不登校からの卒業(19)
学校での友達や話せる人の存在
~不登校を見つめる(2)~
教科の学習は、子ども達の成長のために必要なことであり、そのために国が学習指導要領で目標を設定していることを、前回、お伝えしました。
この点、塾は、そんなことを考えては指導をしていないのは、誰の目にも明らかです。
塾があるから学習のことは、塾に任せておけばいいとお考えの方もいらっしゃると思います。
塾と学校の大きな違いは「教育の目標」があるか、ないかなのです。
これからは塾が学校よりも遅れていく時代になります。
このことは、また、別の機会に取り上げたいと思います。
ところで、学校は勉強以外のことを学ぶ場であるとお考えの方もいらっしゃると思います。
子ども達の社会であると私も思っていますし、学習以外のことを学ぶ場であることは、現実的にも間違いないと思います。
学習以外ということになると、集団生活や人間関係ということが、子ども達にとって大きなことだと思います。
今回は、その人間関係の中でも「友達や話せる人」について考えてみたいと思います。
学校の教室内で過ごすのは、授業以外にも、休憩時間、給食やお弁当などのお昼ご飯の時間などもです。
この時に、ほとんどの子ども達が「友達」と過ごすことになるのですが、この「友達」という存在が重要であり、また、難しいものなのです。
何となく話が合う、気が合う「友達」ができるか、「友達」と呼べなくても、話ができるだけでも良いので、そういう人がいると、この授業以外の時間を過ごしやすくなるのです。
ところが、不登校になる子どもの場合、うまく話せなかったり、周りの人が話しているのを聞いていて合わないと感じたりすることがあるのです。
そうすると、なかなか輪の中に入っていけず、この休憩時間の「空気」がしんどくて、授業の方が楽だということもあるのです。
今は、授業でもグループ学習が増え、そのため、授業中でも人と話さないといけないと思っただけで、気が重くなる子どもがいるのです。
この「友達や話せる人」がいるということは、何を意味していて、不登校になる子ども達にとって、どういう意味があり、どういう効果があるのでしょうか。
この「友達や話せる人」がどういう役割をしているかなのです。
「友達や話せる人」がいることは、実際に、話すかどうかというよりも、存在だけで、少し安心できるのです。
学校という重苦しいと感じる「空気」の中で、この「友達や話せる人」の存在が、重苦しい空気の中で耐えられるもとになっているのです。
不登校になる子ども達にとっては、到底、安心・安全の場とは言えない学校の、重苦しく恐怖にも似た感覚になる「空気」の中で、ほんのわずかでもホッとするものなのです。
砂漠の中のオアシスにも似た感じかもしれません。
この人達といることで、その場の「空気」が少し変わるのです。
それだけで、学校に行けることもあるのですが、それでも、だんだん厳しくなるのです。