【往復書簡】感染させるべきは愛。

上の壇珠さんの記事へのお返事です。

「なにかをやりたい!と思ったときに、人の目を気にして取り掛かることができない」という人がいますが、でもそういう人が一番憧れているのは逆説的に「人の目なんか気にしない人」です。そういうときに、そうして人の目を気にしながら、「安全に人の目を気にしない人になることはできないか」とどれほど模索しても、無駄だと思います。なんでって、もともと安全だから動ける人になど憧れていないからです。だから、たとえその方法が見つかったとしても、無用の長物です。

壇珠さんの文面から、静かなる「お死になさい」のエコーが聞こえてきます!!ありがとうございます!!死にます、俺、死にたいと思います!!死にたいと言う言葉には語弊がありますが「俺たち、死ぬぜ」ってことを肝に命じたいと思います!!こちら日本でも某ウイルスの活躍はめざましく、自宅待機が続いております。油断をしていると不安に感染しそうになるのですが、そんなときこそ「ちょっとまってベイベー。感染させるべきは、不安ではなく愛だろう?」というキザ男を我が身にインストールして、バラの一輪でもくわえながら愛を囁き続けたいと思います!!気分は花輪くんです!!

この「感染させるべきは愛だろう?」という花輪ボイスは効果的で、消極的になりかけていた自分を奮い立たせます。ハッ!となり、ああ、そうだそうだ、不安に感染「したくない」と思っている間は生活全般が及び腰になるけれど、愛を感染「させたい」と思っている間は、死ぬことさえも厭わないある種無敵の状態になれることを思い出します。その結果、もしも死ぬことがあったとしても、そいつの生涯は「愛に生きた」ことになります。愛に生きた人生は素晴らしい人生だと思います。我々は、死ぬことを恐れているようで、実は「愛せなくなること」を恐れているのだと思います。死ぬことが怖いと言うよりも、死んでしまったら愛せなくなってしまう。顔を見ることができなくなってしまう。触われなくなってしまう。そのことを恐れているのだと思います。ならば、先に愛してしまえばいいのです。愛して、愛して、ベロベロに愛しまくってから、「あばよ」とこの星を離れればいいのです。

なあに、殺しも浮気も最初がいちばん難しいって言うじゃねえか。なんでも同じだ、怖いのは最初だけなんだよ、ほら、いっちまえよ・・!と言いたいのです!!

かっこいいっす!!壇珠さんかっこいいっす!!実際その通りなのだと思います!!人間って、良くも悪くも慣れちゃう生き物だと思います。最初はあれだけ怖がっていたことも、慣れると途端に普通になる。生まれて初めての海外旅行は心臓が口から飛び出すほど緊張しましたが、慣れちゃえば「余裕♪余裕♪」とピーヒャラ口笛でも吹きたくなります。日本はトイレに紙が置いてありますが、海外ではバケツに水が入っているだけの場合も多く、都度都度「やれるか?」と問われます。こうした場合、最終的に「やるしかねえ」に着地をするもので、実践した結果「できた!」となった瞬間の爽快感は格別です。最悪、水さえあればどうにかなる。未開拓地に足を運ぶと、水さえもない場所もあり、そっと葉っぱを手渡されたりします。戸惑いながらも「この手があったか!」と、感動している自分がいます。最悪、葉っぱさえあればどうにかなる。こうして、自分の『最悪力』は磨きあげられます。

こう考えると、あらゆる経験は糧になりますよね。私は、ホームをレスした体験を通じて「蛇口をひねるとお湯が出ることは奇跡だ」「冷暖房のある部屋で眠れることは奇跡だ」「あたたかいおまんまを食べられることは奇跡だ」と、当たり前にいちいち感動するようになりました。幸せのハードルが一気に下がり、今夜眠る場所があり、明日食うに困らないだけの金があるならば、何も文句を言うことはない。そう思う人間になりました。無論、欲しいものは貪欲に求め続けていきたいとは思うのですが、その裏側では「これさえあれば、俺は大丈夫」と思う自分がいるのです。この『これさえ』の条件が、年々、薄くなっていることを感じています。昔は「貯金が100万あれば大丈夫」とか「複数の収入先を確保していれば大丈夫」みたいに思っていたのですが、最近では「生きても死んでも大丈夫」みたいに溶け出しています。生きても死んでも大丈夫。どう転んでも大丈夫。ロジックで説明しろと言われると難しいのですが、どう転んでも我々は大丈夫なのだと思います。

圭吾さんは、坂爪さんのようになりたいと言われると、むかっ腹が立つことがありませんか。わたしにはそんなことがあります。怒りの静かな炎が灯り、サウザーの赤い点がおでこに現れます。その人の意味するところの、あなたのように自由になりたいという感覚は素敵だとももちろん思うのですが、そして気持ちもわかるのですが、そこで「ウンウンわかるよぉ~」を優先したら自分と相手の魂に失礼です。なぜならその人の言うことなんか放っておいて魂のほうと話をすると、魂は「あ、どもども!この子いつもこんなこと言ってて、もうぜんっぜん俺の話聞かないんスよね。俺的にはここから逆転したいだけなんスけど、自分のことマジいっつもダメだダメだって言って小さくなってるんス。ただただ待ってやる俺ってほんっと神っスわ」と言っているからです。

この「自分と相手の魂に失礼」という感覚、めっちゃわかります!!うおおおおおおおおおおおおお!!燃えてきました!!イエス!!おおいなるイエス!!小生、偏見の塊なものですから、街行く人を「こいつはゾンビ」だとか「こいつは人間」だとか、上から目線でジャッジをしてしまうことがあります。坂爪調べによると、現在、日本国民の8割はゾンビです。ゾンビと言っても、生まれながらにゾンビだった訳ではありません。小さな頃は誰もがあどけない人間のこどもで、無垢に、無邪気に、鈴を鳴らすような笑い声をあげてケラケラその辺を走り回っていたはずです。ただ、年齢を重ねるごとに、人間のままであり続ける人間と、人間であることを諦めてゾンビになってしまう人間に、残酷なほどに分かれます。なぜか。私は、その原因を「自分が嫌だと思うものを、受け入れるかどうか」にあると思っています。ゾンビになっちゃう人々は、自分よりも他人の意見、しかも「自分が嫌だと思っている考え方」を受け入れてしまった結果、ゾンビになるのだと思います。

自分で自分を殺しておいて、なあにが「あなたみたいになりたいだ」と。この後に及んで、まだ他人の意見を求めるのかと。お前は、Aが右と言えば右に行き、Bが左と言えば左に行くのか。そんなことをしていたら、自分自身が真っ二つに引き裂かれるだけじゃないか。自分で決めろ。自分を生きる道は、多数決とは真逆の道だ。周囲はどうあれ「自分はこっちだ」と思う道を生きることであって、それなのに、いつまで他人の意見を求めるのか。それがゾンビの原因だろう、と。大事なことは、自分がどうしたいかであって、自分が「それをやりたい」と思うなら、それを実際にやることだろう。それなのに、なに、答え合わせみたいなことをしているのだ。お前はこの世にひとりしかいないのだから、答え合わせなんかできるはずもないのだ。生き方としては間違っているかもしれない。ただ、自分が、この生き方を正解にしてみせると言う気概が大事なのだろう、と、私なんかは思ってしまいます。

つじつまを合わせそうになったら言うべきことは「それがどうした」だと思います。これだけお金かけて教材揃えたんだから、ちゃんと生かさないと!と思いそうになったら「お金をかけた?それがどうした」です。一回寝た以上はわたしのこと愛するべきだわと思いそうになったら、「一回寝た?それがどうした」です。むしろつじつまなんか合わせちゃいけない気がします。つじつま合わせをしようとすることを、過去や未来に生きるというのだと思います。過去にこうしたから、今こうしているべき。今これをした以上、未来にこういう結果が出なくてはならない。わたしはつじつまに縛られたくないと思い、それを破ることに柔軟でいたいと思います。自分もまだまだなのですが、この「それがどうした力」を鍛えていきたいと思います。つじつまを破る、辻褄喝破拳(つじつまかっぱけん)を身につけたいです。

尊師・・・壇珠さんを『尊師』と呼ばせてください。それがどうした。最強のおまじないです。私はなんでもすぐに死ぬことをあてはまてしまうので、練習がてら「死ぬ?それがどうした」と唱えてみました。威力は絶大でした。絶対に死守するべきだと思っていた自分の命さえ、なにかこう、投げ出してしまっても構わないものに思えました。いつの間にか、私たちは生きていることそのものを絶対的な最上の価値と考えるようになり、死ぬことを悪いことだと考えるようになりました。しかし、本当にそうなのでしょうか。愛を感染させるために自分を使い、そのことによって自分が死ぬことになったとしても、私は「愛に生き、愛に死んだ。素晴らしい人生じゃないか」と思ってしまいます。つまらないヒロイズムなのかもしれませんが、どうせ生きるならば、自分が自分に酔える道を選びたいと思います。命も金も、使い方。自分が「これだ」と思った道に注がれたならば、大往生だと思います。

お金と言えば、壇珠さん!!壇珠さんは「お金じゃねえんだよ」って言う人を、どう思いますか??私は、こんなことを書くのも恐ろしい話ですが、いろいろなひとと話をするなかで「なんで無料でこいつの話を聞かなきゃならねえんだ」とか思っちゃうことがあります。10万円くらい貰わないと割に合わない、みたいな気持ちになることがあるのです。一応、私にも社会性はあるものですから、別れ際に「今日はありがとうございました」とか思ってもいないのに言っちゃったりもします。しかし、感謝の気持ちは露ほども抱いておらず、疲労感だけが残ります。ただ、ただですね、別れ際に「今日はありがとうございました」と相手から10万円くらい渡されたら、小生、心の底から「こちらこそありがとうございました!」「あなたに会えて本当によかったです!」「あなたの幸せを祈り続けています!」「是非、またお会いしましょう!」とか、言っちゃう気がするのです。文字通り現金なヤツです。

愛と金。真逆に語られることが多いですが、私は「金こそ愛なんじゃないか」と思っちゃう瞬間があります。ただ、ただですね、別れ際に相手から「ありがとうございました」と渡されたお金が1000円とかだったとしたら、私は「金じゃねえんだよ」と怒り心頭になる気がします。ふざけるな、と。俺は俺の貴重な命(時間)を使ってこの場にいるのだ、それなのにその態度はなんだ。金じゃねえんだよ。心意気なんだよ。お前のそういう心が気に食わねえんだよとか言っちゃう気がします。もっと本気で生きてみろよ、もっと自分を賭けてみろよ、みたいな説教をしちゃう気がします。それなのに、それなのに「10万円あげます」と言われると、心の底から今日はありがとうございましたと言っちゃう自分が出現します。心の底からあなたの幸せを祈り続けたいと思う自分が出現するのです。さっきまで「金じゃない」と言っていたはずの人間が、「やっぱりお金でした」みたいなことになるのです。

小生、お金との付き合い方はまだまだ未熟で、妙に潔癖になって「金じゃねえんだよ」とかなぐり捨てるときもあれば、平気で「やっぱりお金でした」と寝返ることもあります。まとまった金額を差し出してくれた人に対して、私は無償の愛的な感覚を抱くことがあります。「全然無償じゃないじゃねえか」というツッコミの声が聞こえそうですが、それでも、やっぱり気持ち的には『無償』なのです。自分にこれだけのことをしてくれた。その思いがたまらなく嬉しく、あなたのためならなんだってやりますという滅私奉公を誓えるのです。ビッグマネーは、ビッグラブ。なにかこう、金と愛に共通するものを感じるのです。漠然とした問いかけになってしまって申し訳ないですが、壇珠さんが思うお金哲学(?)を聞かせていただけたら嬉しいです!!

バッチ来い人類!うおおおおお〜!