卒論が終わってしまいました…
こんにちは!あいでんです。
1日ぶりのalways LUNCH。習慣化していたものを一回辞めてしまうと、負の連鎖を止めるのにもパワー使いますね。
昨日の疲れもあってか、今日は店まで行くのがなかなかに億劫でした。でも行ったらやっぱり美味かった。
酒肴麺飯 アテニヨル天神 にて
▷卒論が終わってしまいました
本日の提出をもって大学生活最後の仕事であり集大成でもある卒論が終わりました。
卒論が終わった!!なのか
卒論が終わった、、、なのか
どっちも合わさった複雑な感情です。しかしながら、兎にも角にも卒論が終わってしまいました。
振り返ってみれば最初の卒論報告会は7/13。私の誕生日の前日ですね。そこから約7ヶ月の長い旅でした。
最初は「管理会計」「将棋」「ブログ」このどれかをテーマにしたいなあとざっくり考えていて、「管理会計」以外はつまらんとみんなから一刀両断されたこともあり、現在のテーマとなりました。
「誰も明らかにしていない、自分だけが知る真実を明らかにする」
これだけが卒論で唯一求められていたことでしたが、その要求がシンプルかつ一番難しいことだと卒論を通して痛感することになりました。
T先生からは「書けない自分と向き合って、1つの事実を明らかにするということがいかに困難なことなのかを学んでください」と指導されてきた。
確かにその通りだ。私が反射的に正しいと思っているや習ってきたことは先人たちが「おおよそ正しいだろう」ということを明らかにし続けた積み重ねの上にある。
巨人の肩に乗る、という言葉がありますが、これは別に論文に限った話ではなくて日常生活の多くが巨人の肩に乗っている上で成り立っているということに気付きました。
1つの事実を明らかにするためには他の明らかになっている事実を集めないといけない。つまりインプットだ。たくさん集めたら整理して棚に入れないといけない。これが先行研究の整理だ。
整理ができたら棚に入らないものが出てくる。それがなぜ棚に入っていないのかを考えないといけない。これが仮説の導出であり、ロジックを組むということだ。
仮説の導出が終わったら棚に入ってない理由が本当に考えていえることと一致するのかを確かめる必要がある。それが本当にそうなのかを検証しないといけない。いろんな棚や入れ方を確かめてみる。
このプロセスを経てやっと1つの事実を明らかにすることができる。そう、面倒臭いのだ。でも、それくらい1つの事実を明らかにするということは容易ではない。
私は卒論を書く前にこのようなことを考えていた。
大学時代に培っておくべきなのは「研究のやり方」であり、これはまさにこれからの時代において求められる「思考力」といえるのではないだろうか。
4年時に卒論を書く意味はここにあるのではないかと感じている。
果たしてその思考力を少しでも身につけることができたであろうか。
「勉強した100のうち成果として出せるのは1だ」と常々T先生は仰っていた。果たして、「100」もインプットできただろうか。「1」もアウトプットできただろうか。
書けない自分と向き合うというのは「足るを知る」ことだと私は感じた。
現に私はわかっているつもりだったものはわかっていないのだと気付かされたし、できると思っていたことはあんまりできないのだと気付かされた。
もしかしたらまだ気付いてない部分があるかもしれないけど、「足るを知る」には十分である。大学生の最後に卒論を書くというのは集大成を残す、形にするということでもありながら、卒業前に自分の現在地を知るためでもあるのかもしれない。
そんなことを考える卒論提出日の夜でした。
私の現在地を近々公開しますので、もし良ければご覧いただければと思います。
それでは、また次回!
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