浜町高層ビル転落事件

西の空がオレンジ色に輝いている。顔を戻すと、新大橋通に面した浜町の高層ビルは金色に染まっていた。佐々木武はやはり太陽の反射なんだ、ガラスの材質であんなにきれいな金色になるのだろうなと思う。あまりにも金色がきれいで、つい振り返ってしまったのだ。

太陽はそろそろビルの陰に隠れようとしている。それまで、金色のビルを見つめていようと、銀杏稲荷の前で立ち止まる。高層ビルの金色の窓の表面を鉛筆で引いたような黒い筋が走った。ロングコースくらいはありそうな距離だから五、六百メートルくらいは離れている。糸を引くような細い影であったが、気になったので、佐々木は高層ビルに向かって歩き出した。紺地に白のストライプの着物に水色の帯。下駄だからさほど速足とは言えない。

緊急車両のサイレンが聞こえてくる。救急車が後ろから追い抜いて行った。前方の高層ビルの下に人だかりができている。パトロールカーが左側の緑地帯の向こうから飛び出してきた。そういえば、ビルの金色はてっぺんだけに残っており、下の方は灰色になっている。

新大橋通をユーターンした救急車からは、水色の服を着た隊員が飛び出してきて、人込みをかき分ける。運転席からも隊員が下りてくる。やはり、飛び降り自殺でもあったのだろう。あの黒い糸は見間違えではなかったのだ。佐々木が人込みに近づくと、救急隊員が担架を引き出して、怪我人を載せるところだった。

見回すと大半はスーパーに買い物に来た主婦と子供だ。サラリーマンもチラホラ見受けられる。警官は現場確保のためか見物人を遠ざけていた。路面には血糊があり、それを囲むようにチョークのヒト型が描かれている。生きていたのだろうか。あの高さで命があるとは思えなかった。

「落ちるところを見た人はいませんか?」
警官が周りの人ごみに質問する。
佐々木は、どうしようかと考えた。見たと言えば見たけれど、遠くからちらっと一瞬だった。それを見たと言っていいのだろうか。紺色のスーツを着た若者が財布の中の免許証の氏名や住所をひかえている。
佐々木はおそらく私の判断より、警察が判断することだと考えなおして、
「私、遠くからですが、見ました」声を上げた。
警官と背広の男性が振り向く。背の高い細身の男が和服で立っていた。今時下駄だ。

「どこで見たのですか?」
「銀杏稲荷のところからです」
「大分遠いな」警官が言う。
「何を見ましたか?」背広が聞く。
「ビルが夕日に金色に輝いているのを見ていたんです。銀杏稲荷の前でした。そしたら」
何ていえばいいのだろう、見たのは落ちていく黒い筋のようなものだ。人も落ちた場所もわからない。
「そしたら?」
「そしたら、視野に黒い線が流れたのです。上から下に」
「それが人だったのですか?」
「わからないので、見に来ました。そしたらパトロールカーや救急車が来ました」
「どのあたりから落ちたかわかりますか?」背広が聞く。
「わかりません。かなり上の方だったとは思うけど」
「落ちたところを見た人はいませんか」
佐々木の話は役に立たないと思ったのか、警官は周囲の人を見回した。
乳母車を押している女性が、胸のところまで手を挙げた。
「あのー」
「はい」
「私の乳母車のすぐ前に落ちたんです。ドサッて」
「悲鳴とか聞こえませんでしたか?」
「いえ、最初にドサッて音がしました。突然人が倒れているんでびっくりしました」
母親の話し声に目覚めたのか、乳母車の中でうーうーいう声が聞こえる。

「では、黙って落ちてきたんですね。最初に気がついたことは?」
「倒れている男性の顔のあたりから血が流れだしました」
背広の男性がチョークの頭の部分を眺めながら、血糊を指さした。
「あそこですね」
「そうです」
乳母車の女性の個人情報をメモすると、
「他に見た方はいませんか?」
「ドサッて音がしてからなら見ましたけど」スーパーの袋を下げた女性が言う。
「僕も音を聞いた」
サラリーマン風の男性。
結局、落ちたところを見た人は数人いたが、落ちるところ以前を見たのは佐々木一人だった。警官が佐々木の個人情報を聞きに来た。救急車は出発し、背広の男性は鑑識を手配していた。高層ビルを見上げると、もう上まで灰色に陰っていた。どの窓も閉まっている。屋上から落ちたのか飛び降りたのか?
人形町の自宅へ帰ろうとしたら、背広の男性が佐々木の個人情報を聞きにきた。佐々木は警官に伝えたことをまた話したあと、水天宮方面に歩き出した。

久松警察署の立花刑事と高橋刑事は、浜町交番の吉井巡査とビル正面からの距離と側面からの距離を計測して、ビルの端からガラス何枚分か数えた。ビル管理人を呼んで、この落下部位の各階の部屋の利用者のリストを依頼しようと話したところ、このビルのガラス窓ははめ殺しで開かないようになっているとのこと。見上げるとどの窓も割れていないから、屋上ではないかとの話だ。

屋上なら飛び降り自殺の可能性も高くなる。立花刑事は管理人に案内されて相棒の高橋刑事と一緒にビルに入った。エレベータは八機あり、十階まで、十一から三十階まで、三十一階から屋上までとなっていた。この方式では、八階の人が三十二階に行こうと思ったら、一度一階に降りてから三十一階以上のエレベータを選ばなければならない。これは不便だと思われる。管理人にそう伝えると、利用している会社が十階ごとに違うので、逆に、企業の独立性が確保されていいのだとか。では、屋上に出るためには、三十一階以上のエレベータに乗る必要があるわけだ。

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