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強制や矯正ではなく「共生」する

昨日、3年間ご支援していたプロジェクトが終了しました。発達に遅れがあるとされる子どもたちむけに療育を行っている法人様です。その療育を行うスタッフを育成するための施策に取り組んできました。

「発達に遅れがある」と書きましたが、捉え方の問題だと思います。そもそも発達のあり方には多様性があるわけです。「遅れ」と捉えるのは何か基準があって、そこから遅れているということですね。

とはいえ、その基準を否定するつもりはもちろんありません。過去の知見から積み上げられた基準があるからこそ、一人ひとりの子どもたちの状態を見立てて、その子なりの適応を手助けすることができるわけです。

大切なのは、基準にあわせて、矯正したり、強制したりするのではなく、「共生」することなんだろうな、とプロジェクトを支援しているうちに思うようになりました。同じ「きょうせい」でもずいぶん違いますね。3年間、いっしょにプロジェクトを進めてきて、たくさんのことを学びましたが、そのうちの大切な考えかたの一つです。

ここでいう共生とは、「本人が本人と」ということでもあるし、「本人が社会や他者と」ということでもあります。これは、親御さんも同様だし、むしろ、こっちの方が心情として複雑かもしれません。

これは、この法人様のケースではないですが、例えば、人と関係を築くのは得意じゃないし、授業をおとなしく聴くことはできないけど、独自のやり方で算数の問題をスイスイ問いちゃうような子もいます。

「それってすごいじゃない」って私は思います。
ところが親御さんによっては「すごくなくてよい。“普通に”みんなと仲良くなってほしい。特別扱いがかえって辛い」ということもあります。

発達やその捉え方には本当に多様性があります。でも、私たちは、多様であることに気づいていない。「普通」っていう基準をなんとなく作れてしまうのが、私たちの賢さであり、ときに裏目に出てしまう賢さの構造的な欠陥です。

違う例でいうと「顔」があります。一人ひとりの顔の違いは認識できるのに、あまりに自動的に認識できてしまうので、その違いをわざわざ言及することは少ない。でも、明らかに「違う」と感じた時、色々と意味づけをすることもできてしまう。ときにそこに悲劇も生まれます。

私たちは、仕事の場面でも「普通」の基準をなんとなく使っています。「これができるようになって『一人前』」とかって表現されますね。

このプロジェクト自体、新人スタッフがクライエントに療育サービスを提供できるようになることを目指すものでした。

プロジェクトの最初に問いかけたのは「一人前の療育者ってどういう人ですか?」というものです。

返ってきたのは、「療育の探求に終わりはない。一人前だと思ってしまったら療育者としては終わりである」という答えでした。この答えに接したときの気持ちは、ちょっとワクワクする気持ちだったと記憶しています。

ながく人材育成や業務改善のご支援をしてきましたが、いつも違和感を感じていたのは、「標準化」という言葉の捉え方です。

基準を作って多様性をコントロール(強制・矯正)するのか、それとも、わたしたちにとっての「いま・ここ」でのあり方をみんなで見出して、多様性の共生をマネジメントするのか、という違いです。このプロジェクトのお陰で、私は後者のアプローチをとりたいんだなと気づくことができました。

それが私の持ち味であり、コンサルタントとして生かしたい特性だと思います。そんなポテンシャルは自分では気づきにくいものです。一人ひとりのポテンシャルに蓋をしない、その人らしさを大切にする、そんな風にありたいと思います。

実は、このプロジェクト、組織開発系の資格を取る際に学んでいた際のクラスメートからの紹介でした。昨日は、彼女もミーティングに参加していたので最後に聞いてみました。

「このプロジェクトのファシリテーション、なぜわたしにお願いしようと思ったんですか?」

「クラスメイトに聞いて回ったら、馬場さんが良いんじゃないっていう方が多かったんです」

あぶない、また、泣いてしまいそうだった。
私が見えていない私のあり方に、フィードフォワードをいただいていたのですね。

あらためて、感謝申しあげます。

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