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しみずのはなし番外編 ディアナ号

#訪問看護ステーション有度の里 #しみずのはなし
#すずき

流行病以降なかった
豪華客船が清水港に入港しました
規模も意味合いも違いますが
開国ってこんな感じかなと思うくらい
来日客も増えてきたのを感じます

昔は鎖国をしていた日本
日本の開国といえば
1854年ペリーと結んだ日米和親条約は
誰もが知っている事ですが
ペリー来航だけでなく
ロシアの黒船来航による
もう1つの開国の歴史が
伊豆駿河にあった事は
意外と知られていないようです

1854年10月15日
提督プチャーチン率いる
500人のロシア使節団が
2000tの大型ロシア帆船で
下田に来航しました

富士のN氏撮影

11月いよいよ会談に入るのですが
2回目の会談の約束の前日
4日朝に大地震とともに大津波が下田湾を襲います
ロシア使節船ディアナ号は津波で破損

下田は船修理に不便と不都合があった為
戸田湾で修理を行う事となります
(3方を山に囲まれ
 湾口が狭い地形が天然の要害となり
 存在を目立たせないためにも
 都合のいい場所でした)
しかし戸田湾に向かう途中
激しい波風に流され
駿河湾の奥深い田子の浦に
錨を降ろす事となりますが
船は浸水が激しく沈没の危機となります

この時富士郡宮島村の漁民が
自分達も津波で
被災しているにも関わらず
漁船100隻を出動させ
命懸けでディアナ号の救護を試みます
ディアナ号は沈没してしまいますが
奇跡的に一人の死者もなく
ロシア使節団は上陸する事が出来ました
プチャーチンの報告書には上陸した宮島村は
「地震で破壊されなかった家は一軒もなかった」
と記されている程の被害の中
村民たちは炊き出しをしたり
僅かしかない衣類をロシア人の為に提供しました

一週間後には造船予定地である
西伊豆戸田村に全員移動し
僅か3000人の人口の村に
500人のロシア人が滞在するという
前例のない事態となります

1854年3月ペリーの力の外交に屈した日本は
日米和親条約を結び開国しました
しかし私達が暮らす駿河の海で
民衆が自分達の意思で開国をし
ロシア人との温かい人間交流を行っていた
劇的な出来事が起きていました
1855年の日露和親条約締結の背景には
こんなドラマがあったようです

静岡の県立図書館には
ディアナ号から持ち出された辞書
それと並び同じ時ディアナ号から
救われたのではないかと
推測できそうな
抹香鯨の博物誌という
本があるそうです

富士から伊豆にかけて
ディアナ号に関連する博物館
記念館や引き揚げられた碇など
様々な品を見ることができます

ディアナ号に関する様々な事に
最近縁が多く
静岡東部をまわりながら
国や人種を超えた先人の物語に
思いを馳せています

少しでも人の争いが落ち着くことを
祈っています


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