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僕の好きな人たち


「自分にコントロール出来るものと
 出来ないものの区別をつけ
 コントロール出来るものだけに注力する」

僕の好きな哲学「ストア哲学」は
簡単に言うとそんな哲学です


ローマ帝国五賢帝の1人
"哲人皇帝"マルクスアウレリウスも
ストア哲学者でした

かの"哲学の父"プラトン大先生は

「哲学を修めた人物こそ
 国家の統治者に最も相応しい」

そんな事を語っていましたが
歴史上唯一、哲人統治で治められたのが
彼の統治下のローマ帝国であったとされます

哲学者が国を治める...

まぁそうであればその方が良いのは分かるけど
現代社会では難しいような気もしますね

僕は「政治家」という生き物は
人間の職業の中ではとても特殊で、異質で
だからこそ「人間だなぁ...」と思えて
すごく面白みを感じているのですが

もしかしたら哲人統治というものは
机上の空論なのかも知れません

まぁそれはそれでいいのです
プラトンはロマンチストですからね

だからこそ人類史上、哲人皇帝の存在は
かなり異彩を放っているとも言えます


そんな彼の日々の思索を書き残した
名著「自省録」もストア哲学書の代表作です

それは論理立てた思想系統というよりは
彼の日記のようなものなので

後々の世界に登場する大陸合理論のような
超天才たちの超絶技巧的な哲学思想の
静謐な美しさとは全く違った

ある意味、彼の人間味が随所に溢れる、
彼と直接対話しているような哲学書です


そんな「自省録」の中で
自らがコントロール出来るものについて
マルクスアウレリウスはこう語ります

それは身体と、息と、理性のみである。

そして身体と息は確かに管理しなければ
いけないものではあるけれど

真の意味でコントロール出来るものは
この世界において理性のみである

そう彼は何度も、何度も語ります

コントロール出来るもの、少なっ...

この部分だけでも
大分と彼のストイックさが伺えますね

ストア哲学のストアは
ストイックの語源にもなっています

結構マッチョで理詰めな哲学思想です

「自分にコントロール出来るものと
 出来ないものの区別をつけ
 コントロール出来るものだけに注力する」

そんな言い方をされると
なんだか世界は二者択一で

全てのものはどっちかに振り分けられる
そんな印象を持ちますが

ストア哲学の深いところの思想では
もう一歩踏み込んでいるのです

どっちかに振り分けられる?
 いやいや、そうではなくて
 我々にコントロール出来るのは"理性"のみ
 世界の、宇宙の事象/現象/実態/物質は
 全部、ぜーんぶアンコントロールである

そう言う事を彼らは語っています

ストイック...徹底的に...

強すぎるよ、マルクスアウレリウスさん

自然、富、名声、他人、病気、死etc.

身体と息も一応は含められていますが
本質的には"理性"以外のこの世界の全ては
全て自分のコントロール出来ないものなので

絶望することも、歓喜することもなく、
ただ冷静沈着に、無感情に受容するのみ

ストア哲学とはそういう哲学なのです

他の哲学とは一線を画す姿勢に
死を瞑想する哲学」とも呼ばれます


「自省録」を読みながら
マルクスアウレリウスと対話をしていると

その精神性の高さに、強さに
偉大さに圧倒されて、言葉が出なくなりますが

落ち着いて考えてみると

確かにそうなんだよなぁ、と
不思議と腑に落ちてしまう節もありますよね


どんなに人との関係を大切にしていても
どうにも出来ない条件や特性で
関係を続けられない事もあります

僕たちがどれほど尊敬の念を持って接しても
相手が一方的に変わってしまう事も
あるでしょう

その相手が実は尊敬に値しなかった事が
後から身に染みて分かる事だってありますね

そっか、こういう人だったんだ
その繰り返しです

悪いのはどちらというわけでもありません
一面しか理解していなかった
自分自身にも問題はあるからです

そしてそれ自体も自分の認知の歪みが
引き起こしているかもしれない...
なんて全ては認知バイアスの無限ループです

人間関係とは、かくも難しいものなのか
僕は27年間悩まされっぱなしです

死に対しても
僕たちに出来ることは何もありません

理性で理解と受容をする事しか出来ないのです


落ち着いて考えてみれば

ゆっくりと周りの景色を見渡せば

この世界は、この世界には

コントロール出来るものなどないのです

あるのは自分の中にだけ

自分の"理性"

自分がその事について、どう思うか

たったそれだけです

僕たちにコントロールが出来るものはそれだけ


僕はこの事を
本当に痛いほど実感した時に

絶望感と安心感を同時に感じました

とても不思議な感覚です

そして
その感覚をとても心地良く感じています


精神療法/心理療法の分野には
認知行動療法」という
一種の治療プロセスがあります

これは、何か外部で起こった出来事に
対する自分の反応を
"認知"、"感情"、"行動"の3つに分けて

その"認知"を変える事で
自分の"感情"と"行動"を変えていこう

そんな治療です

なんだか似ていると思いませんか?

そうです
この「認知行動療法」のルーツは
「ストア哲学」であると言われています

実際にストア哲学の哲学書を読めば
現在、認知行動療法の専門書で語られている
大部分と同じような話が散見されるでしょう


脳科学や精神医学の発展は
近年大変目覚ましいものがありますが

人間の心を治療するプロセスの根本は
2千年前からほとんど変わっていない部分も
あるという事なのかも知れません



ここまで話を進めていると

「ストア哲学ってなんか冷たくない?」

「てか、keiって冷徹じゃない?
 優しい感情とかないの?」

そんな声が聞こえてきそうですが
それは当たり前の反応です

まぁまぁ落ち着いてください

そう思うということは
哲学思想の論理的な正しさには納得しつつも
人間的な感情とのギャップを感じている
そういう事ですよね?


それはみんなそうなのです

かくいう僕も

そしてストア哲学者たちもそう思っています


「生の短さについて 他二篇」で
セネカはこう語ります

「私自身、この哲学を体現出来ていない、
 そう君たちは批判するかもしれない。
 それは当たり前なのだ。
 私はまだ未熟で、まだ道半ばだ。
 ただ、どうあるべきか、何が正しいのか
 それだけは確信しているのだ」

セネカの言葉には人間らしさと優しさが
溢れています

彼自身の主観と、そして卓越した客観性から
彼がいかにして哲学者であったか
いかにして哲学者であろうとしたのかが
ひしひしと伝わってきます


「自省録」でマルクスアウレリウスは
何度も何度も、何度も同じ事を書き記します

宇宙の自然と、指導理性について

そこから彼が常にその事を思索し続けて
事あるごとに苦悩し、葛藤しつつも
正しく、善い皇帝であろうとした
その足跡がとてもリアルに感じられます

この哲学書ほど著者自身と対話が出来るものは
ないかも知れないと僕は思っています

読んでいるまさにそのすぐ近く、隣に
彼の息遣いと体温を感じられるのです

だからこそ、日記という形で残された
「自省録」が今日も圧倒的な人気で
発行され続け、読み続けられているのでしょう




なにが人を哲学者たらしめるのか?

それは「いかに哲学し続けたか」

それに尽きると
僕はそう思っています

なにも修士論文や博士論文を書き上げて
超絶技巧な議論をする人だけが
哲学者なんかではないのです

僕たちはみんな、望めば哲学者になれるし

誰もが哲学する事で
人生を豊かにする事が出来ると
そんな事をふと思ったりもします

豊穣な稲は最後には刈り取られるでしょう

僕たちに出来ることは
自らに与えられた稲を豊かにすることのみ

そして稲は収穫者によって刈り取られますが

僕たちの人生だけは
育てるのも、実らせるのも、収穫するのも
自分自身です

そんな事をマルクスアウレリウスは
語っていました


僕は彼らの哲学が好きです

そして、彼ら自身を好きなんだと思います

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