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無為自然、人と人を繋げる隔たりも勝敗のない世界。

最近の二週にかけて鎌倉股旅へ向かっている。
多年とても親しくさせて頂いている非常にアクティブなキーパーソンが鎌倉へ移住したこともあり、その方を訪ねている。その方が関わるmui labさん監修の本。「カームテクノロジー」が発売されるとのことの情報を頂き早速購入。(あっこさんおめでとうございます!)

RedbullのMusic Academy Tokyo2014で大変お世話になり、その後も様々なプロジェクトで飛騨に移住し林業×テクノロジーに携われば飛騨にみんなで訪ねた。

彼女のパワフルな行動はその後も追いきれないほど海外にも活動の幅を広げていたが、この2週間の鎌倉でとても有意義な体験に誘ってくれた。

鎌倉のローカルコミュニティに馴染み、紹介してもらった。共通の友人から面識あり初見ではないが発酵宇宙研究所、パラダイスアレイを主宰するじゅんぺいさんに触れ、またそのパラダイスアレイのパンと酵母に触れ、音楽の現場の大先輩でありながら保護犬の保護活動やドッグトレーニングを行うJazzySpotのマサヤさんご夫妻の元を訪ねて、ワン様達と自然の中で触れさせて貰って、大変貴重な体験をした。
その一緒の時間を過ごした友人達と人と人が醸すような体験や時間をひとまとめに象徴するような今回の本だった。

muilabのmuiは無為自然の無為。
最近老荘も振り返りながらの出来事だなと、
色んな視点から振り返ってみる。

まずユビキタスの概念、ラテン語であり古来から神学で時間や空間を超越して遍在(あらゆるところに存在)すること」である。

僕が前職で踊りの活動と合わせてサーバーエンジニアとして活動していた2007年くらい。
この時でさえももはや死語なのではと感じていたのはユビキタス。
バックインフラ、エンド側を支えていたハードウェアエンジニアとして、まだクラウドの概念も日本にはない時代に様々なサービスのシステムを縁の下的に協力させていただいていた、現場の仕事やシステムを触れたことのない人達からすれば、勿論全く縁のないものだが今はスマホで自分の位置をGPSで、衛星情報から天気をしり、それが素晴らしいUI/UXでより多くの人が誰でも自然に使っている事を思うと、前職の事とやこの本について、鎌倉の旅と重ねて思い出す。

この年にyoutubeが始まり、僕のいた踊りの世界を大きく変わった。世界の何処からでも誰とでもつながれ繋がれる世界になった事で今までフライト代を貯めて、現地に踊りに行ってその現場を見ないと分からなかった事が、何処からでも誰とでも何時でも可能になった。
それにより、海を超えた、物理的な距離が保たれていたそれぞれのエリアやシーンや個々のダンサー達は並列化したスタイルに変わりつつありアイデンティティを失っていくようだと当時は感じた。その反面多くのダンサーは、もの凄い勢いで成長を遂げた。
当時「Fuck Youtube」というムーブメントも起きたが、スタイルやアイデンティティを重んじる表現の世界において、僕も違和感があった事は間違いない。

まだwifi環境もままならない2007年の日本においてスティーブジョブズはi pod touchがリリース。
それを手に取り掌の中で今までにない解像度のブラウザでインターネットが出来るのに環境の関係で出来ず自分のPCからgtunesに曲を同期して、ipodプレーヤーとしてしか使いきることが出来なかった年でもある。

インターネット環境がモバイル環境(=移動通信環境)へと、急速に充実した2000年頃から再注目されることになり2009年の日本でのiphoneリリースにより「実現可能な概念」として現在にこのユビキタスから生まれたカームテクノロジーという言葉は、昨今落合陽一の「デジタルネイチャー」やアンバーケースの「カームテクノロジーの再燃」と名前を変えて再び僕の前に現れてた。

それに似ているのがpeer to peerで今ではブロックチェーンを支えるクライアント型ではない非中央集権的な相互間のインタラクティブなネットワーク。
NEM事件以降の暗号通貨の盛り上がりは、今国内では静かな状況ではあるが、キャッシュレスも少しばかりであるが新しい信用価値を生んだり広まりを見せると思う。

99年くらいのビーボーイ真っ盛りの時は、
大学生の時のDJの友達の家でwinny/winMXを使い、世界中からヒップホップやクラブミュージックをDLしていた。
CDやカセットに入れてラジカセでダンスの練習したりドライブで聴いていたり。
まだ光なんかなく、ダイヤルアップ通信からADSL環境の時。
欲張って何十曲もシェアし合った時には丸々1日とかDLに余裕で時間がかかる。
早く聴きたい曲にそわそわしていたりPCが固まっていることなんてあった。
今思うと現場のクラブではDJの皆のアナログに触れていたり持つのを手伝ったりこっそりレア盤聴いていた事とかもはや当たり前過ぎて、アナログレコードへの偏愛はそんなになかったのかもしれない。

そういえば初めてスクラッチライブを使っているのを見たのは05年に名古屋にアフリカバンバータを呼んだ時。汗だくでDJブースでプレイする手元にはアナログレコードではなくフロアで踊りながら凄く気になったのを覚えてる。

今思うとファッションでもデジタルでもその時代のその社会にそれを触れていない世代が新たな潮流を起こしリバイバルしカルチャーにしていく。
若い世代に時代を託す上で先の見えない未来に多少の恐れや恐怖や不安を持っている人もいると思う。

しかし、もっと前の世代から音楽の世界でも一部の好奇溢れる最先端の人達には、音楽作品の裏で最先端のテクノロジーを使ってきた下記のようなストーリーもある。

YMOの影のマネージャーとして、前身は山下洋輔の事務所でJAZZの世界で世界を渡ってきた人物として、また日本のHIPHOP誕生においての重要人物としても取り上げられる「イラマゴ」の首謀者でもある生田朗は、当時、ビルラズウェルやハービーハンコック、ピーターガブリエルなど世界の一部のプロデューサーやミュージシャン達と「IMC」という「インターナショナルマネジメントコミュニケーション」という音楽業界のシステム会員としてネットワークを使って「音楽」というを情報を交換するコミュニケーションを既に構築していた。

今ではDTMが一般的になり世界中のアーティストやミュージシャンがデータで当たり前に音楽をシェアしあうネットワークはある、コロナの影響でオンラインライブも行われているが。

最先端のアーリーアダプターから時のタイミングで新しい時代にフィットしていくときの流れは正に「カームテクノロジー」の内容だと思う。

また下記の書籍でも同じような内容を「タイムトラベル」という時間軸の視点から学んだ。


今のデジタル社会にユビキタスの最初に概念化したのは、ゼロックスパロアルト研究所のマーク=ワイザー(Mark Weiser)。
1988年に「生活環境のあらゆる場所に情報通信環境が埋め込まれ、利用者がそれを意識せずに利用できる状態」をユビキタスコンピューティング(略してUbiComp)と定義して、これを提唱した。

当たり前は当たり前ではなくて
当たり前ではない事が当たり前で
そんな概念や普遍や自然ていうものは時間と空間で変わり、デザインされて溶け込んで行くんだなと改めて思う。何が普遍で自然で当たり前なのか。気付きが繋がっていくタイミングなのかも。

また地球の大自然もテクノロジーも本質は、原子核の中の陽子と中性子の数と最近考えるきっかけをくれた友人からこんなリンクを教えてもらった。

その周りに飛ぶ電子で原子とその構成が違うだけで元は全て同じ。
例えるのならば、円を描くように周る宇宙の惑星軌道と似ている電子達。陽子と中性子の集まりのような人間の間には隙間だらけ。原子核のような社会や約束事を作り、構成原子と荷電粒子のそれぞれの関係が空気のように個々の保つ存在やエネルギーと似ている。

上記のリンクはヘリオコンパスと呼ばれるもの。今回の鎌倉で教えて頂いた時、西暦や人の作った他の暦やというカレンダーの枠で生きる人間が「時間」という概念の中で少し息苦しく生きている人もいる中でもう一つ大きな太陽系のヘリオスコープの暦で俯瞰し、両立する事と似ていた。
またパラダイスアレイのじゅんぺいさんの焼くパンに使われるパラダイス酵母の世界の話は、まるでパンの世界の中で起きている小さな宇宙のよう。ワインも最近僕もハマッているサイダーも「酵母という生き物の世界での発酵という現象」と同じ事だなと考えながら楽しんでいる。

またじゅんぺいさんが携わっていた「スプートニク」という伝説となっているカルチャーの名前もまた宇宙を連想させる。
スプートニクのホールライフカタログのインスピレーションは、勿論ホールアースカタログであることからシリコンバレー黎明期でのジョブズ自身もこの雑誌から影響を受けているのは、ご存知の通り。

僕も自身もとても影響を受けた。

僕は今現在、生業としてフィットネスコンテンツの企画やディレクションに現在携わっているが、
テクノロジーや新たなコンテンツや融合させたものを提供する時に多くの批判や否定を今まで色んな反応をトレーナーや専門家、またはユーザーから頂いてきた。
それまでの構築して来たものの理論、普遍や自然を持つ人は違和感やアレルギーを感じる人がいるのも当然だその人の時間軸が全てでそれを超えた未来は想像するには中々難しい。だからこそ常に次世代を作り上げる人達は僕だけではなく、それら仮想敵や逆境を常に経験していると思う。

昔踊りをやっていた時もそうだし、「お前は違うそれでは認められない。それでは勝てない。」とかよく大御所の方たちから言われたものだ。自分の踊り方も価値は勝敗でもなく、僕自身の踊りたい欲求と、それを受けてリンクした人達だけのローカルな関係の中で生まれたし、その一つ一つのレスポンスがあったからこそ、僕はまだ今も踊りに対する欲求の火は消えてはいない。

また音楽の触れ方、聴き方もその人達の自然どういう位置関係になるかをよく考えるがジャンルなど全てはたった今ここの普遍や自然や価値観でしかない。これが良いあれが駄目だなどなど良く聞く話だが、たかが好みだけで自分の「好き」や「信じる」気持ちに不安があるからこその行動だと思う。

批判や否定は何かに恐れや不安や恐怖という違和感を抱いているからだ。

この本の説明を昨日伺った時 に「スプーンだって家の電気のスイッチだってテクノロジー、今じゃ当たり前に自然に使っている。スマホだけじゃない。」って言葉もとても面白かった。

前に友人も「時に文化は弊害で捨てるべきでなんとも信じがたいものである。」と話していた。今までの文化に生きた人達はその文化のリビルドに大きな不安を感じてしまうのかもしれない。歴史を振り返っても美や価値の概念の変化は少しずつ起きている。

僕自身その時の自分の立ち位置とかもうこの年になって色々旅すると迷うことも小さくあるが、大幅にブレる事もない。

昔狂言師の方から
「表現や伝えるとはなんと卑しい事なのか」
という言葉を聴いた時に「あっ踊りを人に魅せる事もうやめよう」とか、

色川武大の
「自分の関心に他人を参加させようとすることを、一応、やめてみよう」
という言葉で「若い時から良く自分の好きとか関心とか感動とかシェアしたがってけどそんなことしなくても好きな人とは自然と繋がる。」的な考えになった変化の道がある。

それがふとこの本のようにまたその鎌倉へ友達と訪れた事とかも全てのタイミングに幸せを感じる。

昔は強がっていた。勝たなければ戦い続けなければいけない、自分の価値を見出す為になんて。

少し先の未来に「新しい」自然化を思い、古い書籍ばかりを手に取る中で中々進まない時にこの本に触れてみるのが今から楽しみです。

言葉を直接届ける機会をいつか何処かで作れたら!