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高校日本史「学習プリント」⑥~大化の改新~

こんにちは色々あって投稿感覚が少し伸びてしまいました。今回は有名な大化の改新への流れです。昔勉強した大人は大分イメージが違うかもしれません。ぜひ学びなおしにもお役立てください!写真は飛鳥寺ふきんにある蘇我入鹿の首塚です。

フローシートの構成

 このフローシートでは推古朝の終わりから大化の改新への流れを扱っていきます。大化の改新は独裁的な権力を握る蘇我氏を天皇家の中大兄皇子らが倒したというストーリーで語られ、『日本書紀』の記述にもとづき、蘇我氏は悪者として描かれていました。しかし、近年はの中国統一に始まる東アジアの国際的な緊張関係の流れの中で蘇我氏への権力集中や大化の改新による天皇を中心とした中央集権化が語られるようになっています。このプリントでは、左に国内の動き、右に対外関係の軸をおくことで東アジア情勢とどのように連動して大化の改新が起きたのかを分かるように作りました。

解説

①蘇我蝦夷政権

 厩戸皇子(聖徳太子)は推古天皇より先になくなってしまったため、推古天皇の死後、その後継者として田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)の2人候補にあがりました。最終的に蘇我蝦夷(馬子の子)が推した田村皇子が即位し、舒明天皇となります。高校日本史の範囲を超えていますが、この時に山背大兄王を支持したのが同じ蘇我氏である蘇我境部摩理勢(馬子の弟)です。その後、摩理勢は蝦夷に反発し、逆に攻め滅ぼされてしまいます。舒明天皇の即位の段階で蘇我氏内部に対立が生じていました。知らなくてもいいのですが、知っておくとこの後の流れが理解しやすくなります。この時に初めて天皇が建立した百済大寺(後の大官大寺)が建立されています。文化史の面でたまにでてきますね。

蘇我入鹿の専横と東アジアの国際的緊張

 一方、この頃大陸では大きな大変動が起きていました。隋を滅ぼしたが2代目の太宗のもと勢力を伸ばし、628年に中国を統一し、律令制度の整備が進んでいきました。太宗の治世は貞観の治と呼ばれ、唐の最盛期と言われます。(太宗の言行録である『貞観政要』は帝王学の指南書として有名です。)対外的には630年に遊牧民の東突厥を服属させた後、朝鮮半島政策を活発化させていきました。これにより東アジアは国際的緊張が高まり、周辺諸国は中央集権の確立と国内統一の必要性が高まっていきました。朝鮮半島ではこの時期、百済の義慈王(ぎじおう)や高句麗の宰相泉蓋素(せんがいそぶん)による権力集中が図られています。
 国際的な緊張の中、倭で権力集中を進めていったのが、蝦夷の子の蘇我入鹿です。舒明天皇が死去した後、皇后であった皇極天皇が即位しました。その翌年、入鹿は自らへの権力集中を図るため、山背大兄王を滅ぼしてしまいます。蘇我氏系で舒明天皇の皇子である古人大兄王への皇位継承が狙いだったと考えられています。権力を集中させていった入鹿に対して不満がつのり、中大兄皇子中臣鎌足蘇我倉山田石川麻呂らの協力を得て、儀式の最中に皇極天皇の目の間で入鹿を暗殺してしまいました。この事件を乙巳の変といいます。中大兄皇子は舒明天皇の第2皇子(母は皇極天皇)で皇位継承においては古人大兄王に後れを取っていました。また、この実行メンバーに同じ蘇我氏である石川麻呂が加わっていることから、この事件の背景に皇位継承争いや蘇我氏の内部分裂があったことが分かると思います。

③ 大化改新

乙巳の変後、皇極天皇が退位し、軽皇子が即位し孝徳天皇となりました(中大兄はまだ当時20歳で当時の慣例では天皇になるのに若すぎた)。中大兄皇子は皇太子、左大臣に阿倍内麻呂・右大臣に蘇我倉山石川麻呂、内臣(天皇の顧問のような役割)に中臣鎌足、国博士に旻・高向玄理とする新政権が成立し、都も飛鳥から難波宮(難波長柄豊崎宮/大阪)に遷都しました。難波宮に遷都した理由は対外的な緊張関係に対応するためだと考えられております。この新政権の下、新たな政策方針として「改新の詔(天皇の命令を伝える文書)」が出されました。第1条では天皇の私有地・私有民である屯倉・子代と豪族の私有地・私有民である田荘・部曲(かきべ)を廃止し、公地公民制への移行を宣言し、全国に国郡里の行政組織を設置した。そして、班田収授法を定めて統一的な税制を定めることを目指した。こうした天皇家(大王家)を中心とした中央集権化を目指した諸改革を大化改新といいます。しかし、出土した木簡から、実際に設置されたのは「郡」ではなく「評(こおり)」であったことが分かっています。これはどういうことかというと、「改新の詔」は『日本書紀』に記載されているもので、646年に実際に出されたものそのままではなく、『日本書紀』の編纂の際に脚色されているのです。

中大兄皇子への権力集中

 改革が進む中で主導権を発揮したのは中大兄皇子で、蘇我氏の後ろ盾としていた古人大兄王、蘇我倉山田石川麻呂が謀反の罪をきせられて滅ぼし、自らに権力を集中させていきました。こうした中で中大兄は孝徳天皇と対立を深めていき、最終的に中大兄は群臣を率いて飛鳥へと移ってしまいました。その後、孝徳天皇は難波宮で寂しくなくなったそうです。
 孝徳天皇死後、中大兄の母の皇極天皇が重祚(再び即位すること)して斉明天皇が飛鳥で即位します。孝徳天皇の皇子である有馬皇子は蘇我赤兄に謀反の計画を密告されて処刑されました。これにより中大兄皇子の皇太子としての立場は盤石のものとなりました。
 斉明天皇は飛鳥で多くの土木工事を行うとともに、蝦夷の平定のため阿倍比羅夫を日本海沿岸の東北地方に派遣しました。この東北遠征は緊迫する朝鮮半島情勢に対応した、北方探検の意味合いもあったと考えられています。

百済の滅亡

 同じころ朝鮮半島では、660年、唐と新羅が結んで百済を滅ぼしました。百済の王族や貴族が日本に逃れ、倭に百済復興のための救援を要請しました。それに対して斉明は援軍の派遣を了承し、自ら九州へと行きますが、筑紫国の朝倉宮でなくなってしまいます。それを受けて、中大兄皇子が即位せずに政務を行う称制を開始し、朝鮮半島へと出兵しますが、663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗してしまいます。この対外的危機状況の中で中大兄皇子(天智天皇)は改革を進めていくことになりますが、そこから律令制度の成立までは次回のフローシートでまとめたいと思います。


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