なぜ外科医になりたいと思ったのか?

間違いなく心の根底にあるのは自分が5-6歳ぐらいの時に開腹手術を受けた経験があるからだろう。一度は田舎町の小さな病院に連れられていき,CTもなく,家に送られた。その日の夜に自分は青ざめて,ボッーとして,口を聞かなくなったと聞きました。今思うと,血圧低下での困惑状態。死にかけた。

遡る事,1988-89年,そうこの日は私は保育所の2回の窓から外に落ちた。運悪くでっかい石の上にお腹から落下。微かに覚えている記憶。これが起こったのは覚えているがその後,その夜の事は全く記憶にない。今思うと,私の母が何かおかしいと感じ宮崎県の1番大きな病院に連れて行ってくれてなかったら,私の人生はその日の夜に終わっていたかもしれない。手術は成功,脾臓破裂でも私が小さかったため主治医の宮本先生は輸血もせず,縫合して止血をして手術を終えた。医学という分野に借りができた瞬間だ。病院には1ヶ月くらい入院していたらしい。

小学校ではこのお腹の傷が1番自分の中で嫌いだった。シンプルに他の人となんか違う。水泳の時間はできる限り大きな水泳パンツを来て上の切り傷を隠す事ができるようにと引っ張り上げた。夏の運動会の時,上着を脱ぐのが嫌いだった。隠すものがない。人と違う事がこんなに嫌で,何度泣いた事か。数え切れない。子供なりに,何でこんな傷をお腹につけて,悲しい思いするぐらいだったら,何であの時死ななかった?と母に愚痴を漏らしたこともある。母が一度だけ涙を流したのを覚えている。

自分の1番仲の良かった友達は病院でできた。でも自分が退院する頃には,その友達はかなり衰弱してしまって,いつの間にか亡くなってた。後から聞いた事だか,小児癌だったそうだ。しかも脳の。この子は聖闘士星矢のオモチャを沢山持っていて,自分はフェニックスイッキしか持っていなかったのでいつも羨ましくこの子を見ていた。名前さえ知らない最初の友達。今でも聖闘士星矢を見ると,この時の事を思い出す。

こういう小学校低学年で経験した思い出は,忘れる事が出来ず。こういう経験をしたから医者または外科医になろうと思えたのだろう。小さい頃の思いではこれだけではない。

退院後,自分が手術室の台に寝ていて,カチャカチャと金属の音がする夢を何度も見た。手術をされている夢だ。汗だくで目が覚めると,時計の針が早回りをしているかのように聞こえる。カチカチという音が2-3倍の速さに聞こえるのだ。一度これが起こると30分から1時間はこのまま,自分が異次元にいるかのように感じられるまま,時が過ぎていく。

小学校,中学校,高校を卒業し,渡米して,大学2年生の時に初めて医療に従事する側として手術室に入った。ボランティア活動を始めた時だ。大腸の開腹手術。

自分に光が当たっているような感じがして,あっ!これだ!と確信した瞬間だった。必死にテスト勉強してMCATも受けて医学部に入った。もうここら辺から自分の中で迷いはなかった。19-21歳ぐらいの時期だ。自分の夢,ゴールを決めて逆算的に今すべき事をしていく発想もこの頃学んだ。不可能を可能にするには,挑戦あるのみ的発想を強く持ち始めた。どんな形であれ,最初の一歩を踏み出す勇気は大切だ。

外科研修医4年生の時初めて自分一人で開腹の脾臓摘出を任された時はなんか不思議な気持ちだった。その時までに何百回も手術に立ち会ってきたが,緊急外来で脾臓摘出。そして全てを自分でやって,人一人の命を助けた時は,その時はあまり実感はなかったが,手術事30分くらい経って,”あー俺も20年くらい前にこうやって命を助けられたんだなぁ”と思うと自然と涙が出た。あまり涙を見せない人間なんだが,自然と涙が出ていた。一生忘れる事はない手術だ。それから肝胆水と言う分野を専攻するようなフェローシップをして現在のポジションにたどり着いた。

やっぱり自分は誠心誠意で患者と向き合って,手技だけではなく,人間味のある外科医でありたいのが本音。

自分の手術を通して,恵まれない人の命を救い,また,その人達の人生に好影響を与えられるような手術をしていくと決めてもう10年程が経つ。まだまだ自分は未熟者だが,次なる目標•国際的な慈善医療活動を実現できるように今日も魂込めて手術を三件終わらしてきた。全てはまだ見ぬ患者のために。自分にできる事を全うするのみ。応援よろしくお願いします。

YouTubeチャンネルでは収入なんててまだまだ,程遠いですが状態ですが,私の違う記事にチャンネル貼っときました。そちらの方もよろしくお願いします。それではこの辺で失礼します。


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