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『すずめの戸締まり』とアナキズム――ムスビをつないで生きるということ

執筆&写真:古泉函数

はじめに

昨年11月11日、新海誠監督の新作アニメーション映画として公開された『すずめの戸締まり』は、新海監督(以下、新海)が初めて、東日本大震災を直接あつかった映画としても話題になった。その是非については、いまは置き、本稿では、新海が『君の名は。』において提示した「ムスビ」という概念を軸に、『すずめの戸締まり』を読み解くことを試みる。
 そのためにまず、『すずめの戸締まり』を含む『君の名は。』以降の新海作品における「ムスビ」にまつわる演出を、いくつか個別に確かめていき、抽象的な「ムスビ」概念を定義づける――とまではいかなくとも、全体像を押える。そののち、災害というテーマから関連して、近年注目が集まっているエンパシーやアナキズムなどの概念と「ムスビ」との関係を考える。そして最終的には、「ムスビ」の持つアナキズム的な側面を示すことが本稿の目的だ。この議論は、新海作品が長年カテゴライズされてきたセカイ系と、新海が『君の名は。』以降の三作であつかってきた災害、両者の関係を考えることとも、密接につながっている。

A.「ムスビ」とは

 はじめに、かんたんではあるが、「ムスビ」について確認する。
 注意がおくれたが、この記事は新海監督の映画『君の名は。』、『天気の子』、『すずめの戸締まり』のストーリーをある程度知っていることを前提としているので注意されたし。

 それでは、「ムスビ」という概念が『君の名は。』劇中でほのめかされた実例にあたってみる。

「土地の氏神さまのことをな、古い言葉で産霊ムスビっていうんやさ。この言葉には、いくつもの深いふかーい意味がある」

「糸を繋げることもムスビ、人を繋げることもムスビ、ぜんぶ、同じ言葉を使う。それは神様の呼び名であり、神様の力や。ワシらの作る組紐も、神さまの技、時間の流れそのものを顕わしとる」

「よりあつまって形を作り、捻じれて絡まって、時には戻って、途切れ、またつながり。それが組紐。それが時間。それが、ムスビ」

「知っとるか。水でも、米でも、酒でも、なにかを体に入れる行いもまた、ムスビと言う。体に入ったもんは、魂とムスビつくで。[…]」

小説『君の名は。』

 以上は、小説版『君の名は。』から「ムスビ」に関するわりあい具体的な記述を抜き出したものだ。
 「ムスビ」について、直接言及がある部分は意外に多くない。

 上のテクストから読みとれることをまとめる。

  • 神は「ムスビ」そのもの

  • 「ムスビ」は繋がりがあるならば、もの・ひとを問わない

  • 「ムスビ」は単線的なものではなく、複線的・複層的であったりする

  • 繋がりと繋がりの中断もまた「ムスビ」の概念に含まれている

  • 時間の経過も「ムスビ」

  • 食事は「ムスビ」に含まれる

 これだけでは、抽象的だ。藤田直哉の『新海誠論』によれば

「ムスヒ」(『君の名は。』においては、それを少し変えた「ムスビ」)は、神道などにおける本来の意味としては、「次々と生成していく生命や勢い」のことを指していた。それを、新海は『君の名は。』において、何かと何かをつなぐことにまで拡張して用いている

藤田直哉『新海誠論』(強調筆者)

とある。「何かと何かをつなぐこと」ならば、イメージがつかみやすい。
 また、私たちの生活にそくした説明を補足する。

「会いたい」と思う力も、キャラクターを推す気持ちも、おそらくは「ムスビ」であり、同時に、時間を超えてつながること、地方と中央をつなげること、孤立し自閉した人々を外とつなぐこと、公共的で社会的で歴史的な問題への関心を接続させること、そして、インターネットやSNSでの「つながり」一般までもが、「ムスビ」と言えるのではないか。男と女を出会わせ新しい生命を生むように促す力がおそらくは「ムスビ」であるが、それは男と女以外の様々な物事をつないで出会わせる力一般のことを指していると本作では想定される。つまり、風景と同じように、神道の「ムスビ」概念をも、書き換えてアップデートしようとしているのが本作である

同上

 「ムスビ」が作品の外にも飛び出しているという指摘は重要だ。



 

 以下からは、『君の名は。』と『天気の子』にあらわれる「ムスビ」について、具体的に見ていく。

B.『君の名は。』と「ムスビ」

 Aで引用した部分にとどまらず、『君の名は。』はムスビの映画だ。
 マクロには瀧と三葉の引かれあう運命、ミクロには演出や小道具に、ムスビのモチーフがあふれている。

『すずめの戸締まり』への接続を考えて髪型の例を挙げよう。髪の「ムスビ」方ひとつとっても、「ムスビ」のモチーフがうまく映画に取りこまれている。
 三葉の髪型は大きく3種類。

  1. 編み込み

  2. ポニーテール

  3. ボブカット

 1はキービジュアルなどにも使われている三葉デフォルトの状態だ。必要以上に手間のかかる髪型は、フェティシズムを感じさせる部分もありつつ、外でのかっちりした三葉と、自宅などでは無防備な髪を下ろした三葉とのギャップを際立たせる。
 2は、瀧が入れ替わりで三葉の身体に入っている状態のときのもの。観客に、三葉の中身が入れ替わっていることを視覚的に説明している。
 3は、とくに瀧との「ムスビ」を効果的に表している。
 というのも、瀧に認識してもらえなかったとき髪を切ることや、山頂で瀧と会えたときにムスビの象徴たる組紐を「ムスビ」直すといった、組紐と髪の結い方がかみ合った演出が、今までのムスビの反復も相まって、三葉の心情を説明する説得力を獲得しているからだ。失恋したから髪切る的な、ありがちかつビジュアル変更以外に目的が見いだせない安っぽい演出とは一線を画している。

 他にも、さっと思いつく範囲でも組紐、口噛み酒、奥寺先輩のスカートを裁縫して修繕したこと(糸を結ぶ)、ラーメン(瀧が宮水神社のご神体まで行けたのはラーメン屋のおじさんのおかげ)、三葉や勅使河原が抱える家族のわだかまりなどがあるだろうか。
 食事や家族という観点は『すずめの戸締まり』でまた指摘することになるので、頭の片隅に置いておいてほしい。

C.『天気の子』と「ムスビ」

 『天気の子』も、実は、ムスビのモチーフから読み解けることが多くある。一言で表してしまえば、『天気の子』は『君の名は。』とは対照的に、
「ムスビ」の困難さを描いた映画だ。

 まず、「ムスビ」を描いている点を考える。
 映画の冒頭、帆高は怪しげなライター・須賀と出会い食事をたかられることになる。『君の名は。』において指摘されているとおり、食事が「ムスビ」のいち形態であると考えるならば、帆高はここで須賀と「つながり」ができたことになる。そして、そのか細い「つながり」が、東京で資金が尽きかけた居候さきを与えるという形で帆高を救うことになる。
 ヒロインである陽菜は、ひもじい食事を摂る帆高にマクドナルドのビックマックを渡す。このことが、経緯はどうあれ、後に帆高と改めて出会うことにつながった。帆高と陽菜の「つながり」はこのほかにも、ふたりで食べたチャーハンやプレゼントの指輪などが挙げられる。
 さらに、帆高らは、主要登場人物以外とも、お天気ビジネスを通じて「ムスビ」をつないでいくことになる。
 ここで注目しておきたのは、お天気ビジネスが生む「つながり」は金銭を介したものである点だ。『君の名は。』で登場した「ムスビ」の象徴が組紐や口嚙み酒といった、歴史や伝統といった年月の重みをもつ小道具だったのに対し、『天気の子』のそれはジャンクフードであり、「たかだか」3000円の指輪であり、手渡される金銭である。ただし注意したいのは、新海がこうした「つながり」をネガティブなものとして描いていない(ように見える)点だ。じっさいに、金銭による「ムスビ」は『すずめの戸締まり』にもふたたび現れることを後で確認する。

 今度は逆に、困難さという点。これは、『君の名は。』と『天気の子』の相違点から考えてみる。
 瀧が三葉を救いたいと願ったとき、立ちはだかったものは何だったか。それは3年のタイムラグという時間の壁だったが、その困難は口嚙み酒によって奇跡的な解決をみせ、勅使河原や早耶香の、最終的には父の助けを得て、彗星落下の人的被害は回避される。

 対する『天気の子』だ。まず土井伸彰の論を引く。

本作は明らかに「親」的なるものとの断絶の物語でもあります。東京での疑似的な親である須賀との関係や警察、児童相談所といったものが、本当の意味で若者たちを守れているのかを本作は問題にします。

土居伸彰『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』

 土井の指摘するとおり、陽菜を救おうと決意した帆高に立ちふさがったのは公権力たる警察であり、線路を走る少年への冷笑であり、一度は彼を助けてくれた須賀であった。もちろん夏美のフォローや、須賀の最終的な献身を忘れてはならないが、障害を越え、陽菜を助けた帆高がもたらした結果は東京の水没だった。

 つまり、『君の名は。』の瀧が個人、社会、超自然的といった「ムスビ」のちからによって難局を乗りこえた一方で、『天気の子』の帆高は個人どうしの「ムスビ」はあるていど機能したものの、社会との「ムスビ」の希薄さが、困難として立ちはだかったのだと言える。

 『天気の子』において社会は、家なき帆高を、親なき陽菜たち姉弟を、不穏分子となったとき排除しにかかるとき以外は無視しつづけるし、同様に、彼・彼女らも基本的に社会をかえりみることをしない。あげくの果てには、陽菜のために個人的な「ムスビ」を優先させる決断を下す。

 ただし、社会とのムスビの困難さの陰には、また違った「ムスビ」が隠れていることも覚えておきたい。ふたたび藤田の言葉を引く。

ムスビは、人間も含む自然界や生物をも突き動かす「勢い」全般である。だから、帆高が「どうしても許せない」と思って行動してしまうその瞬間の衝動にもまた「カミ」は宿っており、突き動かす力の中に「ムスビ」がいると考えることができる

同上

 「ムスビ」に「勢い」が重要だという点は、『君の名は。』・『天気の子』・『すずめの戸締まり』に共通してみられる、物語の終盤、主人公が走る行動とも対応する。部屋に閉じこもっていては「ムスビ」はつなげないのだ。

 少しそれて、映画の外の「ムスビ」について考える。
 帆高の選択に一定ていど共感の意見がみられるのは、劇中、社会-キャラクター間の「つながり」の存在感が薄いことはもちろんだが、新海じしんが述べている以下のような感覚が観客のそれと一致をみたからだと考えられる。

帆高も陽菜も貧しいというのは、実は『君の名は。』と大きく違う要素かもしれませんね。社会自体があの頃とは違っていて、日本は明確に貧しくなってきている。特に若い子にはお金が回らなくなっていて、それが当たり前になってきています。ひとつ覚えているのが、『君の名は。』でヒロインの三葉が暮らす家を考えている時に、湿っぽい日本家屋じゃなくて憧れるような家にしたほうがいいんじゃないかという意見が出たんです。[…]当時はそれでOKだった気がするんですが、『天気の子』を作り始めたときにはもう時代は違っていたんです。『君の名は。』はパンケーキに喜ぶ話でもありましたが、『天気の子』はジャンクフードに喜ぶ話なんですね

『天気の子』劇場パンフレット

 これは、ひじょうに面白い現象だ。帆高は、映画の中で社会とつながれなかったが、その振りきれた決断で、観客(の一部)に強い共感を覚えさせ、映画の外の私たちと「ムスビ」をつないでいる。ただし、「まったく共感できなかった」という意見がみられたのも事実であった。

 以上、『君の名は。』・『天気の子』に、規模を問わず人と人との関係や、アニミズム的な発想など、多様なかたちで「ムスビ」がみられることを、その代表例から確認した。




D.『すずめの戸締まり』と「ムスビ」

 いよいよ『すずめの戸締まり』を読み解くにあたっても「ムスビ」概念が重要である、という論の本丸に切りこんでいきたい。
 『新海誠論』において藤田は、近年の新海映画でつねに潜在する「ムスビ」のテーマを、「セカイ」(≒アニメ的なもの)と「世界」(≒現実)をつなげようとする試みであると評価している。

『星を追う子ども』以降で、新海が折衷し、「つなごう」としているのは、自然主義リアリズム的な感覚と、まんが・アニメ・ゲーム的な感覚なのではないだろうか。その分裂を統合し、止揚することで、日本のオタク文化、ニューメディア的な感性の弱点を克服させることで、現実に生じている問題に対する解決をも図ることが、新海誠がやろうとしたことであり、『君の名は。』での「二つの世界が重なる」ことの寓意なのではないだろうか。

藤田直哉『新海誠論』

 私はこの論におおむね同意であり、本稿じたいも『新海誠論』に大きな影響を受けていることは否定しない。しかし『新海誠論』が『すずめの戸締まり』小説出版後、映画公開前という微妙な時期に発表されたため、『すずめの戸締まり』にみられる「ムスビ」の指摘には、もの足りないという印象もぬぐえなかった。なぜなら、私が映画公開後に『新海誠論』を参照したのも原因とはいえ、著者の指摘が『君の名は。』『天気の子』の議論を引き継いだ抽象的な範囲にとどまらざるをえず、映画の演出といった、より具体的な見方はどうしても抜け落ちてしまっているように思えるからだ。
 したがって、本稿に独自性があるとすれば、それは映画としての『すずめの戸締まり』から読み取れる(≒小説では読み落としてしまうかもしれない)「ムスビ」を考えるところにある。

 『すずめの戸締まり』における「ムスビ」は、さながら『君の名は。』の組紐のように過去の自分と現在の自分とを時間を越えてつなぎあわせるイスだけではない。今回、私がとくに注目したのは鈴芽の服装、親子関係、食事、劇伴などだ。それらを指摘、検証していく過程で新海の過去作品や、その他の映像作品にも触れることになる。

衣裳について

「制服姿で椅子だけ持っとったら、目立つけんね。服もバックも、すずめにあげる」

新海誠『小説 すずめの戸締まり』

「これ、鈴芽ちゃんにあげる」
 そう言って、ルミさんは被っていたスポーツキャップをぬいで、私の頭に被せた。

同上

「靴を借りるね、草太さん」
 そう呟いて、私は玄関にあった草太さんの黒いワークブーツに足を入れた。ぶかぶかだったけれど、私は靴紐を強く引っぱって、足に縛り付けるようにしてその大きな靴を履いた。

同上

 私は草の中から、上半身を起こした。草太さんが白いロングシャツを脱ぎ、私の肩にそっと掛ける。制服がぼろぼろになってあちこち破れていたことに、すこし遅れて私は気づいた。

同上

 映画から読み取れる「ムスビ」に注目すると宣言しておきながら、小説の描写を持ってくるが、説明の都合上、許してほしい。
 さて、件の箇所を抜き出し並べてみれば、私が指摘したい「ムスビ」についてお分かりいただけるかと思う。「かづく」という単語が、たんに褒美を与えるだけでなく、衣服を与えるという意味を特別に持っているなど、身につけていた衣服を贈与することは、古来からひじょうに重大な意味を持つ。
 そして『すずめの戸締まり』では、鈴芽が熊本から故郷の宮城に向かう過程で、出会う人たちからさまざまな服飾品を受け取る、ないし借り受けているのだ。

 ここで赤坂憲雄『ナウシカ考 風の谷の黙示録』を参照する。
 なぜなら、宮崎駿のマンガ『風の谷のナウシカ』第2巻においても、ナウシカが色いろな部族の衣裳を身にまとって旅立つシーンがあるからだ――「風の谷のわたしが 王蟲の染めてくれた土鬼の服を着て、トルメキアの船で出かけるのよ」。
 少し長くなるが引用する。

風の谷からの、第一の旅立ちは、族長の娘ゆえのあくまで強いられたものであった。ところが、このとき迎えようとしていた第二の旅立ちは、ナウシカがみずから覚悟とともに選び取ったものである。それがいわば、身なりや服装の転換を仲立ちとして、みごとに表現されている。ナウシカはもはや、風の谷の族長の娘として立っているのではない。土鬼の娘の服、ペジテの少年のシャツの包帯、風の谷のスパッツ・手袋・ブーツ、そして、トルメキアの船である。なにより、その服は王蟲の地で真っ青に染まっている。まさにナウシカはいま、いくつもの敵対しあう部族の衣裳をコラージュのごとくに身にまとい、部族や国家が人為的に張りめぐらす境界や壁を踏み越えていくことをめざす、越境的な存在と化しているのである。

赤坂憲雄『ナウシカ考 風の谷の黙示録』

ナウシカは部族や国家を越えて、異質なる人々を繋ぎあわせる。異質なる価値観を背負って、対峙しあってきたはずの人々が、ナウシカを仲立ちとしながら繋がれていく。

 部族間の対立などは、『すずめの戸締まり』では触れられていないため、ナウシカの名前へ鈴芽を直に代入してしまうことには慎重にならなければならないが、一方で、新海が宮崎駿のマンガ『風の谷のナウシカ』から大きく影響を受けていることは、インタビューなどから、確かである。
 したがって、鈴芽の旅のありさまをナウシカと重ねて見ることはじゅうぶん可能であるはずだ。鈴芽は、要石を引き抜いてしまい、草太の手伝いをしなければならないという、ある意味強いられた旅立ちから、各地の人々から譲り受けた服を身にまとい先へ進む。そして、草太を失った鈴芽はみずから覚悟とともに宮城へ向かう、己の過去と向き合うことを選び取るのだ。

 また、先ほど『君の名は。』の節であげた、髪型の演出に関しても、『すずめの戸締まり』に継承されている。三葉の心理や状況に応じて変化した髪型だが、『すずめの戸締まり』では、鈴芽のそれが「ロングヘアで、ポニーテール、ひとつ結びの三つ編み、ハーフアップと各地で髪型が変わってる」(劇場パンフレット, p. 22)のだ。
 それは魅力的なヒロインのビジュアルを提供する以上に、「ムスビ」の多様な在り方を暗示するものであるように思えてならない。

 さらに「うちの子になる?」という問いかけから始まってしまう(そしてそのことに鈴芽は無自覚だ)、鈴芽とダイジンのいびつな疑似親子関係もまた、『ナウシカ』6巻以降のナウシカと巨神兵の歪な親子関係に重なる。
 ナウシカも鈴芽も、実の母親に関するトラウマを負っていた。こうした類似は、さらなる「ムスビ」の問題――親子関係や土地のしがらみ――を呼び込むことになる。

親子や土地について

 上のツイートは『君の名は。』の大ヒットを受けてNHKの報道番組『クローズアップ現代』で2016年11月28日『想定外!?「君の名は。」メガヒットの謎』と題した特集が組まれ、その放送を受けた新海のツイートである。番組では「結び」(NHKのサイトではこういう表記になっている)に着目した特集が組まれ、放送されたインタビューへの補足コメントだ。

 ここにはひじょうに重要な示唆――「ムスビ」(=「ほだし」)が必ずしもポジティブな効果ばかりを持つものではないと新海も自覚している――が含まれている。

 『君の名は。』を思い返してみよう。三葉の悩みのタネは宮水神社のことであり、父との関係でもあった。彼女は「ほだし」によって土地に縛り付けられていた。他のキャラクターにしてもそうだ。勅使河原は土建屋の、早耶香は市役所の放送担当という家の仕事に将来は就くことが既定路線であった。
 家族や土地といったテーマは『君の名。』において、田舎に住む高校生の普遍的な悩みとして、半ばコメディのような扱いを受けているように見え、それほど深く踏みこんで取りあつかわれなかった。
 「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!」
 三葉の切実な叫びであっただろうそれは、「アホな人やなあ」と一蹴される。

 一方『天気の子』は、どうだっただろうか。
 「――息苦しくて……地元も親も。東京にちょっと憧れてたし……」と島を出てきた帆高。妻を亡くし娘と離れて暮らさざるをえない須賀。両親ともにその影がない陽菜と凪――など、家族に問題を抱えたキャラクターは『天気の子』でも多く登場する。

帆高の過去をモチーフにした映画ではなく、後ろを振りかえらずに前に向かって駆け抜けていく二人の若者の話にしたかったので、帆高と陽菜の家族関係については深く語らないまま進めていくことにしました。

榎本正樹『新海誠の世界』

 『君の名は。』で提示するにとどまった家族や土地の問題は、『天気の子』において今度は逆に、あえて捨ておかれた。『君の名は。』では前景に出てこなかった「ほだし」を、『天気の子』でわざわざ無視することは、むしろ「ほだし」を大きな問題として捉えられた結果ともとれる。つまり、それを振り切ってしまうという点で、『天気の子』においても「ムスビ」は強調されているのだ。

 翻って『すずめの戸締まり』。
 『すずめの戸締まり』において、環と鈴芽の親子関係とそのしこり及びその解消は、鈴芽が過去に向き合うというテーマのひとつだった。
 では、なぜ触れるそぶりは見せても直に扱うことをしなかった家族のテーマが、『すずめの戸締まり』では顕在化してきたのか。これついては、新海じしんの発言を参照する。

震災はもちろん、鈴芽と草太の関係は重要ですが、この映画のもうひとつの大きな要素に、鈴芽と環の関係性があります。親子ではないふたりの関係性が物語を駆動するというのは特別珍しいものでもありませんが、『君の名は。』を作った40代前半の自分では興味が持てなかったモチーフなんです。

『新海誠本』劇場配布特典

 ふたりの親子関係に立ちこめる暗雲は物語の最序盤から見え隠れする。
 冒頭、学校での食事シーン、友人にも「愛が深い」と評されるほどのお弁当について鈴芽は、小説ちゅうで「私は時々学校に持っていくのを忘れてしまうのだ。わざとじゃない。わざとじゃないけれど、お弁当を持たない日はほんのすこしだけ解放感がある」と独白する。
 劇中で戸締りのモチーフと重ね合わせてカットインでくりかえし強調される開く/閉じるという行為が、環がつくったお弁当に関しては、開く動作だけがズームで映された。こうした演出も、後ろ戸を開いてその場を立ち去った鈴芽の不用意さと重なり、不吉な予感を観客に植えつける。
 お弁当を開くことと呼応するように、環と鈴芽の後ろ戸は開かれ、戸締りされることなく宮城まで影を落とすのだ。
 ついに、わだかまりは、サービスエリアにおけるふたりの衝突で臨界を迎える。お互い長年こころのどこかに飼っていただろう、ほの暗い感情をぶつけ合うシーンは、にがく苦しい。しかしこのシーンもまた、「ムスビ」を読み解く上で見逃すことは出来ない。

食事について

 サダイジンの憑依によって環は本音のいち部分を暴かれ、ふたりの関係に決定的なひびが入ってしまう。しかしそれ以前、つまり芹澤の車に乗り込み宮城へふたりが出発したときから、車内にはぎくしゃくとした空気が立ち込めていた。
 その原因がどこにあったか。
 色いろな原因が考えられるが、一つには鈴芽が食事を拒否したことがあるだろう。

 劇中の時間をさかのぼってみる。愛媛で千果、神戸でルミのちからをそれぞれ借りたとき、どちらも和やかな食事シーンがある。一方は民宿の郷土料理、一方がマクドナルドのバーガーと家でつくる焼きそばであった。(マクドナルドは『天気の子』で陽菜から帆高へ手渡されたビックマックとも重なる。当然スポンサーなど興行的な理由もあっただろうが、手料理と対比して示すことで「ムスビ」の多様性を象徴しているシーンと解釈できる)

 食事を共にすることが、「関係構築の食」(木下,2021,p. 104)として重く扱われることに、過去のアニメーション映画の系譜を鑑みても、とくに違和感はない。
 であるならば、その逆として、食事をしないことが「ムスビ」の拒否として映ってしまうことも否定できない。

 また、食事をしないという観点でもうひとり重要なキャラクター、草太がいる。ダイジンによって椅子の姿に押し込められてしまった草太は食事をとることが出来ないのだった。

色も感触もない透明な泥水の中を落ち続けながら、草太さんは世界から切り離されていく。彼と世界とを結ぶ大切な糸が、一本また一本と、順番に切れていく

新海誠『小説 すずめの戸締まり』

 食事を摂れない身体にされた草太は世界との「ムスビ」をつなげなくなり、人ならざる要石とされてしまう。

唇だった。誰かのかすかな体温が、彼の唇に色を取り戻させようとしていた。切れていたはずの彼と世界とを結ぶ糸を、誰かが一本一本、繋ぎなおしているかのようだった。

同上

 そして失われた世界を「ムスビ」を取り戻すのは鈴芽の口づけという身体的アプローチであり、草太が世界との「ムスビ」を回復する過程で鈴芽がひじょうに重要な役目を担う。この点に、恋愛を世界さえ救ってみせる万能のものとして扱うような危うさを見る向きも、当然あるだろう。
 が、ここで芹澤というキャラクターを考えたい。彼は貸した2万円を取り返すため、という名目で鈴芽と環を宮城まで送りとどける。本稿の『天気の子』の節で金銭的なつながりも「ムスビ」であると述べた。すると、芹澤と草太の間にも「ムスビ」が見えてくる。新幹線代のやり取りでも、鈴芽と草太の間にも金銭的な「ムスビ」は見られた。とはいえ、草太を世界に引きとめることになったのは決して鈴芽のちからのおかげだけではなかったのだ。草太の下宿先にあるコンビニなども、「ムスビ」にあたるだろう。芹澤のそれは鈴芽と比して、どうしても存在感は薄くなる。しかし確かにあったのだと、はっきり指摘しておく。

 話を戻す。ここまで考えれば、これみよがしに食事を拒否した鈴芽の行動の重大さは理解される。
 懇親会、歓迎会、送別会などの各種飲み会、もちろん強要は許されないが、それでも、「同じ釜の飯を食う」の言葉が表すとおり、食事を共にすることの効用は多くの人が認めるところだろう。
 場の調和や相手からの厚意をみだりに踏みにじれば、自然、場の空気は荒み、関係はぎこちないものになる。こうした点は「ムスビ」の持つ、モースの「贈与」に近い側面をあらわしているとも考えられる。

劇伴について+α

 もう一点、サービスエリアのシーンについて考える。
 RADWIMPSと陣内一真による『すずめの戸締まり』のサウンドトラックアルバム『すずめの戸締まり』をみると「狐憑き」という曲がある。件のシーンで流れる曲だ。

  狐憑きという単語に覚えのある人もいるかもしれない。
 『君の名は。』で、瀧が入れ替わった状態の三葉がふだんでは考えらない行動をとるのを、勅使河原は狐憑きのせいだとしていた――「ありゃあゼッタイ狐憑きやぜ!」。
 つまり、この「狐憑き」という曲の題名は、『君の名は。』と『すずめの戸締まり』のつながりに制作者側も(たとえファンサービス以上の意図がないのだとしても)あるていど自覚的であることを示している。

 ここまで、親子関係や食事などのモチーフに『君の名は。』以来の深化がみられるという方向で議論を進めてきた。
 対してこの節では、こうした作劇じょうの演出に加えて、音楽といった映画の構成要素そのものに見いだせる「ムスビ」に注目する。
 そのためには、あくまで映画内の概念として提示された「ムスビ」をよりメタなレベル、つまり「作品そのもの(どうし)」などの範囲まで拡張しなければならない。それは、(セルフ)オマージュやパロディ、パスティーシュなどと呼ばれる技法とも一致する部分があるだろう。

 まず新海の映画製作に、過去の作品を参照する手つきがあることを確認したい。

土俗的なもの、民俗的なものを物語の仕掛けにしているという指摘はその通りで、意識的にやってます。昔話の型や類型を、ある時期から意図的に援用することを始めました。その理由には、物語の作り方を事後的に身に付けていく必要があった僕自身の個人的な事情があります。[…]すると、どの本にも物語にはアーキタイプ(原型)があって、みたいなことが書いてあるんですね。神話や説話といった既存の型を参照して物語を作る現在のスタイルは、そこから始まりました。

榎本正樹『新海誠の世界』

新海作品は、物語自体にも隙間がある。『ほしのこえ』におけるロボットアニメとしての設定の脆さを指摘する人も多いが、脆いことこそが重要なのである。『星を追う子ども』もオリジネーターであってはならず、ジブリっぽい、という立ち位置こそが、必要になる。これらはあくまで、私たちがよく見知った寂しさや悲しみを引き立て、そして改めて演じるための舞台なのだから

中田健太郎「横切っていくものをめぐって」

少女が旅に出て成長する物語にしよう思っていたときに、最初に先行作品として思い浮かんだのは、やはり『魔女の宅急便』でした。意図的に鈴芽が旅先で出会う人たちを女性にして、年齢の幅を取って配置するということをやりました。それが『魔女の宅急便』からストレートに影響を受けているところです。

『すずめの戸締まり』劇場パンフ

 さらに、新海が過去の自作を参照していることを示唆する文献をあげる。

新海誠は自身のフィルモグラフィを検証しなおし、過去作の要素を集大成していることが窺えます。一例をあげるなら、お酒を奉納する祠の場面は、完全に『星を追う子ども』で祠に潜ってゆくシーンのリベンジでしょう

石岡良治「新海誠の結節点/転回点としての『君の名は。』」

 あまり代わり映えのしない話を(代わり映えさせようと努力はしているんですが)今度こそもうすこし上手く語ろうと、次こそはもっと観客や読者に楽しんでもらえるようにと、作り続けていくのだと思う

新海誠『小説 すずめの戸締まり』あとがき

 以上の引用から、新海が作品の自他を問わず吸収・利用している、と考えることにさほど無理はないと思う。そしてこの論は、『すずめの戸締まり』に「ムスビ」をあてがって読み解いていくことが、まったくの見当外れではないことを保証してくれる。

 ふたたび劇伴の話に戻ろう。
 実は、「狐憑き」以外にも劇中で『すずめの戸締まり』と『君の名は。』、『天気の子』のつながりを感じさせる部分がある。
 愛媛に千果宅に一泊したあとの朝、ニュース番組で明石海峡大橋を渡るダイジンが放送されるシーンだ。ここで流される劇伴は「糸守高校」と「K&A初訪問」という曲である。(映画またはパンフレットのエンド・クレジットを参照のこと)

 聴いていただければわかると思うが、どちらの曲も基調となるメロディーが同じだ。
 『君の名は。』以降に映画で劇伴をRADWIMPSが担当していることは広く知られているものの、各作品の音楽の共通点を指摘・注目したものは、少なくとも私は、あまり見たことがない。しかし、新海とRADWIMPSが緻密に意見を交わして劇伴を制作していることは明らかであるから、新海の意図を見い出すのは決して事実無根ではない。
 上の2曲が流れたタイミングが、橋――離れた陸地と陸地をつなげるもの――を渡るシーンだったことに象徴的な意味合いを持たせている、と考えるのはさすがに穿ちすぎか。

 音楽の観点について、松任谷由実「ルージュの伝言」が流れたのも印象的だった。先の引用で新海本人が触れていることからも、『すずめの戸締まり』において『魔女の宅急便』への意識があることははっきりしているが、そのことを劇中でもあからさまに宣言する選曲だといえる。
 そのあとにも、いわゆる懐メロが立てつづけに流された。このことについて考えたい。
 あるインタビューで新海じしんが『天気の子』において、幼い観客をとりこぼしていたかもしれない可能性を指摘する。

あとは単純に大きな規模で上映した映画なので、小学校に上がる前の小さな子供もたくさん来てくれたんですが、僕がふらりと劇場に足を運んでみたときに、そういう子が映画に退屈してしまい、「アメ」という猫のキャラが出てくるときだけ画面を見る、という状況を目にしたんです。

それで「次こそはどんな年代の人でも画面から目を離さないような映画を作るぞ」と決心しました。映画には好みがあるにしろ、こちらとしては誰も取りこぼさないものを作りたい。そのことは『天気の子』で改めて思いました。

 この反省から年少の観客が楽しめるようにと、イスとダイジンによるコミカルな動きのアニメーションが生まれたことは企画書などから分かる。
 他にも、『すずめの戸締まり』に比べれば、恋愛要素が前面にあったと言っていいだろう『君の名は。』・『天気の子』は、ティーンエージャーには身近な話題を扱ったものとして受けいれやすいが、あるていど年を取った観客にはどう受けとめられるか。くどさを感じるひとがいても、おかしくはない。
 だが、昔にヒットしたポップソングを起用することは、鈴芽や草太より上の世代も映画に親近感を覚えさせるよすが・・・となるのではないか。すると、懐メロはうまく機能すれば、『すずめの戸締まり』の世界が現実と地続きであるかのように錯覚させられる――つまり、観客と映画との間に「ムスビ」をつなぐ手法として使える。
 これを、幅広い客層にリーチするためという、たんに商業的な理由「だけ」からのアプローチであると断じる者もいるかもしれない。であるならば、『天気の子』で帆高、陽菜、凪の三人がホテルに宿泊したシーンでAKB48「恋するフォーチュンクッキー」や星野源「恋」を、わざわざ流したのはなぜなのか。そして、その演出を反復した意味は何だったというのか、彼・彼女らの等身大の選曲によって、ぐっと親しみを感じやすくなったのは不自然なこころの動きなのだろうか。
 また、歌謡曲の起用という演出は、庵野秀明『エヴァンゲリヲン新劇場版』にもみられた。そこで、エヴァに関する議論も援用しておこう。

新劇場版では全体を通して、大文字のクラシックや「翼をください」など、誰でも知っているような楽曲を主人公の内面の葛藤のドラマとか、クライマックスの演出のときにドーンとかけたりする。すごく内面的で詩的な映像やシーンにベートーヴェンや国民的な歌謡曲をぶつけるというのは、映像演出の用語でいう「対位法」的な表現ですが、これもセカイ系的な情緒とかエモーションともつながっているのかなという気がします。

柴那典など「「セカイ系文化論」は可能か?――音楽・映像の交点からたどり直す20年史」

 セカイ系的な情緒とは、セカイと私がつながっていると錯覚してしまうような感覚のことだろう。このような、観客と映画のあいだに「ムスビ」をつなげていく(と、同時に異化効果をもたらす)やり口のなかでも、新海がとくに得意としているのは風景によるそれである――として異論はまずでないと思う。しかしこの観点からの指摘は、『新海誠論』、『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』、『ユリイカ 特集=新海誠』などの先行の論考が多数存在している。
 風景がもたらす「セカイ系的な情緒」について、たとえば、土井伸彰によれば、

[…]写真を元にして描かれる、つまり現実がなだれ込むような豊かな新海作品の背景は、それに比べるとシンプルな人間の描写との対比のうちに、そこに何か深遠なる意味があるに違いない、ということを無意識に思わせるトリガーになります。
 […]それは、私たちの生きる世界は美しく崇高である、という現実肯定の感覚へとつながっていきます。意味を見出したくなってくる。もっと言えば、その美しさを発見している自分へのカタルシスへとつながってくる。巨大で崇高な世界に、意味を見出している自分に対しても。

土井伸彰『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』

 などの指摘がある。
 そのため、私がここで新しく提示する(できる)「ムスビ」の読み取りはここまでとし、次節以降は、じっさいに見てきた「ムスビ」の実例を手がかりに、エンパシーやアナキズムと「ムスビ」の関係ついて考えていきたい。




E.ムスビをつないでバラバラに生きろ

エンパシーとアナキズムとは

「エンパシー」という概念は日本語だと「共感」という訳語があてられることが多い。しかし「シンパシー」もまた「共感」と訳される。
違いを明確にしておくため、ブレイディみかこ『他者の靴を履く アナ―キック・エンパシーのすすめ』を参照する。

 つまり、エンパシーのほうは能力だから身につけるものであり、シンパシーは感情とか行為とか友情とか理解とか、どちらかといえば人から出て来るもの、または内側から湧いてくるものだということになる。
 […]つまり、シンパシーはかわいそうだと思う相手や共鳴する相手に対する心の動きや理解やそれに基づく行動であり、エンパシーは別にかわいそうだとも思わない相手や必ずしも同じ意見や考えを持っていない相手に対して、その人の立場だったら自分はどうだろうと想像してみる知的作業だと言える。

ブレイディみかこ『他者の靴を履く』

 とはいえ、『すずめの戸締まり』を読み解く試みにおいてエンパシーという概念を持ちだすことに、唐突な感じを覚える向きもあるかもしれない。
 しかし『くらしのアナキズム』などで、

行政機能が麻痺し、消防も警察も、コンビニもたよれないとき、どうしたらいいのか。たよりになるのは、隣にいるふつうの人だった。不足の事態を打開する鍵は、大きな組織ではなく、小さなつながりにある

松村圭一郎『くらしのアナキズム』

と指摘されているのをみれば、また、ここまで「ムスビ」の具体例にあたってきたのだから、「ムスビ」と「エンパシー」(さらに「アナキズム」)といった補助線を導入していくことは、的外れだとは思わない。

 では、『すずめの戸締まり』がエンパシーの映画の側面を持つことを、Dで検討してきた「ムスビ」の具体例から考えていく。

ムスビとエンパシー

 個人的に、衣裳の観点から、すでにエンパシーの気配は濃厚に感じられる。ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』で「エンパシー」は「自分で誰かの靴を履いてみること」「他者の靴を履くこと」などの説明がされる。
 『すずめの戸締まり』から、もう一度引用しておく。

靴を借りるね、草太さん」
 そう呟いて、私は玄関にあった草太さんの黒いワークブーツに足を入れた。ぶかぶかだったけれど、私は靴紐を強く引っぱって、足に縛り付けるようにしてその大きな靴を履いた。

新海誠『小説 すずめの戸締まり』

 この部分だけをもってエンパシーを主張するわけではないが、ずいぶん象徴的なシーンに思える。
 新海作品で靴といえば、『言の葉の庭』を想起させる。主人公の秋月孝雄は靴職人を目指しているのだった。最終的に孝雄がつくった靴は「歩く練習」をしていたのだという雪野に手渡される。靴という小道具が、遠く離れて生活していくことになる孝雄と雪野を「ムスビ」つけるものになったのは間違いない。
 さらに『言の葉の庭』を鑑賞ずみの新海フォロワーであれば、『すずめの戸締まり』での印象的な靴の描かれ方から『言の葉の庭』を思い出す状況は容易に想像できる。(現に私はそうだった)
 こうした点も、先ほど確認した、新海が自身の作品を意識的・無意識的にせよ、自作を参照していく場合があることの証左になる。そしてこうした演出は、観客が『すずめの戸締まり』と『言の葉の庭』を「ムスビ」つけて解釈していくことの契機となるだろう。

 衣裳の項で取りあげた他の「ムスビ」についても、

「……鈴芽は魔法使いじゃけんのう、秘密ばっかじゃ」
 冗談めかしてそう言って、千果はまた仰向けに寝転ぶ。目をつむり、優しい口元で言う。
「でもなぜじゃろか――あんたはなんか、大事なことをしとるいうな気がするよ」

同上

ルミさんもミキさんも――それから千果も、誰かのおかしさなんかにはぜんぜん頓着しないようなおおらかさがあった。他人には自分とは違う世界が在ることを、しっかりと知っていた

同上

といった記述がある。
 ここで注目すべきなのは、鈴芽が旅先で出会う女性たちが鈴芽の行動の背景を何も知らないということだ。
 エンパシーが、「別にかわいそうだとも思わない相手や必ずしも同じ意見や考えを持っていない相手に対して」発動しうるということを確認すれば、旅先で衣裳をもらい受けるという形でつながれた「ムスビ」は、エンパシーの発露であったと見なすことができる。

 しかし「ムスビ」がいつも都合がいいものでないように、「エンパシー」もまた、時に危険性を持つ。
『他者の靴を履く』第10章でも、ニーチェを引きながら過剰なエンパシーが、他者に寄りそうあまり自己の喪失に向かわせる可能性を指摘する。

自己を相手に譲り渡していなければ、自らの身体や生命を脅かす状況になる兆しを感じ取ったらまず逃げるはずなのである。第三者から見ていると、どうして逃げないのかというようなDV被害者と加害者の関係や、一般に共依存と呼ばれる関係にも、闇落ちしたエンパシーの影がちらつきはしないだろうか。

ブレイディみかこ『他者の靴を履く』

 まず、環と鈴芽の関係について考えてみる。環は鈴芽を、母親を亡くした子どもなのだから、と気づかいながら育ててきた。時にそれは「重い」と思われるほど過剰になることもあったろう。しかし鈴芽もまた、環は本当の――生みの母親ではないのだから、と正直な感情を伝えることを怠った。
 ふたりとも相手を気遣うことを言い訳に、自己を、自分の主体性を犠牲にしている。こうしたふたりの共犯、共依存の関係が崩壊し、新たな関係が築いていく過程が描かれたことはすでに確認したとおりだ。

さらにアナキズム

 エンパシーがもたらす自己の喪失――自己犠牲という点では、一時的に要石となった草太、そして『天気の子』の陽菜を見ていきたい。

 だが、その前に「エンパシー」に加えて「アナキズム」について考えておく必要がある。『くらしのアナキズム』では、

政治と暮らしが連続線上にあることを自覚する。政治を政治家まかせにしてもなにも変わらない。政治をぼくらの手の届かないものにしてしまった固定的な境界を揺さぶり、越境し、自分たちの日々の生活が政治そのものであると意識する。生活者が政治を暮らしのなかでみずからやること。

松村圭一郎『くらしのアナキズム』

として「政治を暮らしに取りもどす」必要性が強調される。
 つまり現代的なアナキズムとは、無政府主義などと訳される大仰なものではなく、

でも、ここまで国の存在があたりまえになった時代のアナキズムは、国家に囲まれた自分たちの生について立ち止まって考えてみる、ひとつの態度のようなものだ

同上

「アナーキー」は暴力や無法状態と結びつけて考えられやすい。しかし、その本来の定義は、自由な個人たちが自由に協働し、常に現状を疑い、より良い状況に変える道を共に探していくことだ。

ブレイディみかこ『他者の靴を履く』

といった穏やかな意味であり、世界への、社会へのささやかな抵抗や、そのための連帯だとも言える。『天気の子』とアナキズムの関係に触れた記事はいくつか存在しているが、無政府主義的な意味に近い過激なアナキズムを想定している場合が多い。しかし災害というテーマに寄りそう限り、より穏やかなアナキズムを想定する方がまっとうに思える。

 『くらしのアナキズム』、『他者の靴を履く』、『災害ユートピア』などの関連文献で共通して指摘されるのは、災害などの特殊な状態において(こそ)アナキズムやエンパシーの実践ともとれる共同体が立ち上がってくることだ。災害という例外状態においては、日本でも国家が社会をすみずみまで均質に覆っているわけではないことが可視化されてしまう。そうした、みなが平等に生命の危機にある状況で、自分でも目の前のひとりを救いうるという事実を前にエンパシーは喚起され、ふだん意識されないもっと小さな単位でのつながりが発生する。

 新海は『君の名は。』以降、彗星・雨・地震――災害をあつかっている。     
 まず、『天気の子』でいかに雨が解決されたか。
 止まない雨という災害を前に行政は無力であった。陽菜の贄をもってして解決したかのように見える雨。そして、その解決に対する反発・抵抗が帆高の決断だった――しかしそれは、ほとんどテロ行為に終わった。
 では、『すずめの戸締まり』はどうだったのか。
 鈴芽が草太を要石として東京で地震を防いだシーンは、『天気の子』とは対照的だ。とくに、空から帆高と陽菜が東京上空を落下する場面と、鈴芽がひとりで落ちるシーンは対になっているとさえ思える。
 『天気の子』では、帆高は「大人」に取りあげられた「政治」、陽菜に押しつけられた「政治」――天気に限っても戦時下は軍事機密であったのだし、災害は雨乞い、地鎮祭など、祭事と関係が深い、そして古来、祭事は政治とセットだ――を取りかえす方法としてテロを選択した、せざるをえなかった。対する『すずめの戸締まり』は、鈴芽が草太を犠牲とする形で地震を防いだことに対してとった反抗が草太の閉じ師としての仕事を手伝うことだった。それは災害を防ぐという、いわゆる「裏天皇」による「政治」を、鈴芽なる一般人も取りもち、協働することだ。(「裏天皇」とは、新海がティーチインで言及したとされる言葉だ。閉じ師の役回りを端的に表している。また、東京の後ろ戸が皇居の地下にあることが小説版では明示的に、映画では暗示的に示されている)

 あらゆるテロリズムは、たとえ思想的に共鳴できるものがあったとしても、基本的に無関係な人びとを巻きこむ点において悪であるが、テロリズムを生んでしまう社会にもまた責任の一端がある。とはいえ、「政治」を取りかえすのに、最近ではもはやありふれているとさえ言えるテロリズム的な発想で止まってしまった(ざるをえなかった)『天気の子』に比べて、さらにその先、「ムスビ」というテーマを発展させる形でアナキズムやエンパシーという側面があらわれた解決が見出されたように見えることを、私は評価したい。
 『君の名は。』や『天気の子』における過去の書き換え・テロ的なものといった解決に、ある種の救いを感じた人がいることはフィクションの中に留まらざるをえないものであった。対して『すずめの戸締まり』では、実践可能な、地に足ついた形で示された点は、過去作からの思想的な乗りこえがみられるように思える。

アナキズムとセカイ系の接近

 アナキズムの点からもうすこし論を進めてみたい。
 しばしば新海作品は「セカイ系」と呼ばれるカテゴリに分類される。そして、セカイ系に分類される作品群は、私と世界の間に存在するはずの社会への想像力が欠如しているものとして分析・批判されることが多い。
 『天気の子』が公開された当時も、帆高の選択にセカイ系的な精神性を見た観客は多かった。杉田俊介は『天気の子』の世界観について、著書『ジャパニメーションの成熟と喪失 宮崎駿とその子どもたち』で以下のように批判する。

「君とぼく」の個人的な恋愛関係とセカイ全体の破局だけがあり、それらを媒介するための「社会」という公共的な領域が存在しない――というのは、まさに「社会(福祉国家)は存在しない」をスローガンとする新自由主義的な世界観そのものだろう。
[…]
『天気の子』では、児童相談所や警察などの公共的なもの(社会養護的なもの)が、ほとんど理不尽なまでに嫌悪されている。
[…]
 国家にも社会にも一切期待しようとしない新海誠のセカイ系的な想像力――信じうるのは恋愛とムスピ的なものだけだ――は、「社会」を完全に排除するという意味で、案外ネオリベ的なものと近いのではないか。

杉田俊介『ジャパニメーションの成熟と喪失』

 一方で新海じしんは、インタビューにおいて『天気の子』をセカイ系とする見方に懐疑的だ。

セカイ系の定義にもよりますが、『天気の子』はそもそも社会がないと成立しない物語ですから、典型的なセカイ系とは少し違うのではないかと思います。『君の名は。』に関しても、地方の町に住む人びとの話でもありますから、社会を抜いたセカイ系の定義にはさほど当てはまらないのではないでしょうか。

榎本正樹『新海誠の世界』

 『天気の子』をセカイ系と受けとった観客と、必ずしもセカイ系ではないとする新海との乖離を、私たちはどう受けとめればいいのか。
 また新海は、『君の名は。』以降の作品においても、散見されるセカイ系的なモチーフを利用して、ネオリベ的な発想と想像力をフィルムに叩きつけていたのだろうか。

 これらの問いの答えと根拠もまた、『すずめの戸締まり』、そしてアナキズムの中にある。再度『他者の靴を履く』を引き、ネオリベラルとアナキズムの関係を捉えなおす。

アナキズムとネオリベラル(新自由主義)が紙一重扱いにされるのは、国家の力を削ぎ、国家が持っているものをできる限り民が運営していきたい(アナキストたちはこれを自治と呼び、ネオリベラルは民営化と呼ぶ)という、経済に対する考え方の方向性が一見すると同じに聞こえるからである

ブレイディみかこ『他者の靴を履く』

 私なりに言い換えると――たしかに目的だけに注目するとネオリベラルとアナキズムは一致してしまうように見える。しかし両者の間には、結果を、トップダウンで押し付けるか、ボトムアップに実現するかという違いが横たわっている――ということになる。

 災害という大きな出来事が起きると、国家といった社会は一時的に無化されてしまう。つまり、被災者たる私と世界との間にあるべき社会はもはや当てにできない、セカイ系的な非常時が現出する。そうしたアナーキーな状況下で、ふだんは国家といった大きなつながりが隠してしまっていた小さなつながりが見えてくる。すると、エンパシーは強烈に喚起される――目の前で困っているあの人は、私であったかもしれない。
 そして、「目の前で困っているあの人」をエンパシーのちからでもって、「三葉」に「陽菜」に「草太」に、書き換えてしまえたならば――それは本当に、今までさんざん揶揄的に使われてきた「セカイ系」に、当てはまるだろうか。ここにエンパシーとアナキズムと、セカイ系がひとつの合流をみられるのではないか。
 したがって、アナーキーにならざるをえない状況、アナーキーな前提を下敷きにエンパシーから湧き出てくるセカイ系的な想像力、それは、元来のネオリベ的なセカイ系とは似て非なる、アナーキック・セカイ系とでも呼ぶべきだ。

 ブレイディみかこはエンパシーを闇落ちさせないためには、アナーキーという軸をぶち込むことが肝心要になるとした。
 同様に、セカイ系を、単に社会が抜け落ちてしまった幼稚な妄想、社会は存在しない的な意味でのネオリベ的発想から昇華させるには、アナーキーという軸をぶち込んでやる必要がある。
 もし、市井の人びとがみな、「社会・国家に頼らずとも、私は世界を変えうる」というアナーキーな、セカイ系的な想像力を持ったとしたら、それは本当に世界を変えうる運動になる。国家なんて目ではない。
 だが、一方で、私たちが世界を変えうるという事実は、ふだん意識されない。例外状態でも世界を救うことを意図して、目の前の人に手を差し伸べるわけではない。
 新海作品の中においても、それは同様だ。
 瀧を、帆高を、鈴芽を手助けした人びとは、困難にぶつかる彼・彼女を目の前にして、エンパシーにもとづき、行動した。世界を変えようとして、手を差し出したのではない。しかし結果として、その行動は知らぬ間に、彗星の被害を抑え、東京を雨に沈め、地震を食い止めてみせる。
 知らぬ間、というのが肝要だ。
 アナーキーなセカイ系的想像力を持つことは、世界を変革していくうえでトリガーになりうる。とはいうものの、いちいち行動を起こす前に、世界を変えるなどと大上段に構えていたのでは、足がすくむ。身体もかたくなる。そんなふうに、縮こまっていては、ムスビはつなげられない。
 ムスビには勢いが必要だ。
 走り出さなければならない。
 三葉が瀧へ、帆高が陽菜に、鈴芽が草太へ、逢いにむかったときそうしたように。
 私たちは世界を変えようと、変えられると、どこまでもつよく信じられるのと同時に、世界のことなんてすっかり意識せず、あの人に逢いにいける。
 世界を変えるちからを深くふかく信じること。それをすっぱり忘れて、窮地のひとに手を差し伸べること。
 矛盾するようでいて、これらが実は、両輪だ。
 自立した生き方を掲げつつ、軽やかに他者とムスビをつなげていくこと。
 小さな運動に見えて、それは世界を変えることそのものである。

 そして、『すずめの戸締まり』からセカイ系的な想像力をアナーキーな理念にもとづいて使っていくさまを読み取ったのならば、私たちは、『君の名は。』や『天気の子』、さらには『言の葉の庭』以前の新海作品も、読み替えていく必要があるのはないだろうか。

余談:『すずめの戸締まり』と新型コロナウイルス

 そして、災害について考えるならば、さらに踏みこんでコロナ禍についても考えたいと思う。『他者の靴を履く』、『くらしのアナキズム』なども、新型コロナウイルス流行後に出版された書籍であり、どちらもコロナを災害として捉え、コロナ禍におけるアナキズムの実践に触れている。『すずめの戸締まり』の映画の中では、コロナを描くことはしなかった(劇場特典は今回は無視する)。しかし、新幹線に乗車するさいマスクをする鈴芽の姿に、コロナを驚きとともに想起したのは、私だけではないと思う。
 だが、『すずめの戸締まり』のどこにコロナとの関連を見出すのかと言えば、それは鈴芽と草太が希望する職業である。それぞれ看護師、教師ということだったが、どちらもコロナ禍で脚光を浴びた言葉である「キーワーカー」や「エッセンシャルワーカー」と呼ばれる職業だ。
 なお、「ブルシット・ジョブ」とは、デヴィット・グレーバーが著書『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』で提唱した、無くなっても世の中の誰も困らない仕事のことだ。彼の説では、オフィスで働くようないわゆるホワイトカラーの仕事ほとんどがこれにあたる。

ウイルス感染の危機に晒されながら淡々と患者の世話を続ける看護師、自主隔離する同僚が出て来て人員がギリギリになってもキー・ワーカーたちの子どもを笑顔で迎える保育士など、どういう仕事が「ブルシット・ジョブ」ではないのかということをコロナ危機はあからさまに炙り出した

ブレイディみかこ『他者の靴を履く』

 『すずめの戸締まり』が東日本大震災を扱った映画であることは、誰の目にも明らかだが、新型コロナウイルスの流行にも指先をかけていることを確認できる。
 しかし、新型コロナウイルスが現在進行形の災害であることなどから、この点には深く立ち入らない。マスクの着用も厳格ではなくなった。先述した『すずめの戸締まり』で私が感じた驚きも、急速に古びていくのかもしれない。
 ただし、新海映画における十代の職業や家業といったテーマは、それこそ『ほしのこえ』の国連宇宙軍にはじまり、靴職人、巫女、閉じ師などにいたるところで見ることができるので、次回作以降で、コロナ禍とも関連してなんらかの掘り下げがあるかもしれないし、ないかもしれない。

まとめ

 本稿ではまず、『君の名は。』で登場した「ムスビ」という概念が神道に由来し、それを拡張したものであることを確認した。端的に言ってしまえば「何かと何かをつなぐこと」と言える。
 次に、「ムスビ」が『天気の子』や『すずめの戸締まり』の読解にも利用できるのではないか、として食事など具体的な演出からいくつか例を示した。劇中、直接「ムスビ」について言及されるわけではないが、見え隠れする「ムスビ」から、読解の可能性を説得的に示せたのではないかと思う。
 最終的に、『君の名は。』以降、一貫して扱われた災害のテーマと関連して、エンパシーやアナキズム、またその両者に関する議論を援用した。これは「ムスビ」と災害という特殊な状況との関係を考えることだった。そして、並行する形でセカイ系と新海誠の距離感を考えることになった。
 セカイ系は、社会への想像力が欠如した無邪気で幼稚な妄想、社会の存在を無視するネオリベ的な発想から脱し、アナキズムという軸が通されたとき、私たち一人ひとりこそが世界を書き換えていけるという理念・理想に達することができるはずだ。そして『すずめの戸締まり』には、セカイ系を読み替えていく可能性が秘められているのではないか――というのが、本稿のおおまかな流れだった。
 ただ、本稿には問題も残っている。今回、私が考えたのは、自然がもたらす災害というわりあい限定された例外状態だ。これが、たとえば戦争だったとしたら、隣の誰かと殺しあわなければならない状況であったとしたら――私たちはそれでも手を差し伸べれられるのか。自分以外の命を決断しないといけないシチュエーションでも、はたして本稿で私が考えてきた「ムスビ」やアナキズム、セカイ系の議論が有効かどうかは、慎重に考えなくてはならないと思う。
 また本稿の、とくにアナキズムを導入して以降の議論が、ひじょうに成熟した人格を持つ人間を前提としてしまっている感はぬぐえない。世界には色いろな人がいる。必ずしもすべての人がみなで手を取り合って生きることを望むわけでもないだろう。「ムスビ」が、いつでもどこで有効なわけはない。こうした点は本稿の持つ明らかな弱点である。
 以上を踏まえて、私の『すずめの戸締まり』に対する評価をまとめると、『君の名は。』以降の災害との向き合い方というテーマは、『君の名は。』からのモチーフやセカイ系から出発した思想が地続きに発展しており、地に足の着いた形で一定の答えが出ている。ただし、3.11ないし自然災害にとくべつ向き合ったために、戦争やテロを含む、災害に対するより普遍的な射程は失われているかもしれない――ということになる。

 自分なりに時間をかけ、ちからを入れた本稿だが、議論が稚拙な部分もあるに違いない。何らかの議論のたたき台になれればうれしい。
 『すずめの戸締まり』、私はとても好きで、勇気をもらった映画だ。『君の名は。』のときそうであったように、『すずめの戸締まり』についても、今後ずっと考えていくことになるのだと思う。
 最後に、本稿に目を通して、的確な助言をくれたO先輩に感謝。

参考・引用文献

  • 新海誠『言の葉の庭』東宝

  • 新海誠『君の名は。』東宝

  • 新海誠『天気の子』東宝

  • 新海誠『すずめの戸締まり』

  • 新海誠『小説 言の葉の庭』(角川文庫文庫) KADOKAWA

  • 新海誠『小説 君の名は。』(同上)

  • 新海誠『小説 天気の子』(同上)

  • 新海誠『小説 すずめの戸締まり』(同上)

  • 『君の名は。』劇場パンフレット

  • 『天気の子』劇場パンフレット

  • 『すずめの戸締まり』劇場パンフレット

  • 『新海誠本』劇場配布特典

  • 『新海誠本2』劇場配布特典

  • 藤田直哉(2022)『新海誠論』 作品社

  • 土井伸彰(2022)『新海誠 国民的アニメ作家の誕生』(集英社新書) 集英社

  • 榎本正樹(2021)『新海誠の世界 時空を超えて響きあう魂のゆくえ』 KADOKAWA

  • 赤坂憲雄(2019)『ナウシカ考 風の谷の黙示録』 岩波書店

  • 石岡良治(2016)「新海誠の結節点/転回点としての『君の名は。』」『ユリイカ』(特集=新海誠) 青土社 48(13): 108-118

  • 中田健太郎(2016)「横切っていくものをめぐって」『ユリイカ』(特集=新海誠)  青土社 48(13):131-138

  • スコット,ジェームズ・C. (清水展など訳) (2017)『実践日々のアナキズム――世界に抗う土着の秩序の作り方』 岩波書店

  • 松村圭一郎(2021)『くらしのアナキズム』 ミシマ社

  • 栗原康(2018)『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ』(岩波新書) 岩波書店

  • ブレイディみかこ(2021)『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』文藝春秋

  • 杉田俊介(2021)『ジャパニメーションの成熟と消失 宮崎駿とその子どもたち』大月書店

  • 木下佳人(2021)「神と食べる、神と働く――『千と千尋の神隠し』から考える「神と人間の関係性について」」『アレ』(特集=「わかる、わかる?」 ――「伝」にまつわるエトセトラ) アレ★Club 9:92-120

  • 柴那典など(2022)「「セカイ系文化論」は可能か?――音楽・映像の交点からたどり直す20年史」 『ferne』(同人誌) 北出栞 19-44

  • グレーバー,デヴィット(2020)『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店

  • 笠井潔(2020)「喪失と回復」『例外状態の道化師ジョーカー ポスト 3・11文化論』南雲堂 145-159

  • 千田洋幸(2018)「身体からの逃亡」『危機と表象 ポップカルチャーが災厄に遭遇するとき』 おうふう 100-108




被災者と非被災者のはざまで ムスビに代えて

 こんな体験は初めてだ。リアルであり同時にフィクションでもあり、それらが相克する境界にぼくという実存がかろうじて潰されずに立っている、そんな状態。ぼくという存在そのものが、そのリアルとフィクションの境界になっている、ぼくはある種、それらをかろうじて支えている薄い膜のような気がする。それが破れたら世界そのものが、どちらかの侵襲を受けるのではないか、津波のように、そんな気がする。

神林長平「いま集合的無意識を、」

 ここまで読み進めてもらっておきながら、まだ続けるのか、という感じだが、最後のおまけに自分のことを少し話させてほしい。といっても、ぜんぜん難しい話ではなく、私の祖父母宅が東北にあるというだけのことだ。
 幸運なことに、津波の被害を受けた地域には住んでいなかった。地震の被害は少なからず受けたものの、命も家も失わずにすんだのも僥倖だった。

 震災のとき僕は小学生で、関東に住んでいた。下に潜りこみ、足を押えているのに、机がずるずると動く地震を初めて知った。テレビでえんえん流れ続ける津波の映像、ACのCM、帰宅困難になった父を車で迎えにいった帰りの異様な渋滞を、よく覚えている。父が職場の電話から祖父母の安否を確認してくれていたことは、後から聞いた。

 2011年と翌年、両親は帰省のついでの家族旅行で、僕を宮城と岩手に連れていった。それが、東北観光が復興支援になるからだったのか、僕に「何か」を見せておきたかったからなのか、それとも福島へ帰省した本当についでだったのか、僕は知らない。両親に確かめる気もない。
 ただ、そこで見た――いや、見たというのはおこがましい。僕はそのときのことをほとんど覚えていない。ひろがる更地と、点在するがれきの山と、「きれい」な海をぼんやり思い出せるだけだ。
 でも、ガラス張りの落ち着いた外装と、親切で詳しいパネル展示が好きだった水族館――アクアマリン福島の、ガラスというガラスが割れた無残な姿は覚えている。

こういう山がそこかしこにあった

 関東に帰れば、世間では、にわかに「絆」という言葉が流行っていて、学校では「花は咲く」を歌わされた。先生は東北に行ったことがなかった。

 そのうち、また福島に帰省すると、祖父母の家の近くに仮設住宅ができていた。原発周辺の、ある町の人たちが越してきたらしい。
 僕が高校2年のとき、趣味の登山のために友人を福島に呼んだ。「あれは仮設だ」プレハブみたいに簡素な建物を指して、祖父は言った。地元の人は仮設住宅のことを仮設と略す。友人が「何の?」と訊いたことが、僕には忘れられない。仮設は、僕にとって、当たり前に残る震災の爪痕だった。
 仮設ができたのとほとんど時期を同じくして、近所の空き地に汚染土が大量に運びこまれた。白地に青のラインが入った袋は、福島に来るたびに増えていく。不気味だった。しばらく経つと、祖父母宅にも除染作業員が来て、畑や裏山の土壌の表層を除いていった。あの土がどこに行ったのか、僕は知らない。少なくとも、目の前の空き地ではない。

 あるときから福島では、天気予報と一緒にその日の放射線量が毎朝テレビで流れるようになった。今も流れている。春の楽しみだった裏山でタケノコ堀りは禁止された。多くの人が放射線計測機を持つようになった。学校にはスクールバスが導入され、体育は屋内で実施される。子どもが屋外へ出る時間を減らすための対策だった。僕はそういうことを帰省のたびに、一緒にFPSで遊んでくれる一つ下のはとこから聞いた。

 震災以降、放射線を理由に福島の農作物は色いろと制限が加えられた。近くに住む曾祖父は定年後もほそぼそと農業を営んでいたが、畑と田んぼに出ることを控えざるをえなかった。いつも畑で出迎えてくれた曾祖父は、病気がちになり、震災の3年後に死んだ。老衰だった。曾祖父の死は震災の死者に含まれていない。働き者で、家族のために汗水たらすことをいとわなかった曾祖父から、あの地震と事故が奪ったのは、きっと仕事だけではなかったはずだ。

 僕は被災者ではない。地震のとき関東にいて、地震で直接失った親族もいない。津波はテレビで見ただけだ。でも、それでも――と、いつもここで語る言葉を見失ってしまう。たぶんそれは、これからもきっとそうだ。この、どうにもならない何かを、うまく折りあえなくても、捨てたくはない。僕は今、そう思っている。
 この文章が、絶えずつづく僕の戸締まりの、一里塚だ。

2012-08-23


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