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星と人の間に ニューヨークで絵描きとして生きる (7)

ニューヨークで、絵描きとして活動してきている啓茶(ケイティ)、ことKeico Watanabeです。
私がアメリカに来てから、27年。
これは私がニューヨークに渡って、絵描きとして生きてきた日々の物語です。

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異国で家族のことを考える時

私は、東京生まれだが、父の転勤もあり、3つめの小学校が北九州だった。
その時、私は5年生だったのだが、東京と九州の子どもとの違いを知った。

東京では校庭の遊び場の取り合いで、いつも子どもが喧嘩しているのに、九州の子どもたちは、純真で優しい。それは限りなく広い校庭があるからだと思った。

九州では川沿いを歩いて帰ったりして、大自然が毎日の遊び場になっていた。
東京では仕事で夜も週末もほとんどいなかった父が早く帰ってくるようになり、祖母もとても元気で、母もいつもニコニコしていた。

当たり前なのかもしれないが、いつも家族が一緒に食事をしたり、テレビを見たりしているという、この北九州の2年半が、私の家族にとっては、もっとも家族らしい時期だった。

中学は姉と一緒にセーラー服を着て、クリスチャンの女子校に通った。
日曜日には教会に行くので、月曜日は学校が休み。授業でも「聖書」という時間があり、通信簿にも聖書という欄があった。

牧師先生がコーチであるソフトボールクラブに入り、夏は真っ黒に日焼けして走り回っていた。
神様が守っていてくれるんだ、という感覚の中、家族からの愛情をたくさん感じながら、家族でテレビを見て夕飯を食べるというごく普通の生活。
それは安心して生きていた時代だった。

中学2年の時に東京に戻ることになった。
今度は都内の公立の中学に転校することになり、都会っ子や男子生徒たちにビックリしながら受験期に突入して、やっと慣れた時にはもう卒業だった。

それから姉妹のように育ったコリー犬が年老いて死に、おばあちゃんもボケがひどくなり、母も疲れ果てていて、父もまた仕事人間になっていった。

姉と一緒の高校に入ったのだが、このまま女子大生にはなりたくない、美術系に進もうと、毎日美術大学受験のための夜間の予備校に通うようになった。

今まで絵を描くことは得意だと、素直に思っていた。
ところが、この美大受験のためのデッサンコースでは、いきなり落第点を取った。
誰もが「自分が学校で1番絵がうまい」と信じている生徒たちが、ここに勝負に来ていたのだ。

デッサンを練習しなくてはいけないと、時間の許すかぎり絵の予備校に通い始め、ほとんど家にいない生活になり、家族との会話はほとんどなくなってしまった。

1年の浪人生活を同じ予備校で過ごし、なんとか美大には合格したが、大学がゴールではない。

自分のオリジナルアートを作らなければと、立体を作ってみたり、アート仲間と原宿の道に大きな紙を広げて描いてみたり、ビデオで制作工程を撮影してみたり、展覧会や画廊巡ってみたりした。

そして現代アートやアメリカンポップアートに出会った時は、これがアートだと興奮したものだ。

通学用として購入した中古のオートバイに乗ることが、やがて私にとっては自分を感じられる時間となった。
大学を通り過ぎれば、相模湖や箱根も日帰り圏内だと知り、授業をサボってはバイク仲間とツーリングへ出かけた。

帰宅すると、母が小言を言ってきたが、それでもにこやかに交わすことが出来たのは、バイクに乗って風を受けた感覚が心を広くしていたからだろう。

母に心配かけたくないから、何をしていて、何を考えているか、具体的は言えなかった。

この絵の具だらけの破れたジーンズも、化粧っけのない日焼けした顔も、自分なのであって、変えられない。

両親の期待に沿うような娘には決してなりたくないと思ってきたが、父が亡くなった後、姉はすでに嫁いでいて、残された母と2人でなんとか生活しなければならないとわかった。

いや、これからは自分がなんとかしなければいけないのだ、と甘えていた自分に気合を入れた。



まずは体力の限りどんな仕事も引き受けた。立ち止まることが怖かったので、仕事がない時は友人たちに声をかけて遊びに出かけていた。

ニューヨークに来てからは、日本にいた時には飾ったことのなかった家族写真を本棚に飾ってみた。

小学生の私は父とラクダに乗っている。これは宮崎旅行をした時のものだ。
家族写真は、箱根の芦ノ湖のものだ。

長い間、気にもしなかった家族という存在や、懐かしい思い出を恋する時が増えてきた。

讃美歌のメロディー

ニューヨークの街には不思議な力があり、困ったなと思った時に救い主が必ず現れる。

学校の友人が教えてくれたその教会は、偶然にもアパートの窓から見え、「日米合同教会」といって、英語と日本語のバイリンガルでの礼拝が行われていた。

日本語で日本人と会話できるということにも飢えていたので、教会に通い始めた。


恐る恐る礼拝に参加した初日、受付の人は「ようこそいらっしゃいましたね」
と、笑顔で迎えてくれた。

懐かしいメロディーの賛美歌を聞いていると、だんだんと呼吸困難のように苦しくなってきた。すぐにそれは自分が涙をこらえているということがわかった。

長い間ずっと緊張していた何かが初めてゆるんで、懐かしい感覚に包まれていた。
今思うと、それは長い間忘れていた、「守られている」という安心感のようなものだったのかもしれない。

30年ぶりに聴くニューヨークの教会のオルガンの賛美歌のメロディーによって、子供の時の感覚がいきなり蘇ってきたのだ。

日本語で賛美歌を歌うと涙が出てしまいそうになるので、英語で歌詞を追って小さな声で歌った。



それ以来、日曜日は礼拝に出席して1週間を振り返り、反省したり、感謝したりするのが習慣となった。

安全な場所にいるということで、礼拝は心身共にリラックスできる時間となっていた。
礼拝の後にランチサービスもあるので、カレーライスの日は特に幸せを感じた。


* * * * *

隣に眠る人

隣に眠るのは、誰ですか

遠くから聞こえるラジオの音

カーテンは、闇の寂しさを隠してくれる


完成されないジーグソーパズルは

常に私に困惑をあたえ

溶けないアイスクリームは

私の問いに答えようともしない



そして終りのない探偵小説は

寝息の数を数えるように

繰っても、繰っても、進まない



朝に向う列車の音は

たくさんの幻想を乗せ

静かに動き出す



遠い異国の写真を眺め

あなたの爪の形を思い出す


* * * * *
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