見出し画像

「金木犀に秋を感じる程の情緒で生きていきたい」

 待ち合わせる店までは電車だと却って遠回りなようで、見慣れぬ道をGoogle MAPで確かめながら歩いていく。すれ違いざま、犬は英語で躾けられ、ベビーカーの少年は坊っちゃんカットで笑っている。数年経てば整えられた襟のシャツと膝小僧の出るパンツを履いて近くの私立学校に通うのであろう。一様に塀が高く年季を感じる家々を横目に、高級住宅街と名高いのも頷けるなとひとりごちてみる。金木犀の匂いと銀杏の臭いが混ざり合う道。台風一過の夏日でも秋は逃げたりしないのだ。

 知らない街では目に映るものの多くが新鮮だからこそ、見ることに夢中になってしまう。知っている街の知らない道を歩いている時が一番"いい"言葉が浮かんでくる気がする。願わくばその場で誰かに心を読んで書き留めてもらいたい。そんなポエミィな気持ちは帰宅して腰を落ち着けた瞬間に言葉ごと吹き飛んでしまい、綺麗に覚えていられた試しが無いのだけれど。そんな"読心術"を使えるAIが開発されたらいくばくか貯金を崩してもいい。

 人と同じ感性では埋没してしまうから、違った感じ方を、せめて違った表し方を、と捻くれた心で探してきたような気がするけれど、結局のところ自分が凡人であることには随分前から気付いている。自ら選択できるようになってからは「人と違う」ことに対し寛容な環境に身を置き続けたおかげで、世の中には圧倒的に「おもしろい」「変わっている」人々が存在することを見せつけられ、それに対峙すれば持たざる側の人間なのだと自覚せざるを得なかった。それでもコミュニティの外に出れば多少なりとも称賛寄りの評価を得られることでプライドとの均衡はギリギリ保ててきたけれど、ここらが潮時なのかもしれない。その凡人さは、決して「普通」とイコールではないのだ。

 「普通」は真ん中ではなく、人々が理想とする「至高」なんじゃないかと感じることがある。パッとしない凡人に対し、「普通」とか「通常」には個々人の基準があり一概に言えないものになっている。だからこそ争いや断絶が生まれる。

 「金木犀が香って秋の訪れを感じました」に出くわす度「それしか無いのか」と思いながら、自分もふとした瞬間に鼻先へ同じ挨拶をかまされ受け取ってしまっているのだから世話がない。その前にも夜道の涼風や虫の音に予兆を感じていたくせに。梅が咲いたら春、25℃を超えたら夏、雪虫が飛んだら冬なのだ。

 金木犀に秋を感じる程の情緒で生きていけたらいいのに。


愛を込めた文章を書く為の活動費に充てさせていただきます。ライブや旅に行ったり、素敵な映画を観たり、美味しい珈琲豆やお菓子を買ったり。記事へのスキ(ハートマーク)はログインしなくても押せますので、そちらも是非。