「滴」
お風呂、一緒に入りましょうか。
1ヶ月ぶりに会う彼女の方からそんなことを言うものだから、「うん、いいんじゃない」なんて無表情を保ってみせたが、全然隠れてませんよ、と余裕綽々で言われた。
「知ってると思いますが……私はすこし、のぼせやすいので」
変なことしたら、わかってますよね?
なぜか後半は心の声。"無言の圧"に怯えながら、先に身体を洗い湯船に身体を沈める。その水音を合図に彼女が風呂場へ入ってきて、身体と髪を洗い始めた。
(……風呂場の鏡って、ほんとすぐ曇るよな)
自身の役割をなんら果たせていない、まさにスモーキーな鏡へシャワーを浴びせる。手持ち無沙汰故の行為が、彼女の眉を顰めさせる。
「あ、……邪魔?」
「いえいえ、そんなことないんですよ。ただ……」
彼女は何故か囁いてくる。まるで聞かれてはならない話かのように。
「シャワーをかけた後の鏡を、見たことがありますか?」
「……?」
意図が汲み取りきれずに首を傾げると、彼女は声を立てて笑った。
「そんな、怖い顔をしないでください」
「……悪い」
「別に、たいした話ではありませんよ」
何処か悪戯っぽく笑む彼女は続けた。
「気持ち悪いんです」
「……えっ」
心外だ、とでも言いたげな顔をしたのだろう、彼女はきょとんとしたかと思うと涙まで浮かべ、笑いの発作に襲われ続けた。
「私を死なせるつもりですか?」
「ここで死なれては困る」
「それはそうでしょう、私も嫌です」
笑い終えた彼女が浴槽に入ってくる。狭い湯船で体育座りをする彼女の後ろが定位置だった。ゆっくりと彼女が言葉を紡ぐ。
水滴が、沢山付いているでしょう。
そのひとつひとつに、逆さまになった自分が映っているんです。
お風呂場の鏡はすぐに曇ってしまうから、私もよくシャワーを浴びせていました。
だけどね、ある日突然、その粒々たちの気持ち悪さに気づいてしまったんです。
「無数の自分ですよ、しかも逆さまになって」
「……それは、たしかに気持ち悪いな」
「そうでしょう。でも鏡を見ない訳にはいかないですから、あまり近寄らないようにしています」
「……どうして、」
「えっ?」
「どうして、見たんだ。鏡の向こうの自分じゃなくて、その手前を」
別に深い意味は無かった。単純に、自分に経験の無い見方をしたと言うから気になったのだ。
「……さあ。どうしてでしょうか」
「ーー!」
はっ、と目を覚ましたはずなのに、生き返ったはずなのに、呼吸が苦しい。必死で手繰り寄せたペットボトルを無我夢中で開け、熱い喉元に水を流し込む。
何度も何度もこの夢を繰り返している。いつも何処かで問答をしくじっては彼女を夢の中に取り残して、俺だけが現実世界に還ってきてしまう。
俺は取り戻さなければいけないんだ。鏡の中に囚われた彼女を。鏡の向こうで寂しそうに笑う彼女を。
はやく、連れて還って。
彼女の声が聞こえた気がした。己の頭をかきむしる手も、悔し涙も、止める術をもたないし探そうとも思わない。
ふらふらと風呂場へ向かう。鏡はすっかり乾いていて、俺が情けなく立ちすくむ姿を容赦なく鮮明に映し出している。
「……、!」
衝動に駆られ、鏡へ最大水量でシャワーを浴びせた。つめたかった水が徐々に温もりを帯びていく。もくもくと立ち込める湯気の中、蜃気楼かのような自分の幻。
ーーまぼろし?
「ここにいたんですね」
天使のような君の声が聞こえる。俺は必死に鏡の向こうを探す。頼む、出てきてくれ。一目君の姿が見たいんだ。
「もう、違うでしょう?」
子供をあやすかのように慈愛に満ちた声で彼女は告げる。
「ヒント。私のヒントを、思い出してください」
「……ヒント」
そうですよ。私からあなたへ、特別大サービスのヒントです。もう答えがわかってしまいますね。
「……手前だ。手前を見るんだ」
俺は自分に言い聞かせながら、必死で鏡の"手前"を見る。水滴を、恐々と見つめる。
「……、!!!」
俺だ。
無数の俺が、逆さまの俺が、俺を見ている。
「ね、気づいたでしょう?」
いつのまにか彼女が鏡の向こう側に居る。手前を見ていて気づかなかった。必死で焦点を合わせようとする。
「駄目ですよ。あなたはそこで、現実を見るんです。あなたしか居ない現実を。私の居ない、世界を」
「ーー!」
再び目を開けば服の中も髪もびしょ濡れで、風呂に入ったせいなのか寝汗なのかも分からず、気付けば涙が止まらなくなっている。繰り返しては逃してしまう、或いは逃れようとしているだけの自分があまりに滑稽で、哀しいのに笑い声が漏れる。止めどないこの滴ひとつひとつにも君を失くした俺は映っているだろうか。そんな俺を君は何処かから見て、微笑んでくれているだろうか。何の意味も無い日々だけが滴り落ちていく。
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