見出し画像

琳派と印象派展に行ってきた

 展覧会に行くといつも考える事がある。「この人はなんでこの絵を描こうと思ったんだろう?」と。

 例えば草間弥生は幻覚から逃れたくて、自分の外にある社会と繋がりたくて、あの水玉に言葉を託した。それがあまりに強烈で、そんなやり方は誰もやった事がなかったから唯一無二の個性となった。でも圧倒的なのにその孤独さは誰もが知っているもので、共感を呼び起こすのが弥生ちゃんのスゴい所。

画像1

 

 一方現代アートは、自己表現より社会や世の中の不合理に対する主張が創作の動機となるものが多い。だからトゲがある。そもそも現代アートは文脈が命だから、逆さまに置かれた便器とか、作品を見ただけでは何が言いたいか訳が分かるワケがない。

画像2

※マルセルデュシャン/泉

 

 少し昔に遡ると、基本的に絵画には注文主がいて、歴史に自らの偉大さを記したかったり、人々を圧倒したり、あるいは自分の生活を彩る趣味嗜好のために絵を発注した。もっと遡ると、人類の物語を伝える手段として絵は描かれた。

画像5

※ナポレオン一世の戴冠式(ルーブル美術館 蔵)


画家が注文主から解放された

 だけど近代のある日、画家達はこう思ったんだと思う。「自分のために描こう」と。自分が探している「美しさ」を絵を通して見つけようと。

 

 前置きが長くなったけれど、先週末行ってきた「琳派と印象派展(アーティゾン美術館)」は、個が初めて尊重された17~18世紀の都市文化の黎明期に、画家一人ひとりが探し求めた「自分は何を描くのか。何を探しているのか?」という美しさへの答えが、同じ時代を生きた東西の巨匠を比較することで浮き上がらせた面白い企画展だった。

 

 まず目玉は何と言っても尾形光琳。いやはや尾形光琳、やっぱり好きです、ハイ笑

画像3

※尾形光琳/竹虎図(京都国立博物館 蔵)

 彼は注文主のオーダーに応えながらも、森羅万象の見逃せない一瞬を見つけられちゃう人だよね。この虎(通称、トラりん)とかたまらんやん。尾形光琳が描く動物や人間の表情、フォルムはダントツで愛おしい。人間味があって感情がある。一方で彼が描く自然は、強く品がある。そして不思議とその筆遣いには油絵のようなタッチを感じる。色の組み合わせ方も。当時はそれが相当斬新だったと思う。


 「瞬間」の緊張を表現した人と言えば、西洋のドガ。正直、彫刻の魅力は私にはまだ分からないのだけれど、ドガの彫刻だけは呼吸を感じる。筋肉の一瞬の緊張。引っ張られるような、作品の周りの空気だけピンとしているような。

画像4

※エドガー・ドガ/右足で立ち、右手を地面にのばしたアラベスク(企画展実写)


 そして今までルノワールって少女趣味で好きじゃなかったけど、息子が生まれてから思う。あんな風に息子を描いてもらったら...もうッ...感極まってしまうッ...!!!(尊敬の意を込めて言うのだけど、ルノワールってロリコンだよね)

画像7

 

 外せないのがセザンヌ。やっぱりセザンヌ、好きです。彼の画の質感が好きなんだよねえ。セザンヌは黒、茶色、灰色をものすごく上手に使う人。この色を主役としてこんなに温かく見せられる人って他にいない。

画像6

※ポール・セザンヌ/帽子をかぶった自画像


美学を解剖していくと、面白い。

 日本とヨーロッパの名作が出そろっていて感想は書ききれないのだけど、この企画展のミソは「各自が探求した”美”に、東西それぞれの文化や歴史がどう影響を与えたか」その違いを目に見えるようにした点だと思う。

 たとえば人物一つとっても、日本は鑑賞者を直視しない。こちらが覗いているような、あるいはそっぽを向かれているような絵が多い。そして日本人は徹底的に余白を愛する。見えないこと、みなまで語らないことに美学がある。

 一方の西洋は、とにかく光を愛した。どうにか光を掴もうと、その姿を描こうとした。一瞬として同じ表情のない光を色鮮やかに描くことで、何百年経った今も見る人の心に感情を呼び起こす風景になっている。

 そんなこんなで、作品の美しさだけでなく、彼らがどんな時代をどう生きたのか、巨匠という遠い存在ではなく一人の人間としての彼らに想いを馳せられるよき企画展でした!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?