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福沢諭吉「文明の家庭は親友の集合なり」から考える家庭のあり方

こんにちは
福沢の教育論から考えるシリーズ第2弾です。記事は前半は要約、後半は私が考えたことを徒然と書いてます。前半だけでも読んでいただけたら嬉しいです。今回紹介する「文明の家庭は親友の集合なり」は福沢の晩年に発行された『福翁百余話』に収められたエッセイです。福澤は子だくさんで4男5女に恵まれました。円熟味のある優しいおじいちゃんとしての福沢が感じられます。

・要約

 子どもを育てるにあたって、「父厳母慈」と言われる。父はなるべく厳しく接し、母はひたすらこどもに慈愛をもって接すれば、バランスが良くなるという意味だろう。しかし、人間社会が進歩すれば親子の接し方も変わらなければならない。「父厳母慈」主義は、男尊女卑の社会で生まれた悪い習慣で、文明の家庭で行われるべきではない。
 一家の全権が父にあり、母は子どもを産み、その身体的養育に関する責任だけを負うとされた時代には、父はあたかも独裁者で、子どもだけでなく妻に対しても無上の権力をふるい、子どもはただ父の命令に従うのみであった。
 しかし、文明の社会ではそうであってはならない。子どもに対して父母の権力は同一であり、いっさい軽重があってはならない。子どもに慈愛をもって接するのも、厳しく接するのも父母がともにそうすればよいのだ。子どもを養育するにあたって、優しさと厳しさの緩急をつけることは当然であるが、子どもを叱るにあたって他人行儀に厳重に叱るまではしなくてよい。父母の言行さえ、清く正しくし、醜いところがなければ、家庭はあたかも親友の集まりのようで、常に円満になるだろう。時には子どもが間違いを犯すこともあるだろうが、父母はその優しさの中にも自然と不愉快な感情が顔色に出てしまうものである。その顔色こそが最上の折檻(厳しく叱ること)であり、子どもに反省させるのにはそれで十分である。
 また、文明の教育を受けた母は、たとえ子どもを愛するにしても犬の子への愛のようにはならない。「人事の利害遠近を視る明」(人の行動の利害を俯瞰してを見る目かなあ?)があれば、子どもを諭す方法も筋道が立っており、その一言は厳しい父親が叱咤する大声に勝るだろう。
 「父厳母慈」の家庭は大昔のことであり、今は家の中に長幼の別はあるものの、他人行儀に尊卑の階級は無益であある。「共に語り共に笑い、共に勤め共に遊び、苦楽貧富を共にして、文明の天地に悠々たるべし」。

・考えたこと

① 父母の対等な関係の大切さ

 「父親は厳しくあるべき」という父親像は少なくとも「不適切にもほどがある」の時代でも当たり前だった価値観ですよね。平成、さらに令和になって大分変りましたが、その残滓はまだあると思います。福澤はそれを約120年前、父権主義が強かった明治時代に、男尊女卑の社会の悪い習慣だと批判している。その先進性に驚きます。もし福沢の女性論を詳しく学びたければ、慶應義塾福澤研究センター教授西澤直子さんの『福澤諭吉と女性』が参考になると思います。

 私が特に重要だと感じたのは「子どもに対して父母の権力が同一」であるべきだという主張です。父母の権力バランスが一方に偏っていることのデメリットを教師として感じます。
 まず1つ目は。権力のない方は子どものためではなく常に権力のある方の機嫌を損ねないように行動するようになってしまいます。そういった親の行動はすぐに子どもに伝わります。子どもは自分のために親が𠮟っているのではなく、親の保身のために叱っていると感じてしまうでしょう。その結果、親子関係が上手くいかなくなる場合もあります。例えば、父親が成績にめちゃくちゃ厳しくて、子どもの成績が悪いと母親を非難して、母親が父親からの非難を恐れて、子どもに過度に厳しく接してしまうような場合です。
 2つ目は相手を尊重しない態度や発言が与える子どもへの悪影響です。権力が一方に偏ると、権力を持っている方が相手の意見を尊重しません。そのような態度を見て、子どもも「自分より弱い」と感じた人に対して相手を尊重しない態度をとるようになってしまうでしょう。強い親の言うことだけは聞いて、弱い親の言うことは聞かないといった状況になりがちです。
 もちろん夫婦間だけでなく、親子間でも同様です。子どもの意見や言い分を全く尊重しない過度な厳しさによって、子どもは怖い人には従うようになります。ですが家庭外では「自分より弱い」と見なした人を傷つける言動をするようになってしまったりします。
夫婦の力のバランスとともに子どもも家庭の中の一個人として尊重することが子どもの社会性を育てるにあたっても大切ですね。

② 厳しくあることより重要なのは父母の言行

 前回の記事で紹介したように福沢は家庭教育における両親の言行の影響の重要性を述べています。福澤の言う通り厳しさと優しさの緩急は必要です。しかし、毎回厳しいと逆に子どもはそれに慣れてしまい言うことを聞かなくなります。出来る限り厳しさを出す前に、諭したり・怒っている態度を示すことで、子どもの反省を促せるのが理想です。それを出来るようにするためには普段からの子どもとの信頼関係と自分自身の言行が大切ですね。「何を言うかじゃなくて誰が言うか」ってよく言いますしね。

③ 叱るのではなく諭す

 時には叱ることも大切だが、然る段階の前に「諭す」ことが大切だ。私も先輩のベテラン教員から「大人が多少のことは我慢して諭して、子どもが自ら改心するのを待つのも大切だ」と教わった。叱る段階と諭す段階の使い分けが指導においては難しいのだが、「まずは諭す、次に叱る」という段階を自分の中に設けておくと、感情的にならず冷静に判断できると思う。どちらを行うにしても重要なのは感情的にならず、必ず道理を以て指導することと、指導する側の言行がしっかりしていることですね。


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