独自の戦略が必要

(Photo by Chris Fowler on Unsplash)

2020年の年末も近づいてきているわけですが、今年の世界情勢は本当に大激変というか、新型コロナという「予測できない事態」の世界的席巻によって「今の状況を昨年末に予見できた人はほぼいないいのではないか」ぐらいの状況ではないかと思います。

ただ、コロナ禍はすでに底流としてあった大きな人類社会の変化の流れを「加速」させはしたけれども、それ自体が全く過去と断絶した変化の原因になっているわけではない・・・という見方もできるかもしれない。

というわけで、「コロナのような色んな具体的事件」に左右される「物事の表面」にとらわれず、その背後にある「大きな人類社会の変化の流れ」について考えてみると、今私たちが直面しているのは「第二波グローバリズム」と呼ぶべきものなのだ・・・という話をします。

そして、「第二波グローバリズム」の視点から見れば日本という国はその「最先端」的なポジションにあり、世界情勢の中での存在感を今後大きく高めていける可能性を持っているはずで、我が国の繁栄のためにそのチャンスをいかに活かしていくべきか・・・という話もします。

1●「第一波」グローバリズムが急ブレーキを踏み、「新しい何か」に移行しつつある。

私たちが「グローバリズム」という言葉をイメージする時、そこにあるのは、

冷戦が終わって人類社会を二分していた壁が取り払われ、アメリカが世界唯一のスーパーパワーになって、IT技術の進展で急激に世界が「ボーダーレスにひとつに」なっていき、中国や東南アジア、南米やアフリカといった「途上国」だった国ぐにの経済発展が続き、世界的に「巨大な中間層」が出現してきた・・・

という1990年代から現在にいたるまでの30年程度の大きな流れがイメージされると思います。これを「第一波」グローバリズムと呼んでみたい。

「第一波」グローバリズムの世界においては、全人類が統一された一つの市場の中に統合されていき、「国境線」の意味がどんどん薄くなり、世界が均一化し・・・という方向性が、そのまま世界中を席巻していくと思われていました。

その「第一波」を

・経済面で支えているイデオロギーが「ネオリベ」

であり、

・社会面で支えているのは、色んな種類の「ポリティカルコレクトネス」的な、「経済的構造問題に手を出すのは諦めて、比較的単純に社会運動にしやすい個々人のアイデンティティ的問題に集中した変革運動の波」

だったと言えると思います。

ただ、ここ5年ぐらいで急激に情勢が変わってきて、単に「第一波グローバリズム」的に単純化された統一的な仕組みで世界人類を統治するのは難しそうだ・・・ということになってきた。

「世界唯一の隔絶したスーパーパワー」だったアメリカのGDPが人類社会に占める割合がどんどん下がってきて、「アメリカのやり方はこれです。だから皆さん従いましょう」というだけで納得を得られる状況ではなくなってきた。

もっといえば「欧米社会」が人類社会で占めているGDPの割合もどんどん減ってきているので、「欧米社会のやり方はこれです。だから皆さん従いましょう」というだけで納得を得られる要素がどんどん減ってくることになった。

そして中国という「欧米の価値観」に敢然と挑戦する存在が結構な存在感を持つようになって、20世紀末には「唯一の正解」だと思われていたような価値観体系の説得力がグダグダになってきている。

こないだある世界各国街角インタビュー的なユーチューブ動画を見ていたら、タイの大学で経済だったか政治学だったかを学んでいるタイ人の若い学生が、流暢な英語で

アメリカのような民主主義政体を選ぶのか、中国のような権威主義政体を選ぶのか、それぞれ良い点も悪い点もあるから、それぞれの国が自分たちのよいように適宜選んでいくことが大事だと思う。どっちが正解だとか押し付けられるのは嫌な気持ちですね。

みたいな、「スマホはiOSがいいかアンドロイドがいいか」みたいな気軽な口調で話していたのがかなり印象的でした。こういうのは2000年代初頭とかにはよっぽど過激なローカル社会のナショナリスト以外は言わない内容だったと思うけど、今やけっこうノンポリっぽい学生でも普通にこういう「欧米的価値観が相対化された世界」の中で生きている。

要するに、「第一波グローバリズム」的な「世界で唯一の共通した価値体系に全人類を従わせる」みたいな性向の説得力がメチャクチャ減衰してきているわけですね。

結果として、欧州では極右政体があらゆる「グローバルな協調」に反対する極右政党が台頭し、イギリスではブレグジットの決定があり、アメリカでは「アメリカ・ファースト」のトランプムーブメントがあり、途上国では「中国風の統治にするかアメリカ風の統治にするかは自分たちが決めればいい」という気分が満ちてきている。

「第一波グローバリズム」的に世界中が唯一の透明なシステムで統合されるという無邪気な予想は終わり、これからは「国」なのかもっとマイクロ共同体なのか、どの単位・どの程度・・・かはわからないが「ローカルな単位」の復権が予想されている。

最近欧州では、フランスを始めとして色んな「イスラムの過激主義」に対して、「単なる寛容に受け入れましょうという政策」じゃあない「フランスの価値観を尊重した上で、外来者は”ある程度は”合わせてください」という政策が実現しつつあって、これにイギリスとかも同調しつつある流れがあります。

これも、「マジョリティとマイノリティ」がその社会にあった時に、「マジョリティがマイノリティに配慮すべき」というのは当然なんですが、ある種の「お互い様」的な精神は絶対最後まで大事だというか、マイノリティ側が「その社会」に参加するにあたって「絶対一切何も配慮しないぞ!」とだけ原理主義的に突っ張り続けるような、「マイノリティという隠れ蓑の中で個人のエゴを暴走させ、”ありとあらゆることがマジョリティという巨悪のせいである”という一方的なイデオロギーを押し通そうとする」ことも、「世界の端っこまで言って声が跳ね返ってきた」ような現象として難しくなってきていることを表しているはずです。

こうやって「第一波グローバリズムの行き過ぎを是正する」動きは世界中で、それぞれの国の事情に応じた形でそれぞれなりに起きつつあるわけですね。

2●「第一波グローバリズム」は死んだが、「グローバリズム」は死んでいない

ただ、「第一波」グローバリズムの限界が誰の目にも明らかになってきたことで、「もうグローバリズムは死んだ!」という風な声も出てくるわけですが、問題は「第一波」グローバリズムは死んだけど「グローバリズム」はあんまり死んでないってことなんですよね。

それはまず「感情面」において、

・世界中がSNSで強烈に結びついていて、隣の家に住んでいる気の合わない隣人よりも地球の裏側に住んでいる気の合う友人の方が大事・・・という要素はどんどん強まっている。

ということがあって、もう一つ「経済現象」として、

・「世界的な分業体制の合理性」というのは強烈で、それに完全に背を向けるということは、「機能が半分で倍の値段のスマホを使うので全国民が満足する覚悟」みたいなのが必要

だったりする。

また、先進国民が「自分たちが納得できるレベルの富」を得るにはある程度豊かになった途上国の「巨大なグローバル中間層」に自分たちの「商品」を使ってもらう必要があり、どんどん市場が分節化されていくと余計にあらゆる人が貧困化する・・・という逃げられない現実がある。

「国」単位のリーダーがグローバリズムの行き過ぎに対して何らかファイティングポーズを取って抵抗することを全否定するわけじゃないというか、もちろんそういう要素だって当然「第一波グローバリズム」の行き過ぎを是正するためには必要だと思うわけですが・・・

ただ、じゃあある種の「反グローバリズムポピュリスト」が主張するようなレベルで、国をどんどん鎖国して、果てしない国債の増発だけで自国民だけに世界市場からは全くかけはなれた高給を無理やり手当する・・・だけでなんとかできる時代かというとそういうのは妄想にすぎないということでもある。(伝統的に考えられていたよりも先進国の国債は発行可能だし、それを積極的に使っていくべきだという考え方自体を否定しているわけではありません。”それだけ”で全部解決できるというのが無理筋だと言っているだけで)

考えようによっては、

人類社会が「第一波グローバリズム」から脱却しようとしているのは、もう「ネオリベやポリコレ原理主義」で無理やりドライブしなくても、「グローバリズム」自体は後戻りできないところまで来たからだ

とすら言えるかもしれない。

ちょっと自国内のある産業を守るための保護措置とか関税とかを作る政権が現れる程度ならいいが、完全に鎖国して国際市場から背を向けてしまうような政権が現れたら、ただ自業自得にその国の存在感がどんどん減衰して人類社会から忘れ去られていくだけだ・・・という状況では、別に「問答無用のネオリベやポリコレ原理主義」でローカルな存在をなぎ倒していかなくても「グローバリズム」は止まらず進行する。

「反グローバリスト」の人はこういう話を聞くとムカつくかもしれませんが、世界恐慌以後の1930年代にあらゆる当時の先進国が「グローバリズム」から撤退してそれぞれ勝手にブロック経済化をやりまくった結果世界戦争まっしぐらになってしまったことを考えると、

ローカルな存在に「ある程度の選択権」がちゃんと与えられても、「グローバリズム」は決して止まらないところまで来たので、今度は徐々に「ネオリベやポリコレ原理主義的な抑圧ではないやり方」でグローバル化を進めていくことができている

・・・これは「人類は100年間で実に賢くなったなあ!」と言える現象だと思います。

「グローバリズム」っていうのは「ローカルな存在」からしたら定義的にムカつくものなんですよね。

「グローバリズム」って言うと凄い最先端現象みたいな感じがしますけど、たとえ半径40キロぐらいでしか人間が移動しない時代でも、人間社会はちょっと統治が緩むと、「街道をヨソモノが自由に通ってる」ってだけでムカつく!通行料取ってやれ!!みたいになるんですよね。

インドや中国では、ほんの20年前ぐらいまでそういう「勝手に通行料取る野盗」みたいなのが普通にいた・・・という話を聞きます(インドなら地域によってはまだいるかも)し、ただ単に「誰にも攻撃されずに自由に移動できる」という現象を維持するだけでも、「ローカル社会」に対する「グローバリズム」の強力な権力が必要だったりするわけですね。

この「ローカル社会の事情」と「”みんなのための合理性”としてのグローバリズム」との対決は常に人類史上の大問題だったわけですが、

「グローバリズムが引き返せないところまで来たことで、多少はローカル社会の言うことも聞けるようになった」

のが今起きていることなのだと私は考えています。

3●第一波グローバリズム第二波グローバリズムの違いをまとめると・・・

つまり

「第一波グローバリズム」は問答無用にあらゆるローカル存在をなぎ倒して統一市場化していく動きだった

のが、

「第二波グローバリズム」は、ローカルな存在の事情をいかに汲み取りながらグローバルな流れと調和させていくかが重要となる時代

となってきているわけです。

その「調和」に失敗すれば、過剰に「アンチグローバリズムすぎる」政策が民主主義国家では実装されて、その国は自業自得で衰退していくことになる。

一方で「調和」して、「ローカルなニーズに目配せをちゃんとしつつグローバリズムともうまく付き合える」政策を実現できた国が繁栄する。

「第一波」では「抵抗勢力をぶっつぶせ!」的に「いかにローカル存在をなぎ倒して黙らせられるか」が重要なゲーム

だったのが、

「第二波」では、「ローカルな存在といかにうまく協調し、グローバル市場とのうまい付き合いから撤退させずに戦い続けられるか」が重要なゲーム

に変わっていくわけですね。


3●日本は「第一波グローバリズムの劣等生」だからこそ、「副作用」を経験していない優位点がある

で!ですね。

日本はもう、世界に冠たる「第一波グローバリズムの劣等生」ですよね。

過去20−30年間「失われ続けてきた」と言われ続けている。あらゆる「グローバル経済最先端」的な改革を拒否して、とりあえず「昭和の最後の栄光を食い延ばして生きてきた」みたいなところがある。

結果として、経済成長はほとんどしないし、「昭和の延長的な正社員社会の幻想の安定性」を守るために「しわ寄せ」を受けた主に非正規雇用層を中心とした層はどんどんジリ貧になっていっているし、そういう構造の中で女性の社会進出的なものも出遅れがちだったりするわけですが、一方で「まあ日本ならこれぐらいはね」的な社会の謎の安定感は維持し続けることができた。それがまあ「左派」的な感性の個人からすると憎らしくてたまらないみたいなところがある(笑)

ただ、最近アメリカ人がSNSでワイワイ騒いでいるのを色々と見ていると、「民主党支持」の青いアメリカ人と、共和党支持の「赤いアメリカ人」の分断は物凄いレベルになっていて、ほとんど「同じ国を共有している仲間」感を失ってしまっているのを感じます。

ビル・ゲイツやウォーレン・バフェット時代のアメリカ人の富豪は、

「好物はビッグマックとコーラ」みたいなことを言っておくのが倫理的に正しい

という感覚があったと思うんですが、過去20−30年間の「第一波グローバリズム」の進展が強烈すぎて、もうそういう「赤い州と青い州の連帯感」のようなものが消滅寸前になってしまっている。

多くの「第一波グローバリズム」の時代にそこそこ成功した国では民主主義という政体が危機に瀕するほどの「政治的両極化の分断」が激しい時代になっている。

それは「第一波グローバリズム」の波に乗ってしまった国々における深刻な副作用だと言えるでしょう。

でも日本社会は、まだ富豪も貧乏人も一応同じコンビニとラーメン屋と漫画を共有できている。

はっきりいってそういう「連帯感」は「幻想」ではあるのですが、「幻想」で薄皮一枚つながっていることの価値が、今後「第二波グローバリズム」の時代には凄い重要になってくるはずなんですよ。

なぜかというと、

「第一波グローバリズム」の良くない側面を補正するためには何らかの統一した政治権力によるアプローチが必要だが、過剰に「アンチ・グローバリズムムーブメント」だけに引っ張られすぎると非現実的すぎる政策になって余計に衰退する

からです。

「俺たち仲間だよね。だからみんなのために良いことをやっていくよ」という信頼感を崩壊させないまま、「グローバリズムとの適切な付き合い方」を統一課題として実現していく必要がある

状況の中では、「第一波グローバリズム」から距離を置くことでなんとか温存してきた「日本という国の紐帯」がどうしても重要になってくるんですね。

なぜなら「第一波グローバリズム」でうまくやれた国では国内の分断が激しすぎて、

・「血も涙もないネオリベ政策をやめるとなったら、妄想レベルにアンチ市場主義的な政策しか残ってない状況になる」

・「とにかくあらゆる政策課題よりも上にポリコレ原理主義を置くような無理・・・をやめるとなったら、メチャクチャな白人至上主義みたいなムーブメントを抑えきれなくなる

みたいなことになってしまっているからです。

4●「血の通ったネオリベ」と協力して「血も涙もないネオリベ」を排除する

これからの日本で重要なのは、その「幻想としての連帯感」をうまく最後まで残していって、「現実としてのグローバリズム」に適切に対応するための「改革」をやっていく必要があります。

その「内容」については、単純化して言えば、

「なぜ竹中平蔵的なネオリベがのさばり続けるのか?

それは、ネオリベの人以外は”イデオロギー”で頭がイッちゃってる人ばかりで細部の現実問題に興味がない空論ばっかりやってるからだ」

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ということになります。

今日中にアップされるもう一個の記事でもっと詳しく書く予定ですが・・・

(書きました詳しくは上記記事でどうぞ)

・・・イメージ的に単純化して言うと、政府の「成長戦略会議」のメンバーの実名で象徴化して言えば、

・「デービッド・アトキンソン」氏の言ってることと「ちゃんと対話」して一つの「第二波グローバリズムへの対応策」に仕立て上げることができれば、

・「竹中平蔵」的なネオリベモンスターを排除することが、その時はじめて可能になる

ということだと最近私は考えています。

私の「コンサル業」のクライアントは地方の中小企業が多いわけですが、その経営者群といろいろ話していて、

デービッド・アトキンソン氏が提唱して菅内閣が取り入れつつある「中小企業再編」は、「日本社会の心情的連帯感」さえ崩壊せずにすすめるならば、かなり有望・・・というかそれ以外ありえないぐらいの策だ

・・・という話を最近良くするようになりました。

アトキンソン氏の言ってることの10割に賛成なわけではないんですが、「それ」を起点としてちゃんと対話して育てていけば、日本社会の隅々の現場の問題をうまく解決できる起点になるはず。

「中小企業再編」と聞くと、「国際資本に日本の中小企業が買い漁られて貴重な技術の流出が・・・」みたいな、現実を知らない「左翼的妄想」で一緒くたに反対してしまうムーブメントがあったりするんですが・・・

ただ、実際の日本の中小企業を見ていると、もしそういう「貴重な技術」を持った企業があったとしても、

・ちゃんと投資し続ける体力がなくなったら時代についていけなくなるし、実際多くの中小企業で「昭和の遺産」だけでやっていくのもそろそろ限界になりつつある。

・もしそういう「貴重な技術」がある会社が苦境にあったとして、近所の同業者がうまく救済合併できれば外資に買われないで済むが、今はギリギリで回っている小企業群ばかりのまま放置されているので、結局「それ」をやる(買収してしまう)のが中国の企業ということになってしまっている

・あまりに寸断されている日本の会社をまとめて、「徐々に引き上げていく最低賃金のバー」を超えられない会社を統合していくことは、今後少子高齢化で労働人口がどんどん減っていく日本においては利益の方が大きい

たぶん、「中小企業再編」と聞いて脊髄反射的に「貴重な日本の中小企業の技術が・・・」とか言う人は、

「本当に(良くない意味で)ヤバい日本の中小企業」

で働いたことがないんだと思います(笑)

もちろん中小でも良い会社はたくさんあるけど、SNSで政治談義をするようなインテリの人の人生の中では想像ができないぐらい「ヤバい」日本の中小企業もたくさんあるんですよね。

それも、凄いスラムみたいなところにあるんじゃなくて、都会の結構キレイなビルにも普通に入居してるしリクルート社の求人雑誌にも出てるんですよ。

自分の会社の「平均賃金をあげる」っていうのは、メチャクチャ難しいことでもないけどそう簡単なことでもなくて、センター試験で7割ぐらい取るとか、スマホのゲームで毎月導入される新しい設定を説明読んで理解して最適な対処を考えるとか、その程度の能力は必要なんですが、「そのレベル」に達していない人が全権を握って「下を酷使する」ことでギリギリ成り立っている会社・・・ってのが日本にはインテリさんの知らないところで沢山あるんですね。(それが結果として最近問題なベトナム実習生の酷使にも繋がっている)

日本の会社はアトキンソン氏が言うように「政策的」にものすごく細分化されすぎていて、「ちょっとそのままではどうしようもない」会社がかなりあるんですよ。

よくSNSで「労働基準法を守れない、ちゃんと給料を払えない経営者なんて失格だ!」的に吹き上がっている人がいますが、そのエネルギーはちゃんと具体的な社会変革につなげていかないといけない。

今、私のクライアント企業の「ある程度地力のある」会社がその「どうしようもない」会社をうまく吸収合併していこうとするM&Aが非常に盛んになっているんですが、今のところかなり有意義な変化につながっていると思います。

そういう「具体的な現場的事情」があるんで、(アトキンソン氏の言ってることの細部には凄い反対な部分もあるんですが)大きな方向性としてはアレで行くしかない・・・というのが私のクライアント企業でも共通意見になりつつあります。

なにより、竹中平蔵的ネオリベモンスターの大目標が「ネオリベ的な理屈を現実に当てはめることが目的」なのに対して、アトキンソン氏的な方向性は「最低賃金をどうしたら上げられるのか」を第一に考えてやっているところが全然違うところなんですね。

しかもそれを、韓国の文在寅政権がやって失敗したように「突然無理やり最低賃金を上げて若年層失業率がヒドイことになる」みたいなふうにせずに、ちゃんと「高度な連携を社会の中で取りながら変化させていく」必要がある。

で、

・アトキンソン氏的な、「理屈からでなく現場の切実な事情」から帰納的に構想された「細部の調節案」をイデオロギー的反発から拒否していると、竹中平蔵的に「理屈だけでゴリ押しする本当のネオリベモンスター」に席巻されてしまう。アトキンソン氏もどんどん「竹中平蔵の仲間」になっていってしまう。

・「現実的な改革案」を柔軟に取り入れることによってのみ、「ネオリベモンスター」的なイデオロギーを排除して、「第二波グローバリズム」の最先端を実現できるようになる

わけですよ。

アトキンソン氏に限らないのですが、日本中のあらゆる「現場」的なところで切実な事情にぶつかって、「どう考えてもこのままじゃもたないよな」というところから出てきている改革案っていうのは色々あります。話題の安宅和人氏の「シンニホン」とかもその一つでしょう。また「福祉」的な分野でも、イデオロギーでイッちゃってる人なのか、ちゃんと現場とぶつかり合って生きている人なのか・・・は大きく分かれるところがあると思います。

その「帰納的な現場からの具体的な改善提案」は、日本社会との「適切な対話」で育てていけば第二波グローバリズムの最先端的な指針になりえます。

しかしそういう「現場からの改善要求」を無視し続けて「イデオロギーのお遊び」を続けていると、その「改善要求」に曲がりなりにも対応する気があるのが「竹中平蔵的ネオリベモンスター」しかいなくなっちゃうんですよね。

詳しくは次記事で書きましたので単純に一行にまとめると、

「アトキンソン氏的な路線をみんなで共有して育てていって、竹中平蔵に勝つ」

ことができれば、日本は「大事なものを守ったまま変わるべきところを変える」ことが可能になるでしょう。

5●「世界の中の公明党サイズの日本」を最大限利用してキャスティング・ボートを握る

「イデオロギーでイッちゃってる人」たちに右にも左にもある程度退場してもらって、ちゃんと「現実的な細部の対応」をやっていくこと・・・

それさえできれば、日本という国が世界の中で取っているポジションの重要性は圧倒的に高まります。

なぜかというと、結局世界中のあらゆる民主主義国家において「イデオロギー対立による両極化」が激しくなりすぎており、ちゃんと現実的な対処を続けるには中国みたいな権威主義体制にするしかない・・・みたいなところまで追い込まれているからです。

アメリカ大統領選挙について「案外トランプ派が健闘した」っていうことを嘆いている左派の人がいるんですが、そんなのはある意味当たり前なことで、「左派イデオロギー」は「イデオロギー」でしかないので、定義的に「人類社会の半分しか代表していない」のだってことをこれからの人類は嫌というほど理解せざるを得なくなっていくんですよね。

結局、世界にある構造問題の細部の現実に取り組む事から逃げて、

・「差別主義者のあいつらが悪い!」

と騒ぐのも、

・「外国人が、国際金融資本が、中共が」悪い!

と騒ぐのも

”同レベルのこと”

なのだ・・・ということに、人類は直面していくことになるんですよ。

「イデオロギー」で「敵」を作ってそいつらに社会がうまく行ってない原因を全部おっかぶせて自分だけ正義ヅラできる・・・と思ったりするのが許されるのは20世紀までだよね・・・

という状況に追い込まれていく中で、結局最近ファインダーズ記事で書いたように、米国においては、トランプ派の存在感があることで、民主党内の最左派勢力がちゃんと牽制されて、中道的な現実感を失わずに済む可能性が見えてきたりもする。

世界中が「イデオロギーの純粋性という病」で不安定になる中で、どうやって「イデオロギーの死」を共通言語に具体的な社会課題の解決に集中させていくことができるか・・・

そういう時に、日本がちゃんとこの「イデオロギーの死」を乗り越えて「日本という単位」で現実性をグリップし続けることができていれば、それがもたらす「国際社会におけるソフトパワー」は絶大なものになるでしょう。

要するに「イデオロギー」は「イデオロギー」であるというだけで定義的に現実の「半分」しか扱えていないので、民主主義社会において果てしなく個々人の意見をバラバラに反映していけば、常に「拮抗する2つの勢力の両極化した分断社会」になってしまうわけですよ。

それはもう、宇宙船が光速に近づけば相対性理論で重量が増して決して光速にはたどり着けなくなる物理現象みたいなもので、自由主義社会において「イデオロギー」でイッちゃってる人々は最初過激派だけでまとまって熱量を発揮できたように見えても、「自分たちが盛り上がったぶんだけ社会の逆側に同じだけの熱量の敵が現れる」ことになる。

「ポリコレ原理主義」が現実社会の事情を無視して暴走すれば、「過激な差別主義者」みたいなのも「正確に同じ分量だけ」社会の中で拮抗した力を持ってしまうことになる。

そういう「拮抗状態」が生まれて混乱が続いている時、それでも「民主主義社会」であることをあきらめたくない、中国みたいな政治形態にはしないぞ!と思うのであれば、自由主義社会では「ある勢力」に非常に大きなパワーが与えられることになります。

たとえば今の日本の国会における公明党のように、公明党と一緒になることではじめて自民党が政権を取れる・・・というような「情勢」になると、たいして大きくないサイズの公明党の意見が、政治上「ものすごく大きな」意味を持ちます。

こういう状況を「キャスティング・ボートを握る」と言ったりします。

世界第三位の経済大国日本は、

単独で世界全体に大きなソフトパワーを発揮できるほどの大きさはありませんが、「20世紀型イデオロギーという病」によって世界中が両極化した混乱の中に陥って行く時の、「キャスティング・ボート」を投じることができるサイズを、今後何十年に渡って維持することはできる見込み

はあります。

だからこそ、

「アトキンソン氏の意見を対話的に育てていって竹中平蔵を排除する」

ところまで行ければ、

果てしなく混乱していく世界の中で日本という単位が「実際の大きさ以上の圧倒的ソフトパワー」を持ち得る情勢を手繰り寄せることができる

でしょう。

その時、過去の「第一波グローバリズム」の時代において「変われない日本」と揶揄され続けてきた日本社会のある性質が、ある意味で正しい「現実社会への責任感」の現れだったことも理解されるでしょうし、靖国神社にこだわり続けることで、「自分たちのイデオロギーと違う他人」に「ヒトラーだ!」とレッテルを貼るだけで解決したと思い込めるような幼児性からも距離を置いてこれたということが世界中の人びとに堂々と理解してもらえるようになるでしょう。

右と左のイデオロギーでイッちゃってる人たちをいかに黙殺して進むことができるか。それが今、私たち日本人に問われていることです。

それさえできれば、「右の願いも左の願いも」、現実レベルでは一歩ずつ解決していける社会を実現できるはずです。

今回記事の無料部分はここまでです。

以下の部分では、ちょっと突然ですが「田中芳樹」について書きます。

私、中学生ぐらいの時に、まさに「中二病」的に田中芳樹の小説にメチャクチャはまっていて、行事の日の丸君が代うんぬんとかいう時に一人だけ座っているパフォーマンスとかアホなことをしていた記憶があるんですけど(笑)

当時はそういうことが「かっこいいこと」だと思っていた・・・という「中二病的黒歴史」の記憶と田中芳樹作品は濃密に自分の中で結びついてしまっているので、大人になってからはなんだか気恥ずかしくて距離を置いていたんですね。

ネットフリックスで「銀河英雄伝説の新しいアニメ」とか「アルスラーン戦記」とかが人気作として出てくるのも、恥ずかしい黒歴史が突然目の前に現れるような気分でいたんですが、先月半ばぐらいについつい「アルスラーン戦記」をクリックしてしまったがために全部見てしまったりとか・・・うーむメッチャ懐かしかったです。

で、ここまでの記事を書いていて、ついつい銀河英雄伝説の

帝国が勝った・・・ただし勝ち過ぎはしなかったということだな

という「フェザーン自治領のボス」のセリフが思い浮かんでいたんですが。

あらゆる「イデオロギー」が定義的に両極化を招き、そして米中対立が今後何十年の人類社会における重要な基調となっていくにあたって、日本は定義的にこの「フェザーン自治領」的な役割を担うことが求められるというか、誰が望むと望まざるに関わらずそういう役割に「押し込められる」ことになるわけですけど。

ただそういうのって歴史上「コウモリ」的に敵視される嫌な奴・・・、みたいになるか、それともこの記事で書いたような「両極化による混乱に苦しむ各国」にとって「頼りになる存在」として尊敬されるか・・・非常に微妙なところで、結構ちょっとしたことで全然違う状況になってしまうよな・・・と思うわけです。

アジアの中で唯一戦前から長い間「先進国側」に立っていた存在として、この「二極分化するイデオロギー闘争の矛盾が体内の中で渾然一体となって醸成されてきたもの」が、「単純化したイデオロギーによる断罪」を超える新しい中庸の徳の旗印に転化できるかどうか?

それがまさに私たち日本人のこれから・・・にかかっているわけです。

で、アルスラーン戦記を最近アニメで見て、まだアニメ化されてない第一部のラスト一巻も読んだりして、久々に「田中芳樹」作品に触れて思ったんですが、これって今の日本のサブカルチャーにとってメチャクチャ重要な役割を果たしてる作家だなあ・・・と思うわけです。

ヤン・ウェンリーみたいな超然とした主人公の存在は、「ラノベ」の主人公像として脈々と受け継がれているしね。それに、あらゆる「大河もの」っぽい作品はBASARAも十二国記もシュトヘルも・・・その他あらゆるものが田中芳樹の影響を受けている。

田中芳樹の作風の重要な3つの特徴は、

1・「国の威信なんかより国民の生活が大事」だし、”血筋”的なものに代表される権威主義的な仕組みには徹底的に反対したい・・・という左翼気分

がある一方で、もう一個の巨大な特徴が

2・宗教とイデオロギーの「狂信性」に対する嫌悪感レベルの懐疑主義

だと思うわけですが・・・もう一個、

3・「オヤジの薫陶」的なパターナリズムは結構好き

という特徴がある。

日本のネット世論的には、「1」にかぶれた人が左翼になって「日の丸掲揚にあくまで反対してみせるヒロイズム」に酔っていたり、逆に「2」の影響が大きかった人がいわゆる「冷笑系」みたいになっている。

あらゆる「左翼イデオロギーの純粋性」に対して距離を持とうとする(かといって過激な右も冷笑している)層の存在が「両極」以上の勢力を持っているのは日本のネットの他の国とは違う傾向性だと思いますが、そこに「田中芳樹」の影響は結構大きいんじゃないかと感じています。

この「田中芳樹3つの特徴」って結構取り扱い注意というか、結局あらゆる問題に対して超然として見せるだけの、いわゆる「評論家的無関心」につながってしまいがちじゃないですか。

こないだSNSのどっかで

「日本のネットによくいる、自分がヤン・ウェンリーになったつもりで偉そうなことを言うだけで何も責任取らない冷笑家の男が嫌い」

・・・みたいなパワーワード満載の発言を見て唸ってしまったのですが(笑)

いやほんと、自分はコレが嫌で大人になってから田中芳樹の作品恥ずかしくて読めなくなっちゃったんですけど。

これからの日本において、この「ヤン・ウェンリー予備軍」的な「冷笑派」の自意識たちに、「あらゆる問題を冷笑するというイデオロギーの狂信者」みたいになるんじゃなくて、「現実的対処の積み重ねに対して社会の協力を結集していこう」という方向に参加してもらうことが重要だよな・・・と思うわけです。

「あらゆるイデオロギーや宗教に対する狂信性への懐疑心」は凄いこれからの時代重要なことだと思うんですが、それが単なる「ヤン・ウェンリーっぽい口調であらゆるチャレンジを冷笑する」方向に行かれるとちょっと・・・ってとこありますからね。

むしろ「ヤン・ウェンリー的良識」を育てていって、「アトキンソン的現実改革路線を育てて竹中平蔵的ネオリベモンスターを排除する」ムーブメントの自意識的な下支えになってくれたらこれは素晴らしいことになる。

結果として「アニメ化された銀英伝とかアルスラーン戦記とか」が海外でもちゃんと理解される流れを手繰り寄せることも可能になるでしょう。

これからの日本にとって、あらゆるところに影響が沈殿している「田中芳樹作品という呪い」に対してどういうふうに向かっていけば、「冷笑家が多すぎて変われない国日本」を前にすすめることができるのか・・・ということについて、以下の部分では書きます。

ついでに、なんとなく思い出した田中芳樹作品の思い出・・・みたいなオタクトークもちょっとだけします(笑)

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。結構人気がある「幻の原稿」一冊分もマガジン購読者は読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

また、倉本圭造の最新刊「日本人のための議論と対話の教科書」もよろしくお願いします。以下のページで試し読みできます。

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「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。

また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

この記事の中で何度かリンクしましたが、「続き」の後編としてのこの記事もぜひどうぞ!↓


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ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…

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