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小さく生きる―半隠居というライフスタイル―


普通って”誰の普通”ですか?


 高校を卒業したら、大学に進学して、
 大学でがんがん専門分野を勉強して、
 そしてどこかの企業に就職して、
 週5で朝から夕方まで働いて、
 そんな生活が40年、いや45年。

 これが世間一般の”普通”と言われている生活です。
 いわゆる”普通の人生”です。

 日本人は比較的”普通である”という状態が好きなようで、みんなが右を向いたら右を、左を向いたら左を向くのが『良いこと』とされていますし、逆にみんなと同じことをしなければ「協調性がない」と叩いたり、排除したりする傾向が強いようです。

 さて、以下にある物語を載せておきます。
 この話を読んで、あなたはなにを感じるでしょうか? 

メキシコの田舎町。
海岸に小さなボートが停泊していた。
メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。
その魚はなんとも生きがいい。
それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」 と尋ねた。
すると漁師は「そんなに長い時間じゃないよ」と答えた。
旅行者が「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」と言うと、漁師は「自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だ」と言った。
「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」
と旅行者が聞くと、漁師は、
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタして。 夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」
すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。 それであまった魚は売る。お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキシコシティに引っ越し、ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」
漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「20年、いやおそらく25年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て、 日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。 どうだい。すばらしいだろう?」

 この物語の中にはまったくベクトルの違う”普通”がふたつ存在します。
 まず地元の漁師にとっての”普通”、
 次にアメリカ人旅行者の”普通”です。

 それぞれに”普通”があって、それぞれがその”普通”という囲いの中で人生を送っています。
 あなたがどちらの”普通”に魅力を感じるかはあなた次第ですが、もし「地元の漁師の普通」に魅力を感じたなら、このままこの”note”を読み進めても時間の無駄にはなりません。
 この”note”は「”世間一般の普通”を今一度疑ってみませんか?」という内容だからです。
 そのうえで、「その”世間の普通”に無理に合わせなくていいんじゃないですか?」という話だからです。
 そして「自由に小さく生きていきましょう、それで大丈夫だから、頑張らなくても生きていけるから」という、ある種『心の安定剤』のような”note”でもあるからです。



”背負わない”というライフスタイルです


 二人の旅人が、ある山を登ろうとしています。
 ひとりは背中に大荷物を背負っています。あまりに荷物が多いので、歩くのも大変そうです。
 一方でもうひとりの旅人は、旅に必要な物のほかはほとんど荷物を持っていません。軽い足どりで悠々と山道を登っていきます。

 先に頂上に着くのはどちらの旅人でしょうか?
 そもそも二人ともがちゃんと頂上にたどり着けるのでしょうか?
 小学生でもわかります。
 きっとちゃんと頂上にたどり着けるのは「身軽な旅人」のほうでしょう。
 もしかしたら「大荷物を背負った旅人」は途中で足を痛めてしまうかもしれません。
 なぜですか?
 その「大荷物」のせいです。

 これと同じことが私たちの人生にも言えます。
 私たちも毎日、長い長い旅をしています。
 すこし格好つけた表現で言えば『人生という旅路』といったところでしょうか。

 そしてその『旅』には山もあれば、谷もあります。
 あの二人の旅人のように、険しい山道を行かなければならない時もありますし、また別の時には荒れ狂う猛吹雪の中で、それでもがむしゃらに前に進まなければならないこともあるでしょう。

 そんなときに、私たちが背負っている荷物が、私たちを邪魔することがあります。
 これまでたくさんの荷物を抱えてきたせいで、人生の大事な局面で足を痛めてしまうことになるかもしれません。

 あなたにとって「人生の荷物」とは何ですか?
 住宅ローン、友人関係、家族や親族、または実際に所有している持ち物でしょうか?
 もちろんこの「荷物」があったおかげで、苦しい時期を乗り越えることができた、ということもあるでしょう。
 特に家族、その中でも子供は、力を与えてくれる存在です。

 でも、あの時には「良い荷物」だったものが、今では「ただの重たい荷物」になってしまう、というのもまたよくあることです。

 それで私は、”背負わない”ことにしました。
 なにも背負わないということはとても無理な話ですから、私の言う背負わないは”できるだけ背負わない”という意味です。

 これは私がミニマリスト(この呼び方はあまり好きじゃありませんが)になった直接的な原因でもあります。
 とにかく、「面倒なものは背負わない」ようにしたのです。
 ある意味では自分に素直に、そして他人に対してわがままになったのです。

 ローンではなく、現金で。
 そもそもそれほど値の張るものを本当に今買わなければならないのか。
 友人関係は整理整頓。
 たまにしか連絡を取らないような友人は、本当に友人なのか。
 家族や親族とも、無理に合わせて付き合わない。
 無理して合わない人に合わせると疲れるだけ。
 物は極力持たない。
 持つなら質の良いものを、最小限度で。

 ここ十数年来、私のシンプルなライフスタイルは変わりません。
 好きに物を買えないなんて、かわいそう? いえ、大丈夫です。
 まったく辛くないです。辛くないどころか、快適そのものです。
 そしてこの快適さは、自分で味わってみないとなかなか想像することさえできません。
 知ってる人だけが味わってる、そんなレベルの快適さなのです。

 ”できるだけ背負わない”というライフスタイル、強くお勧めします。



半隠居!? ただ事じゃないですね??


 隠居というと、「世捨て人」をイメージするかもしれません。
 社会とかかわらず、社会の常識やルール、それこそ”普通”に無頓着で、半ば森の中の仙人のような、高齢の男性。
 そんなイメージでしょうか。

 しかしながら、さすがに現代日本でそこまで徹底的に社会との関りを断つのは無理というもの。
 では、『半隠居』はいかがでしょう?
 セミとか、プチをつけてもいいです。
 『プチ隠居』、なんだか可愛らしさすら感じられます。

 それでも、たとえどんなキャッチーな言葉を付けて薄めても、『隠居』というのはただ事じゃないにおいがします。
 大丈夫です。楽しいシンプルライフのスタートですから。

 社会の常識とかけ離れる?
 そんなの問題ありません。
 そもそも、社会の”普通”がすこし歪んでいるのです。

 誰が「勉強して良い大学に行かないとだめだ」と決めたのですか?
 誰が「大企業に入らないと人生が豊かでない」と決めたのですか?
 誰が「新築一戸建てとハイセンスなミニバンをローンを組んで手に入れないと不幸だ」と決めたのですか?
 誰が「65歳までバリバリ働いで社会とつながりをもっていないと真人間じゃない」と決めたのですか?
 誰が「ブランド物を買って、いいレストランでディナーを食べないと幸せとは言えない」と決めたのですか?
 誰が「年に二回は海外旅行に行かなきゃ普通の家庭じゃない」と決めたのですか?

 これが”普通”の人生なら、それはもう”歪んだ普通”だとは思いませんか?
 「大量生産、大量消費を際限なく続けなければこの社会は維持できない」というのはわかるような、わからないような話です。
 本当に「大量消費すること」をみんなが望んでいるのですか?
 それともただ単に「買い物しなきゃ」と思い込んでいるだけでしょうか?
 そう思い込まされているのではありませんか?

 どこかおかしい、とは思いませんか?

 社会一般、世間一般が歪んでいるのなら、そんな社会にあなたの人生をフィットさせる必要はありません。
 それよりも、単に社会から距離を置くだけでずっとシンプルに生活できます。

 なにもすぐに会社を辞めて、森の中に移り住んで、自給自足をやれと言っているわけではありません。
 「半隠居」、「プチ隠居」でいいのです。
 そしてそういう生活をすればわかるようになります。
 いかに「社会一般に合わせるのが呆れたことなのか」が。
 別に社会一般に常にフィットしていなくても、「生活に何の問題も起きない」ということが。
 むしろ社会一般とはある程度距離を置いていたほうが「快適だ」ということが。



なんてことない半隠居のテクニック


 ちょっとだけでも「半隠居面白そうだな」と思ったら、以下のことにチャレンジしてみてください。
 意識するのは、社会と距離を置くこと、そしてシンプルであること、この二つです。

 ・仕事は減らしていく
  今正社員で残業もあるなら、残業はもうやらないようにする
  可能なら労働時間を減らす方向で動いてみる
  (パート・アルバイトを検討する)
  週3日や一日4時間程度の労働が理想的

 ・衣食住の再検討
  支出は可能な限り減らす
  とくに毎月固定で発生する費用をカットする
  (サブスク料金や新聞代、テレビの視聴権などはカットしやすい)
  可能なら車を手放す
  可能なら保険や家賃支払いなどもカット検討する
  (とにかく聖域を作らないことが大事、意外と削れるところはある)
  外食や総菜が多いなら減らす
  ファッションにもこだわる必要はない

 ・対人関係を減らす
  家族を重視して、同僚や親族関係は減らす
  誰かに合わせるために無理しない
  いやなことは「拒絶」する
  (それを態度や言葉ではっきり表現する)
  疲れると感じたら、それは無理してる証拠

 ・やりたいことをやる(ここ重要)
  自由でいるようにする
  思いっきりわがままになる
  やることをいくつも抱えない
  週に数日はなにもしない日をつくる
  重たいと思ったものは捨てていい

 どうでしょうか?
 案外難しくないと思いませんか?
 「半隠居」とは言っても社会との関りを一切断つわけではありません。
 社会のために使っていた時間や体力を、自分や家族に振り分けていきましょう、ということです。



 小さく生きる


 何度も言うようですが、「サラリーマンであること」が普通なのではありません。
 そんな”普通”は歪んでいます。
 そしてそんな”歪んだ普通”に合わせている時間も体力も無駄です。
 その時間と体力をあなたと家族のために使いましょう。
 そのためには、持ち物や背負っているものを減らさないといけません。
 収入も減るでしょう、友人も減るでしょう、「あいつはどうかしてる」と笑われることもあるかもしれません。
 それでも、その人生はあなたの人生です。
 この時間は貴重なあなたの時間です。
 あれもこれもと手を広げないでください。
 本当に大切なものは、そう多くありません。
 自分自身と家族。
 それぐらいのものです。

 大丈夫です。
 なんとかなります。
 そしてなんとでもなります。
 社会に合わせなくても幸せに生活することができます。
 むしろ、社会に合わせない人生のほうがより豊かに、そして幸せに生活できることに気づくでしょう。

 もっとシンプルに考えましょう。
 もっとわがままに、自由にふるまいましょう。
 大きく生きる必要はありません。
 小さく小さく、小さくても自由に幸せに生きましょう。

 フィジカルも、そしてメンタルも、
 ”小さく生きる”なら今よりずっと楽になります。
 命をすり減らしながら、歪んだ普通を強制する社会のために生きるのが、「なによりの生き甲斐だ」というのならそれもいいでしょう。

 一部、そういう生き方で幸せを感じる人もいるでしょう。
 ただ私を含め大半の人は、そうではないはずです。

 社会一般に合わせることに疲れ、悲鳴を上げながらも、そこから逃げ出すこともできず、なにかが起こって救い出してくれるそんな他力本願ななにかを待ち続けていた人にとって、この”note”が「一歩を踏み出す力」になったなら、これ以上の喜びはありません。

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