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【演奏会評】歌の力に圧倒された春

 前回の投稿から1年半近く空いてしまった。その間、4年ぶりにヨーロッパへ行ったり、あれこれ面白いものを観たり聴いたりした。世の中もコロナ禍前と変わらどころか、それ以上に活動的になっているように感じる。と同時に世界中のあちこちで争いが起きている。多くの人々が犠牲になっている。まさにカオス、混沌とした時代を生きているのだと実感する。

 さて、そんななか聴いた印象的な演奏が二つある。

 一つはムーティ指揮東京春音楽祭による「アイーダ」。この組み合わせについては、以前にシューベルトの「未完成」がすごかったと書いたが、今回はイタリア・オペラである。
 どれほど美しく流麗なカンタービレを聴かせてくれるのか、どれほど壮大な音によるスペクタクルを堪能させてくれるのか。そうした期待はことごとく裏切られる。非常に抑制され、端正で、厳かで、外連味のない演奏。私は後にヴェルディが書いた「レクイエム」を、いやそれ以上に宗教的な音楽を連想した。神殿での儀式の場面や第3幕の冒頭はもちろん、有名な凱旋の場はグローリアであり、幕切れのアムネリスの祈りはアニュス・デイ。演奏会形式での上演ということもあっただろうが、「アイーダ」とは壮大なミサ曲だったのだ。まさか本作にこのような形容を用いる日が来るとは…。

 「アイーダ」とは単なるスペクタクルやメロドラマではない。戦争が生んだ悲劇と無力な人間の祈りなのである。そのことはかつてペーター・コンヴィチュニーによる演出を観た時に痛感したことだが、改めて今回の演奏を聴いて感じ入った。

 もう一つは濱田芳通指揮アントネッロによる「モンセラートの朱い本&聖母マリアの頌歌集」
 彼らは今までも「聖母マリアの夕べの祈り」や「メサイア」、「ジュリオ・チェーザレ」など多くの素晴らしい演奏を聴かせてくれたが、今回も期待をはるかに上回るものだった。

 「モンセラートの朱い本」と「聖母マリアの頌歌集」は、いずれも中世スペインの写本を再現したものである。土着のマリア信仰が元になっているとはいえ、宗教曲であるから何か厳かで崇高なものを想像するが、まったくそんなことはない。土俗的な民衆の歌であり、ときに猥雑とさえ感じられるほどにエネルギーに満ち溢れている。「モンセラート」はサヴァールの録音で親しんでいたが、それが上品で洗練されたものと感じてしまうのには驚いた。
 あまりに崩し過ぎている、現代の日本的な感覚に寄りすぎている、技術的に足りない部分がある、といった批判も出てくるかもしれない。だが、そんなことはどうでも良いと思わせてくれるだけの説得力がある。
 それでいて、時折訪れる静謐な瞬間がたまらなく美しい。例えば、” Mariam, matrem virginem, attlite”を聴いたとき、私はプラド美術館で観たフラ・アンジェリコの「受胎告知」を思い出した。謎めいた神秘性と澄んだ美しさがキラリと光って感じられた。

 そして、不思議なことに彼らの演奏を聴きながら「私もいっしょに歌いたい」と思ったのである。私は学生の頃に合唱をかじっていたことがあるけれど、そう思ったことはただの一度もない。普通なら「これを客席で聴けて幸せだ」と思うからだ。それほどまでに稀有な体験だった。

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