見出し画像

抽象度と具体性。聞いてすぐ理解できる話は「わかった!」という獲得の快感が走って惑わされやすいけど…

私が悩んでいた時って、こうだったなという話なんですが。

目下気になる悩みがあるときってその事柄に対する具体性ばかりが高くて、認識の範囲がとても狭かったです。
つまり視野が狭いってことなんだけど、視野が狭いばかりか視座も低いんですよね。
ていうか、視座なんて観点からものごとを考えたこともなかったです。

そこでこんな図を作ってみたのですが。

すり鉢状のプロセス

やっぱ悩んでる時って聞いて今すぐその不快感を解消してくれるものを欲するんですよね。
とにかくこの気持ちをどうにかしたい!ということばかりに気が向く。
そしてその解消をするために色んな本読んだりするのだけれども。

振り返って思うことは、読んですぐ「わかった!」「こうすればいいんだ!」と思うようなものにはあまり効果がなかったです。(全くないってことでもないけど)

悩んでる時点での認識の範囲のことって、その範囲しか知らないからその外の世界を理解できないのだけれど、その範囲内で理解できることがあったときならではの「理解できた!」という、一時的に「助かった」みたいな快感は走るのですよね。

それだってたとえ一時的だとしても気持ちが楽になることはあるからそれはそれで意味があったと思うけど、じゃあ根本的な何かに繋がったかと言われたら答えはNOでした。

「わかった!」という理解が起きるときって、何か本を読んだとして自分の解釈が起きた時に脳内に参照して合致するものがあるはずなんです。
例えば全く聞いたことのない外国語を聞いたときには自分の脳内に参照できるものがないためどんな理解も起こらないけど、英語だったらなんとなく理解できたりするのと同じことです。すでに少しは知ってる範囲のことだから。

悩みの解消という点においては知ってる範囲のことをわかっても意味はないんですよね、だってずっとそれで何も解決していないのだから。
今自分が知らないことの中に解決の糸口があるなんて、当時の私は考えも及ばなかったです。

すごく大切なことは「こんなことで悩んでる!」と不快感が湧き上がったときに、それをどうにかするのではなくて「どうしてそうなるのか?」(←ここが超重要)というメカニズムを知るということが大切だったんだなあと今は思います。

悩んでいるときに「わかった!」と思う時って同時に「助かった感」が起きます。これは本当に何かを解決したのではなくて一時的に自分が助かるためのなにがしかを獲得したという感覚が生じるからです。

なので、本当の安堵感などが訪れるわけではなく、報酬系のドーパミンの回路が活発になるため、一時的には気分が上向きになるのだな、と。
そのようにいっとき上向いてもやはりしばらくたつと同じようなループに戻っていく自分を何度も経験しました。

なのでこのメタ認知のカテゴリで書いていることやYouTubeカテゴリでしゃべっている内容などは、見る方によっては「何を言ってるのかわからない」みたいな感じであんまり面白いような内容ではないかもしれないけど、まだほんのほんの一部だけど抽象度を上げていくのにヒントになるようなことを自分の復習もかねてちょっとずつ上げていったりしています。

抽象度が上がれば上がるほど、物事と言うのは信じられないほどシンプルだしこんなゴチャゴチャ書かないでもいいって思うけど。
でもすっ飛ばして一番上の概念に触れるとそれはそれで危険なことになりやすいとも思います、色んな意味で。

どんな経路でも一番上の抽象度にいくことはあるんだけど、中間をすっ飛ばして頓悟してしまうと言葉足らず過ぎて人に説明するときに不必要に惑わせてしまったり、見識が狭すぎたりすると専門性は高くてもそれ以外を認めない独善的な態度や排他的になることもよくあることだと思うんですよね。

なので、私はプロセスというものはとても大事だと思っているクチです。
目の前の具体性の高い事柄から、言葉にしづらい高い抽象性を理解できるようになるまでは時間もかかるけど、一歩一歩進めてきたものは崩れたりしないですし、細くて垂直な経路ではなくすり鉢状で上がっていくといろいろな景色を見ることになるので独善性は持ちにくくなると考えるからです。

話は逸れているようで逸れていななく、これにて終わります☆

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?