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自己紹介

皆様、初めまして。
河合大樹と申します。

自分が学んできたこと、体感したきたこと、そして今学んでいることを発信していきたいと思っています。

まずは「河合大樹」という人間を知っていただくために、自分の生い立ちやこれまで経験してきたことを、まずは自己紹介という形でお伝えします。



人生のテーマ

僕の人生のテーマは、「成幸」です。

「成功」ではなく「成幸」なのは、功績は全ての人が掴めるとは限りませんが、幸せは誰しもが自らの手で創り出せると考えているからです。

人それぞれの幸せがあって、それぞれの生きる意味や価値があると思います。

自分自身にとっての「幸せ」を創り出す歩みが、人生だ、と私は考えます。

そんな私にとっての「幸せ」を表している歌詞や台詞があります。

back numberという国民的バンドの「瞬き」の歌詞には、

幸せとは
 星が降る夜と眩しい朝が繰り返すようなものじゃなく
 大切な人に降りかかった雨に傘をさせることだ

とあります。

また、大人気韓国ドラマの『梨泰院クラス』にて、主人公パク・セロイは、

不当なことや権力者に振り回されたくない。
 自分が人生の主体であり、信念を突き通せる人生。
 それが目標です。

と語っています。

私にとっての「幸せ」とは、自分が人生の主体であり、自分の大切な存在が困っているときに手を差し伸べられる状態です。

これを実現するには、確固たる経験や実力。知識。自信。が必要だと考え、日々邁進しております。


経歴・職歴

私は現在、3歳からのカラダの使い方教室「サムライスーパーキッズスクール」の運営、ファイナンシャルプランニング業務を行っております。今後更に活動の枠を広げ、ベビーシッターやスポーツ家庭教師、保険代理店業等も行っていきます。

なぜこの仕事を行っているか、というと、それは私のこれまでの人生によるものが大きいため、まずは経歴・職歴をお伝えさせていただきます。

経歴
・1997年1月8日生
・兵庫県尼崎市出身
・すばこベビー保育所※0歳9か月~小学校3年生まで
・武庫東からたち幼稚園
・尼崎市立尼崎北小学校
 ※小学校3年生から野球を始める
・尼崎市立塚口中学校
・関西学院高等部
 ※2014年夏・兵庫県大会ベスト4(主将)
 ※首席卒業
・慶應義塾大学
 ※2017年秋季リーグ戦優勝
 ※2018年春季リーグ戦優勝(主将・ベストナイン・27年ぶり連覇達成)
 ※全国大学野球選手権大会ベスト4(首位打者賞)
・大学侍JAPAN(東京六大学選抜・主将)
 ※2018FISU世界大学野球野球選手権大会優勝(世界一)

職歴
・これまで
 鉄道運転士 / 通信機器営業 / 飲食店立上・運営
・現在
 3歳からのカラダの使い方教室「サムライスーパーキッズスクール」運営
https://samurai-super-kids-school.com/
 ファイナンシャルプランニング業務

こちらとなります。

学生時代には小中高大、全てのカテゴリーで主将を経験。高校を首席で卒業し、大学ではチームや連盟の代表として、全国の舞台や世界の舞台にも立つなど、正直、自分自身でも出来すぎだなと感じております。

そして、今では、色んな仕事の経験もさせていただき、今も自分が取り組みたいことに時間を使えています。


自分を創り出した背景

そんな自分自身の「過去」そして「今」を創り出した要因として、私は、大きく三つあると考えています。

一つ目は、幼少期の過ごし方
二つ目は、きっかけを与えてくれた人の存在
三つ目は、成長につながる環境に身を置けたこと

ひとつひとつ、深掘りをさせていただきます。

まず一つ目の、幼少期の過ごし方について。

なぜここに着目したかというと、学生時代を振り返ると小中高大それぞれのステージで、特に周りと変わったことをしていなかったからです。

というのも、みなさんが思い浮かべる学校の教育を僕自身も同じように受けていたからです。
先生が前に立って、対マス(集団)で生徒が授業を聴くという、昔から続く日本の伝統的な教育を受けてきました。

周りの友だちも同じ環境で学習を進めており、中学生のときのみ、受験のために塾こそ通っていましたが、地元の多くの子が通う塾に通っていたため、自分だけ特殊な勉強法を用いていたということもありません。

小学校3年生から大学4年生まで続けた野球に関しても、特別な野球塾に継続的に通ったり、パーソナルで指導を受けたりということはほぼしていません。
※高校、大学については自身の成長に対して、身を置く環境を選択したという側面はあると感じています。

ただ、小さいころから、何事も自分にはできるんじゃないかという根拠のない自信を持っており、更に就学後の勉強や課外活動での成功体験が自分はできるという根拠のある自信も育ててくれました。

高校、大学では挫折も味わいましたが、それでも努力を積み重ねることで想像以上の結果を手にすることができ、正しいことをやり続ければ必ず結果はついてくるという確信も手に入れることが出来ました。

小学生のころから、周りよりも勉強や運動が出来るという感覚はなんとなくあり、リーダー的なポジションを任されることも多かったです。

となると、自分自身の幼少期の過ごし方に、なにかきっかけがあるのではと考えました。

僕の幼少期についてですが、経歴でも記載した通り、0歳9か月から保育園に入り、小学校3年生ぐらいまでを過ごしました。

親が共働きだったということもあり、朝7時から遅いときには夜9時までお世話になっていました。

物心がついてからの過ごし方を振り返ると、朝7時に登園し、保育園の窓やシャッターを上げる仕事、続々と入ってくる子どもたちとの遊びやお世話、お昼寝、文字の読み書き、俳句発表、保育園の畑仕事の手伝い(土日にも先生に連れて行ってもらった記憶があります)、室内遊び、外遊びをして、続々と迎えにくる子どもたちを見送り、保育園のシャッター締めなどの仕事を手伝い、夜9時にお迎えが来て帰る。こんな生活をしてました。

幼稚園にも通うようになってからは、園内でのプログラム(英語学習、お泊り保育など)も経験しました。

最近、教育についての文献を色々と読んでいると、6歳までに生きる力の基礎がつくられること、子どもの頭脳は6歳までに90%が出来上がること、コミュニケーション能力といった非認知能力と言われる能力の刺激を幼少期に受ける重要性、運動能力の基礎となる神経系も6歳前後に急速に発達することがわかりました。

これを踏まえて幼少期の過ごし方を振り返ってみると、言語に触れ、身体をたくさん動かし、たくさんの子どもと触れ合い、たくさんの大人に育てられ、幼少期にするべき大切なことが詰まっています。

当時、両親との時間が人と比べると少なく、寂しいと思った時期もありましたが、その時期が今の僕を支えてくれていると思うと、とても濃い幼少期を過ごしたのだなと思います。


二つ目の、きっかけを与えてくれた人の存在について。

僕には進路を選択する際、必ず、きっかけを与えてくれる存在がいました。
これは全て両親以外の存在です。

進路については、最終決定先を伝えることがほとんどで、進路を選択する際、両親にほぼ一度も相談をしたことがありません。

小学校、中学校は地元の公立の学校に通い、小学校3年生から野球を始めました。中学校では硬式のクラブチームも選択肢にありましたが、自分が好きだった先輩の後を追って、中学校の軟式野球部に所属しました。

中学生の頃には、自分の将来については、公立の高校に入って、大学に進学、公務員になれたらいいなとなんとなく考えていました。

しかし、高校進学を決める際、元々は勉学に特化した国公立の高校を受ける予定でしたが、当時の野球部の顧問の先生に、「河合は野球もできるところに行ったほうがよい」と念を押され、僕が尊敬している先輩からも「お前は絶対に野球をしろ」と伝えてもらったことがきっかけで文武両道を目指せる関西学院高等部への進学を決めました。関西学院高等部は基準を満たせば、関西学院大学への内部進学も可能で、受験を大きく意識せずに、目の前のやりたいことに打ち込めることも魅力のひとつでした。

また、大学については関西学院大学への内部進学を想定していましたが、高校3年生での進路先を決めるとき、当時の野球部長の先生から「東京で広い世界を見た方がいい、河合は東大に行け」と言われたことをきっかけに、東京への大学進学も視野に入れることになりました。結果的に、先輩方が多数進学されていることや、勉学以外の部分も評価していただけるAO入試での慶應義塾大学の受験を決めました。

このきっかけを与えてくれた方々も転校してきたことをきっかけに仲良くなったり、進路を考え始める2年生になるタイミングで顧問の先生や部長の先生が代わったりと、ここにもなにか運やご縁といったものを感じます。

このように、僕には進路を選択する際、今より大きな世界を示してくれる方の存在がありました。

そういった方々は、いつも自分の意見、経験を押し付けるわけではなく、僕にとって最善の選択を自分自身ができるように背中を押してくださりました。子どもたちには、より多くの大人や可能性を広げてくれる方と出会ってほしいと思いますし、僕自身も目の前の人にとってそんな存在でありたいと思っています。


三つ目の、成長に繋がる環境に身を置けたことについて。

特に自分自身が劇的に成長したと感じているのが、高校生、大学生だった期間です。高校、大学では今までと全く違う環境の中で育った人と出会うことで、価値観の広がりを体験しましたし、高い基準を持つ方々との時間は自分の基準を高めてくれ、大きな成長に繋げてくれました。

関西学院高等部での目標は、勉学においては学年で1位を取得することでした。

学年で1位を取得する目標をなぜ設定したかというと、卒業時に成績が1位であると、10万円を賞としていただける制度があったためです。1位を取るということ自体にも自分の頑張りが結果として見えるという価値を感じていましたし、それに加えて両親に貢献もできるとなると頑張らない理由はありませんでした。

とはいえ、優秀な人が集まる関西学院という環境、そして部活動でも結果を出したいという想いを持っていたので、普段の練習だけでなく残って練習をする時間も必要となると、簡単なことではありませんでした。

差をつけられるとしたら、ひとつの授業での意識の持ち方、そして授業前後の時間だなと考え、1回の授業で自分の理解度をより高める工夫をしました。英語の授業でいうと、毎週単語テストを行うのですが、ここで満点を取り続けることにもこだわり、短い時間での集中を意識し続けてきました。

英語での授業はひとつの例になりますが、結果的に他の教科においても成績を上げることができ、関西学院高等部の理系コースを首席で卒業することができました。

部活動においての目標は、「選手として甲子園に出ること」でした。

「選手として」とあえて書かせていただきましたが、僕は選手として出場することを大切にしていたからです。これまで自分を支えてくれた両親や入学するきっかけをくれた方々に結果として見せることが最大の恩返しだと考えていました。

ただ150人を超える大所帯、かつ中学校の恩師からも「一生球拾いでもいいか」と念もおされたような環境であり、自分自身が選手になるまでの道のりは決して簡単なものではなかったです。入部当初の身体づくりではついていくことができず、野球部を辞めたいと思ったことすら多々ありました。

中学校までは軟式野球をしていましたが、高校からは硬式に代わり、中学校から硬式を経験してきた人とのアドバンテージや全国大会を経験してきたような人との差は大きくありました。それを埋めることが出来るのは、努力、それ以外にありません。

関西学院高等部野球部の環境は全体練習は比較的短く、残りは主に自主練習の時間でした。この環境自体も僕自身を育ててくれたと思います。そもそもの差を感じている分、とにかく人一倍練習しました。一緒に練習をしていたのもチームで一番バッティングセンスの高い選手。

結果的に高校3年生時には選手となり、主将も任せていただくことができました。部員が多い分、色んな想いを持った部員がたくさんいますが、最後の夏の大会では県大会ベスト4という甲子園まであと一歩のところまで歩みを進めることができました。

当時の関西学院高等部は150人を超える大所帯で、同期は56人
最後の夏はベスト4で引退


慶應義塾大学での生活は、野球中心の生活となりました。住むところもグラウンドから近いところに置き、キャンパスまでは2時間かけて通っていました。大学2年生からは寮生活も経験しました。人生が始まってから初めて親元を離れ、知っている人が全くいない環境に飛び込みました。

慶應大の野球部は学生野球の起源ともいわれる早慶戦があるなど、日本の学生野球界を牽引する伝統ある野球部です。所属している東京六大学野球連盟は明治神宮野球場でリーグ戦を行い、各スポーツにおいてひとつしか与えられない天皇杯はこの東京六大学野球連盟の優勝校が手にします。毎年プロ野球選手を多く輩出することもあり、リーグ戦のレベルも非常に高い。そんな野球部に所属しました。

入部してまず思ったのは、こんなレベルの高い環境で自分はやっていけるのか、ということ。練習を見ただけでも自分との差は歴然でした。ただ高校生のときと同様、なんとか自分の頑張った結果を見せたいという想いから、大学4年間の中でなんとかベンチ(約180人の部員に対して、ベンチ入りは25人)に入りたい、そう思っていました。

ただ与えられるチャンスはごくわずか。当時下級生は基本的に練習のサポートがメインだったため、与えられたチャンスを自分のものにするべく、朝一番にグラウンドに行き、一番遅く帰る、そんな下級生時代を過ごしました。1球1球への集中力は相当なものだったと思います。上のチームにあがっては、下のチームに行く。そんな環境でした。

なんとかチャンスを掴んでいき、2年生の夏からは本格的にメンバーに帯同できるようになりました。2年生の秋のリーグ戦では初戦からスタメンに抜擢していただきました。しかし、このリーグ戦において、自分のミスで敗北を経験するなど、実力のなさを痛感させられました。ただ、この経験が自分の成長の大きな糧となり、日本最高峰の舞台で活躍するには、それ相応の基準、意識で練習する必要があると教えてくれました。

チームでの目標は「リーグ戦優勝・日本一・早稲田に勝つ」でしたが、「ベストナイン・首位打者」を個人の目標に掲げました。その目標に向けて、今の自分とのギャップを洗い出し、常にテーマを持って練習に励むようになりました。

その結果、チームとしては27年ぶりの連覇を経験し、個人としても4年生で主将を務め、リーグ戦においてベストナインを獲得し、全国大会においても首位打者を獲得することができました。

東京六大学リーグにて4年春にベストナインを獲得し、
全日本大学野球選手権大会では打率.636で首位打者賞を獲得


更に侍ジャパン(東京六大学選抜)にも選出され、世界一も経験させていただきました。三連覇や日本一が達成出来なかったこと、自分たちの代で早稲田に勝てなかったことには悔いを残しましたが、その後、後輩たちが雪辱を果たしてくれましたし、目標を明確にし、正しい努力をすることができれば結果はついてくると確信を得た4年間となりました。

高校も大学も書ききれないほどのドラマがありましたが、この環境に身をおいたからこその経験、成長ばかりで、多くの「成幸」を感じることができました。

この環境に入れたのは、多くの支えがあったからこそですが、精神的、そして金銭的な両親の支えがあったからこそで、人によって良い環境というものは多様かと思いますが、自分にとって良い選択が出来る状態をつくってくれていたことに僕は深い感謝があります。

常に自分たちのことは後回し。決して裕福な家庭ではなかったにも関わらず、僕の選択を全て尊重してくれました。

自分の親がそうだったように、多くの親が子どもがやりたいと思ったことをさせてあげたい、と考えておられるのではないでしょうか。

その中で金銭的な工面は重要なポイントですし、そんな親御さんも子どもが巣立ったあとの人生を楽しんでいただきたい、との想いから、金融の仕事にも関わっております。


これからについて

ここまで今の自分が形成された背景をお伝えさせていただきましたが、生まれながらのサラブレッドではない僕にとって、今までの結果は間違いなく、積み重ねられてきたもので、運やご縁も味方につけてきました。

そして、どんな道でも、通ってきた道は必ず「今」や「未来」に繋がります。

振り返って感じることは、物事への取り組み方や意識がこの結果を創り出したということです。そもそもの姿勢の部分は誰に教わるでもなく、備わってきたものなので、全ての土台となっているのは、紛れもなく幼少期の生活だと思います。

小さい頃の色んなことを伸び伸びとできる環境が、自分にはできるという根拠のない自信を育て、経験を重ねるごとに根拠のある自信に変わり、壁に当たっても正しいことをやれば結果になるという確信に変わっていきました。

まだ自分自身で選択の基準を持っていない幼少期は、一緒にいる人の影響をもろに受けますし、何より今は変化の激しい時代です。

子どもたちには、将来、自らの「幸せ」を自らの手で掴みとっていく人生にしてほしい。

だからこそ、子どもたちの過ごす環境をより良いものにしたい。そう思います。

これを考えることは、これからの社会を担う子どもたちだけでなく、教育に携わる大人にとってもすごく重要なことだと考えています。

まだまだ自分は未熟で、人から与えられることの方が多い人間ですが、そんな今の自分にできることから社会に貢献していきます。



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