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【演奏会評】シューベルトを知りたければムーティを聴け!

今、ムーティ以上にシューベルトを的確に表現できる指揮者はいない。
私はそう確信している。

それまでの私のムーティの印象


彼のせっかちなアプローチやシカゴでの仕事ぶりに、私はあまり好感を持っていなかった。

「旧き佳き」「伝統薫る」「最後の巨匠」
…このような形容は権威主義をきれいに言い換え、思考停止の言い訳をしているに過ぎない。

だから、私と同じような意見を持つ人たちが最近になって「ムーティがすごい」と言い出したのは驚きだった。
半信半疑ではあったが、これは直接聴いて確かめる必要があると感じた。

そこで昨年の秋、ムーティ率いるウィーン・フィルの来日公演へ出かけることにしたのである。

幸福で儚げな懐古的「皇帝円舞曲」


メインの「グレイト」も良かったが、アンコールで演奏された「皇帝円舞曲」がことのほか素晴らしかった。

序奏では、ゆっくりとした足取りで音量が膨らんでいく様が宇宙のように壮大である。
終盤では、チェロのソロを支えるヴァイオリン・パートのトレモロがまるでブルックナーのような神秘性を持つ。
幸福感と寂寥感が同居した、過去を懐かしむような美しさに身震いした。

たしかに「過去の栄光」かもしれないが、「栄光」は「栄光」に違いない。十分立派である。いや、むしろこのような老いなら、それはそれでとても幸せではないかと思った。
無論、そうした価値観と真っ向から対立したアーノンクールも私は大好きだけれども。


完成された美の極致「未完成」


さて、先月聴いた東京・春・音楽祭オーケストラとの演奏

こちらも期待を上回る出来で、隙のなさという点ではウィーン・フィルを遥かに凌駕していたと思う。

言うまでもなく、メインの「未完成」が最高

流れるような旋律、明快な和音、泰然自若なアプローチ。
いつの間にか周りが暗くなっても、決して騒がず平然を装う。
それが明け透けな闇よりもかえって恐ろしく感じてしまう

これこそがシューベルトの真髄である。

例えば、第1楽章の第2主題。
シンコペーションのリズムが生々しく脈動するのに対し、チェロのメロディはそれよりも弱々しく虚ろに漂う。
一瞬のパウゼの後に来るトゥッティは堂々たる風格。
ドラマティックでありながら、決して美しさや品格を逸脱することはない。

第2楽章も同様だが、より孤独感や無力感が増している。
弦楽器の弱音から現れる木管楽器の儚げな風情は絶品だ。
最後は意外とあっさりしていて、救済や昇天というよりは成仏して消えていく、あるいは静かに沈んでいくようなイメージ。
そして、繰り返すが決して美しさや品格を逸脱しないのである。


これで終わりではなく…


最後にまさかの「イタリア風序曲」が演奏される。アンコールではなく、あらかじめプログラムに載っているからこれは確信犯であろう。

これがちょっと皮肉なくらいに軽妙洒脱なのである。
もともとロッシーニを強く意識した曲ではあるが、それをさらに強化したようなアプローチには思わず笑ってしまった。
少し前まで深刻なニュアンスで演奏されていた弱音やリズムのアクセントが全く逆の効果を発揮しているのである。

「悲劇と喜劇は紙一重」とはよく言ったものだが、マーラーやショスタコーヴィチの大曲を聴いた後よりも複雑な気持ちになった。

この日は雨が激しく降っていたが、帰宅するころにはすっかり止んでいた。雲の切れ間から漏れる月光。真冬に逆戻りしたかのように冷え冷えとした空気。
シューベルトがよく似合う静かな暗い帰路であった。


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