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「勉強しなさい」と強制するのはもうやめよう


こんにちは!あいでんです。

実家への帰省準備が始まり、家から徐々に荷物がなくなり始めました。そこで思ったのは、いらないものを溜めすぎているということ。

断捨離力をなんとかしたい。そして「何もない」という余白を楽しめるようになりたい。

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くまちゃんらぁめん にて


▷「勉強」とは自由だ


先日、結婚式へ行くために実家へ帰省した時の話。

コロナウイルスの流用によって各教育機関が休校などの対策をとっている。当然だが弟の通う高校も例外ではないようだ。

そのため、もう10日ばかりも自宅で時間を過ごしているとのこと。


とはいえ、さすがにスマホネイティブ世代。ゲームにYouTubeにSNSにと、スマホさえあればその時間も決して苦ではない。

しかし、これまた当然といえば当然なのかもしれないが、親から「スマホを触るだけではなく勉強をしなさい」という声が飛ぶ。

私の個人的な価値観からしても、せっかくの時間なので勉強だけでなく読書をしたりパソコンに触れたりということをすればいいのにと思う。


しかし、ここでふと感じたことがある。それは、「マンガやゲームやYouTubeで過ごす時間は勉強や読書などで過ごす時間に劣るのか」ということである。

なにをもって優劣をつけるのかという話だが、ここは勉強や読書の利点として語られる「将来役に立つ」「自分の財産になる」といったところを焦点としよう。

結論から言えば、優劣をつけることはできない。勉強や読書は言わずもがな、マンガやゲームやYouTubeも将来役に立つだろうし、自分の財産になるだろうからだ。

マンガやゲームやYouTubeだって今やそれを仕事にすることができるし、自分の価値観に大きく影響するだろう。言わば、リベラルアーツなのだ。


それを取り上げてまで「勉強しなさい」と強制してしまうのは果たしていかがなものなのだろうか。むしろ強制することで悪影響を及ぼす可能性は高い。

確かにマンガやゲームやYouTubeから離れて勉強している子に比べると学力が低くなる可能性もある。しかし、学力が将来において必須かどうかは微妙である。

勉強も読書もマンガもゲームもYouTubeも将来役に立つし、自分の財産になるし、自分という人間を作り上げるパーツになる。


それを自分でコントロールしようとするのは(相手のためを思ったとしても)避けるべきなのかもしれない。当人のやりたいことや大事にしたいことを尊重してあげるのがいいのではないだろうか。

ひとえに勉強といっても学問と向き合うことだけが「勉強」ではなかろう。勉強とは学ぶことなのだから、そのためのツールが学問でも読書でもマンガでもゲームでもYouTubeでもなんでもいいのだ。

もしできることがあるとするならば、「勉強をしなさい」と強制することではなく、世界観や興味関心の幅を広げてあげて選択肢を増やしてあげることだと思う。

そのためには自分が世界を広げ続ける=学び続けることが大事なのだろう。


そして誰かの世界を広げてあげることが今の会社でやっていくことなのかもしれないと感じたり感じなかったり。

それでは、また次回!



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