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キャリアを考えるあなたへ

「そうそう、自分の強みはこれなんだよね」
「あぁこの感じ、自分らしくて心地いいな」
「うん、自分の居場所がちゃんとある」
そう思いながら、好きな仕事をして、それなりにお金も稼ぐ。
そんな人生、いかがでしょうか?

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はじめまして。森 慶介と申します。

私の少年時代はまぁ『酷い』という言葉がぴったりです。

私の家はかなり酷な経済状況でした。

物心がついたときには、製紙組合事務所の一角に間借りして、知らない大人と共同のトイレやお風呂を使っていました。隣の部屋では作業服を着た人達が、煙草をもくもく吹かしながら会議をし、その後片付けを母親が懸命にしていたのを覚えています。

そうした環境の中、母親の世間を斜めに見る癖をバッチリ受け継いで、本で読んだ付け焼刃の理論をこねくりまわし、知ったような屁理屈を言っているような子供でした。

そんな子供が、田舎の小学校でイジメられないはずがありません。

物は毎日隠される。上履きは池に捨てられる。自転車の空気は抜かれる。ドッチボールで集中攻撃にあう。おまけに先生からも、ダメな例というオチに使われてあげつらわれていました。

中学校になって、そこまでイジメられないまでも、友達がいないので、ますます世の中を斜めに見るようになり、段々と自分だけの世界に入って行きます。

そこで、HIPHOPに出会います。

学校にいっても面白いことなど無いし、勉強は不思議と教科書を読むだけで理解できたので、ギリギリの日数だけ学校に行き、塾にもいかず、家の中で1人、寝ても覚めてもHIPHOPに没頭していました。

やがて、中学から高校にかけて、音楽を繋ぐ、加工する、ということに熱中するようになります。

最初はCDをカセットテープに録音し、チープなミキサーで音を加工していましたが、その内に、バイトを3つ掛け持ちして貯めたお金でターンテーブルを買い、HIPHOPのMIXTAPEを自作して、学校で配るようになりました。

その時も友達はいませんでしたが、そのテープをもらって多少なりとも喜んでくれる人はいました。

「いいじゃん。また持ってきてよ。」

と言われた時、自分の中で新しい扉が開いた様な感じがしました。
初めて、勉強以外で認められた感覚があったのです。

高校もギリギリの出席日数で卒業。塾に行かせてもらうお金は無く、図書館と家を往復する日々。
1日12時間黙々と勉強し、独学だけで静岡の国立大学に入りました。

大学では、自分を少しでも変えようと、フットサルをやってみたり、呑みサークルへ顔出してみたり、海に行ってみたり、キャンプへ行ってみたり、色々挑戦してみましたが、どれもうまくいきません。

それもそのはず。今まで集団行動や友達付き合いをまともにしたことがないのですから。大体どこの場でも立ち居振る舞いが分からず浮いてしまい、苦笑されるのがオチです。

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周りはキラキラした男女。頭が良く、運動もできて、皆が学生生活を謳歌している様に見えていました。

自分はどこにいっても日陰者だな、、、と思いながらも、毎日しこしことHIPHOPで遊び、大量のMIXTAPEを作っていました。

ここで、私のコーチングスタンスを形づくる原点となる人と出会います。

彼の名前はTさん。プロスキーヤー、プロサーファー、インフルエンサーという、自分と全く違う才能とパーソナリティを持つ友人です。

彼は、私と会うたびに私のファッションを褒め、私の使う言葉に関心を寄せ、私の音楽知識に感嘆し、私のMIXTAPEを手放しで喜んでくれました。

彼は、頭が良く、運動神経抜群で、アウトドアに精通している、いわゆる「中心の人」。
私は、笑われ、拒絶され、やがて離れていくかもしれない関係が怖く、彼からも距離を置いていました。

それでも彼は、私のところへやってきては言うのです。
「慶介はすげーセンスあるよ!絶対に成功するから、CLUBでDJやろうよ!」

私以外にも、彼の周りにはたくさんのイケている友達がいるのに、なんで私なんかに・・・と何度も断りました。

でも、彼の顔を見て、目に嘘がないのがずっと気になっていました。

何度目かで、あぁ信じてみよう、そう思える瞬間がきました。初めて、無条件に人から信じてもらい、無鉄砲でもいいから行動してみよう、と踏み出せた体験です。

その後、私は18歳から25歳まで静岡市内において多くのCLUBイベントでDJをしました。

少なく見積っても10,000人以上のお客様が私のDJで踊ってくれました。様々なイベントでゲストとして招かれ、静岡では少しだけ名前が売れました。

有難いことに、誰もが知っているグローバルアーティストと共演させていただく経験もできました。

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(当時のチラシ。中央でカッコつけているのが21歳の私......)

前述のTさんは、私が活躍しても自分の名声に利用することは微塵もせず、私以外のたくさんの人を勇気づけ、輝かせていました。

私のコーチングスタイルは、NLPとアドラー心理学がベースとなっていますが、Tさんはそれを地で生きていたと思います。

社会人のスタートは、総合商社の営業として始まりました。

DJである程度うまくいき、夜の世界でそれなりに修羅場をくぐった自負から、完全に調子にのっていました。

1年目から強引な売り方で社長表彰を取り、先輩の成績をあっさり追いぬかし、上司の意思決定が鈍いと怒り、部長に直接掛け合って決裁をとるような働き方をしていました。

その時は寮に住んでいたのですが、同僚に
「いつまでサラリーマンやっているつもりだよ。将来の起業に向けてどうするか考えようぜ。」
なんて大口をたたいていた様です。

周りのスピードが遅く感じて、もっと早く成長したい、1番になりたい、という欲求がどんどん高まっていきました。

逆説的ですが、それが、コーチングとの出会いです。

営業として常にトップを取りたいと思った私は、対人関係術や成功法則の本を大量に読み漁りました。

デール・カーネギー、スティーブン・R・コヴィー、ロバート・B・チャルディーニ、ジェームズ・アレン、ナポレオン・ヒル・・・
読めば読むほど、「聴く」という行為が、いかに人に影響を与え、生かしもすれば、殺しもする、ということを深く理解していきます。

当初の目的であった「営業でトップを取る」ということはすっかり忘れ、対人支援としてのカウンセリング・コーチング・セラピーの世界へのめりこんでいきます。

当時26歳で、東京へ転勤になっていた私は、あらゆるセミナーに通いつめ、キャリアカウンセリング、NLP、アドラー心理学などを学び始めます。

この時が、後にも先にも人生の中で最も「外向性お化け」の時代です。

毎週新しい人と10人以上知り合いになることを目標として、様々なコワーキングスペースの会員になり、毎月ダイアログイベントを開いては、ファシリテーターをしていました。

何百人という多種多様な人と対話をすることを通して、人が何に喜び、笑い、幸せを感じ、何に傷つき、怒り、寂しくなるのか、実践者として理解していきました。

その後、青年海外協力隊に行くことになるのですが、私の経歴を見て
「どうして協力隊に行ったのですか?海外志向があったのですか?」
と聞かれる方が多くいらっしゃいます。

青年海外協力隊に行く人には、学生の時に海外留学したことがきっかけだったり、海外に何かしらの想いがある方が多いとは思いますが、私の場合、きっかけは東日本大震災です。

あの災害が起きてから、毎月、金曜日の深夜バスに飛び乗っては、土日でボランティアにいっていました。

私がやれることなど、瓦礫撤去、泥掃除、草むしり、清掃などの雑用しかありませんでしたが、それでも何度も、何度も行きました。

仕事や経済的な活動以外で、人から感謝されるというのが、こんなに自分に活力を与えるとは思ってもおらず、肩書の要らない奉仕活動にハマってしまったのです。

前述の何百人との対話に加え、馴染みのない土地で人を助け、受け入れてもらう優しさに触れることで、私の中で人間愛の様なものが確立してきます。

もっと世の中の役に立ちたい、人生をかけて人を助けたい、と思うようになりました。

その時見つけたのが『世界も、自分も、変えるシゴト。』というポスター。

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それまで、JICAと青年海外協力隊の違いも理解していなかったぐらいですが、もうその時にはいく決意が固まったことを覚えています。その日のうちに受験手続をとり、その年には合格し、バングラデシュへ行くことが決まりました。

会社には、ボランティア休暇制度などなく、退職も覚悟して職場に相談しました。大変有難いことに、当時の専務や支店長が人事とかけあっていただき、特別制度ができあがり、現職のまま協力隊へ参加できることになりました。

バングラデシュで邦人殺害事件があった為、1年で任国変更になり、パプア・ニューギニアでも活動する濃密な2年間でした。

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バングラデシュでは、5つの村で、200人のリーダーに、キャリア教育をしました。
といっても、就職先があるわけではないので、働くということや、お金を稼ぐこと、リーダーとして村を守っていくことについて、対話の機会をつくり、実際に資金や起業の場を、国の制度を活用して提供する施策を進めていました。

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パプア・ニューギニアでは、3つの村、150軒の農家をまとめて、農協をつくりました。
農家各々が米を耕作し、場当たり的な仕組みで取引をしていたので、日本のJAの本を読み漁り、現地の州政府と一緒に流通の仕組みや、農機具レンタルフローを作成し、実行しました。

どちらの国でも、一番大変だったのは、マインド醸成です。起業の資金や場所を用意したり、仕組みを整えても、それを活用する人のスタンスが整っていないと、その場限りの盛り上がりで終わってしまうし、継続しません。アッという間に形骸化して、お金は消え、用意した場所はたまり場になり、農機具は壊れていきます。

まさに「魚をあげるのではなく、釣り方を教えよ」の大切さを身に染みて理解しました。これは、コーチングにおける「相手の中に答えがある」という考え方に似ており、私は実感値としてこの考えを大事にしています。

帰国後まもなく、ベトナムでの新規事業開拓に従事することになります。約1年半でベトナムで1億円の取引開始、事務所設立までこぎつけました。

現地企業の協力を得ながらも、1人でハノイとホーチミンを駆けずり回り、日系メーカーの現地社長と膝を突き合わせて交渉し、夜は毎回潰れるまで呑み明かして腹を割り、少しづつお客様の輪を拡げていきました。

ベトナム事務所設立に成功したタイミングで、義母が脳卒中で倒れます。

その後約半年、義母の看病にあたる中で、命とは、人生とは、を本気で考え始めます。

今まで、自分が成功してきた時、喜びを感じてきた時、幸せな時、何をしてきただろう?これから自分は何がしたいだろう?、と。

3人ほど入れ替わりでコーチを依頼し、様々な角度から問いを投げてもらい、内省を繰り返しました。

そこで思い出すのが、大学生の時、私に勇気をくれたTさんのこと。

そして、ダイアログでファシリテーターをしていた時に出会った数百人の勇気をもらってくれた人々。何も大したことができない私に、笑顔で役に立っていると言ってくれた東北の方々。バングラデシュで、苦しい環境から育っていったリーダー達の雄姿。自分たちで作った米が見事に流通して喜ぶパプア・ニューギニアの農家の人々。ベトナムで出会った、不安を抱える社長の顔が明るくなった時のこと。

あぁ、私は、人の勇気の瞬間に立ち会いたいのだな、と気づきました。

営業で一番になりたいわけでも、人に影響を与えたいわけでも、有名になりたいわけでも、お金持ちになりたいわけでも、無い。ただただ、人の成長の瞬間、その人の才能に気づく閃き、勇気が漲るその一歩において、私が力になりたいのです。

10年務めた静岡の老舗総合商社を退職し、組織開発コンサルティング会社に転職しました。

そこでは、今までの人生で会ったことの無いような、高度な知的レベルを持つ人がたくさんいて、自分の頭の悪さに愕然とすることばかり。何度も提案に失敗して、夜な夜な泣いたことは数知れません。

それでも入社2か月でプロ研修講師としてデビューさせてもらい、多くの受講生と関わることができました。早々にマネジメントの任も与えていただき、メンバーが自身の才能や強みに気づく支えとなり、一緒に困難を乗り越えてきました。

2年半勤めた後、一生付き合っていくであろう仲間や上司から盛大に見送られて、愛する会社を退職しました。

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退職の理由は、これを読んでくれているあなたと出会うためです。

1000人以上の受講生と関わり、ロジカルシンキング、クリティカルシンキング、キャリア、リーダシップ、コーチングを教えてきましたし、多くの気づきの瞬間に立ち会ってきました。

それでも、大人数相手に何かを届けるよりも、個人が一歩進む勇気に立ち会いたいのです。自分の強みに気づき、才能を理解し、今まで縛られていた常識や纏わりついていた思い込みを捨て、自分らしい生き方や、心地よいキャリアを歩むお手伝いをしたいのです。

私には、それに伴走する心構えも、能力も、実績も、あります。

何より、私は痛みを知っています。目標達成しようとしても動けない、頭では分かっているけど進めない、誰も自分のことなど理解してくれない。それが手に取るように分かります。

だから、私と同じ価値観と考えを持つ、尊敬する経営者に師事し、株式会社エイトシークエンスに参画しました。

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エイトシークエンスは、単なる「人材紹介会社」ではありません。

全てのキャリアを考える人のプラットフォームです。キャリア開発、コーチング、採用支援、そして人材紹介、個人の幸せの為に、できることは全てやります。

自分を深く理解し、世の中を広く察知し、
「あぁこんな感じでキャリアを歩めたら、最高に心地いいなぁ」
そんな状態を、一緒に探しませんか?

私は、あなたの伴走者です。

それでは、またお会いしましょう。
お読み頂き、感謝申し上げます。

森 慶介
https://www.facebook.com/kskmori


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