文章って、不完全でいい。
最近すごくよく考えることがある。
それは自分の書く文は完璧ではないっていうこと。
noteは今のところはつづいてはいるが、ちょっとだけ書くことに疲れてしまうときというのがある。
それは自分に期待しているからだと思う。
自分に期待してるからその重荷をどこかで感じながら、それをうっかり直視しないように書ききる。しかし出来上がったものは理想とはほど遠くて、そのことにまた辟易としてしまう。
けれど何度もその期待に裏切られているうちにすこしずつ見えてくるものがある。
「あ、おれって完璧じゃないんだ」
なんども自分に裏切られた挙げ句、半ばやけを起こしたようにそんなことに強引に気づく。気づかされる。
それは自己に対する否定とはまた少し違って、『諦め』と呼ぶのが結局は正しいし、しっくりくるような。
そうやって目の前に突きつけられた不完全さをはだで感じながら、今日もこうやって文章を書いていく。
そんな経験できるのも文章を書いているからであって、この『諦め』挫折感が尊くもある。
だってこれは他でもない自分と会話しているということだから。
わかり易い文章? 人を傷つけない文章? 多くから支持される文章?
そんなもの書けない。だって私は私なんだから。私は私と話すための文章しか書けないのを知ってしまっているから。
一行一行進めていく。繋がり、社会性、整合性、統一感。そのたびにすべてが手のひらから滴のように一つ一つこぼれ落ちていくような感覚。
残るものはなんだろう。すかすかの両手ですくった水の、こぼれなかったほんのすこし。これはなんだろうか。
それはきっと不完全な文章であり、不完全な自分そのものである。
そういうものを書ければいいな、とおもう。だれに媚びへつらうでもなく、批判を恐れず、醜くても人間らしさの溢れているもの。
そして他でもない私が人間のそういう部分、他人のそういう部分を見たいのだ。そして肯定してあげられたらそれはどんなに素敵なことだろうと思う。
だってみんなホントはわかっているのだ。自分は特別じゃない。すごくない。完璧じゃない。完全じゃない。
でもそんな人間性にあらがって今日も頑張って文章書いてるのだ。特別じゃない自分を許せなくて、だれかに認められたくて、苦しみながらやっと次の一行を絞り出してるのだ。
もう何を言いたかったのかすらあいまいだが、とにかく完全じゃないのでそれもありとしていきたい。
抽象的な物言いになってしまうのもあり。具体的すぎて自分しかわからなくてもあり。誤字脱字もあり。あらゆる不完全さが、読み手の中で、私の人間性として立ち上がってくることを願って。
ゴミ箱に放り投げるように。画面にねじこむように。誰かに怒鳴り散らすように。海に静かに流すように。今日もキーボードを叩く。もはや自分が一行前に何を書いていたのかすらおぼえていないくらい即興で。もうどうにでもなれ、ってくらいの心意気で。
読んでくれてありがとうございます。
この感謝が届くだけでも今は充分だと思える。
だから良ければあなたもなにか書いてください。絵でも良い。言葉でもいい。完全を諦めて、不完全な喜びに浸れることを。
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