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[小説 23時14分大宮発桜木町行(1)]僕の進む未来

 「…痛ってっ…」

 殴られた。新橋駅のコンコース。肩がぶつかったと気付いた瞬間。週末でもないのにほろ酔いで紅潮したオッサンの目の座った正義面と、俺の頬を目がけて伸びる拳が目に飛び込んだ。

 「…だっせっ…」

 ドアの窓に映る腫れた顔に、寂しげに照らされる公園の薄ら明かりが重なって、惨めさが加速する。

 確かに俺のほうが悪い。歩きスマホでバトルゲームに没頭していた。擦れ違う人を見ているつもりで、全然見ていなかった。

 でもなんで、俺だけこんな目に遭うんだよ?
 あそこの優先席に我が物顔で座っている、趣味の悪いピンクのキャリーバッグを転がせていたあの女はどうなんだ?エスカレーターの乗り口でモタモタとニヤついた顔でなにかに返信していたじゃないか。
 向かいにいるクールビズ崩れの冴えないサラリーマンだって、モンスター探しで画面に目を奪われグズグズふらついていたぞ。
 なんで俺だけ…

 映る俺の気の抜けた顔をやり過ごして、車窓の先に流れ去っていく景色を見ていた。地味な街のネオンが見え、減速して止まり、ドアが開く。その度に襲われる気まずさを、気付かない振りでやり過ごす。ただ堪える。
 駅からゆうるりと離れ始めると、もたれたロングシートの仕切りに向けて、俺は首を反らせ目を閉じた。

 

 今朝、部長に叱責された。プロジェクトマネージャーから、リーダーを飛び越して直々にだ。

 製造工程を一括管理するスマートフォンアプリケーション開発のUI担当。画面設計は未経験で正直重荷ではあったが、面白味に気付いてからは自分でも可笑しい程、真面目に取り組み、のめり込んでもいた。見た目のいい結構いい出来だと、それなりの自信もあった。

 「自己満足なんじゃないか?誰のために作っているんだ?!」

 その通りだ。ご指摘通りでぐうの音も出やしない。

 俺自身が使いたいと思えるものがニーズに繋がる。その考えは的を得ている筈。要件もしっかり押えたつもりだ。

 ところが、凝った見栄えに気を取られ、構造が複雑になり過ぎた。仕様の説明を求められたが、俺の思いを交えるどころか、要件をどう押さえたのかさえも説明できない程、出来上がったものはとっ散らかっていた。

 前回のレビューでのリーダーの「任せた」との言葉にいい気になり、その後のアドバイスをスルーして暴走した結果が、これだ。

 言い訳なんて格好悪い。それでも何故か素直に謝ることもできず、俺は押し黙ったままだった。きっと、物分かりの悪い不貞腐れた顔をしていただろう。

 切れた口の中の血が滲んで、鉄臭い。今ならまともな言い分を思いつく。今更思い浮かんだのだから、その時言える筈もない。そんな自分が苦々しい。

 

 何やってんだろうな、俺。こんなだったっけか?

 思い描いた未来と違う…いや、思い描いていたものなんて、あったんだろうか?

 

 高校二年の三月、津波で俺の故郷は何もかも変わってしまった。家族は全員無事だったが、母方の叔父と姪っ子を失った。自宅もなくなった。

 東京の団地に避難し転校した高校での日々など、思い出したくもない。あり得ない。

 「国公立に合格できなければ進学は無理」残りの約一年を勉学のみに集中する。胸クソ悪い周囲の偏見さえ、都合よく読み替えてモチベーションにし、やり過ごした。

 住居と父親の仕事の目途がついて家族は地元に帰り、俺は大学進学を機に東京に残った。よく頑張ったと自分ながらにも思う。運も味方してくれたようだ。

 そこからは充実していたと言える。大学では気の合う仲間に出会い、凝り固まった感情も幾らか和らぎ、資格も幾つか取得した。地方の感覚で言えば大きな会社に入ることもできた。

 そう。最悪とも思えた時期を振り返れば、それなりに軌道修正できた筈なんだ。俺自身で考えて選んだ生き方が、今この時の、この俺である筈だ。

 それなのに、なんで俺、見知らぬオヤジに殴られてるんだ?どうして素直に自分が悪いと認められないんだ?こんな無様な姿を晒す俺は、明確な未来を描いて進んでいるのか?

 

 「これ読んで、もういっぺん頑張ってみな」

 リュックの中には、叱るだけ叱った部長が呆れ気味の表情で俺に手渡した単行本。洋画の原作のようだ。ちらっと覗いたが、ページを捲る気には、まだなれない。

 消化できない感情が消し去れたら。フーッと息を一回吐いて、ホームに降りた。

 

 いつも通りの帰り道のコンビニ。思うよりも苛立っているのか、スナック菓子やスイーツで籠の中が一杯になっていた。

 ところがさすがに食べきれない。さっきの転倒で擦れが目立つスラックスも、食い散らかした後の包装も放りっぱなしで、ベッドに仰向けで転がった。

 

 やけ食いの成果だ。さっきまでの鬱屈した思いを逸らすことができた。無理矢理借りさせられた本をようやく開いた。

 小説をまともに読んだことがない俺は、一瞬躊躇した。

 不遇な生い立ちと屈辱の日々の中で、旧空軍の男と偶然出会い影響を受け、一つの夢を見つけ挫折を繰り返し成長する青年の物語。初版は22年前。部長が学生の頃だろうか。

 主人公の行動は何もかも俺と違う。それでも一枚ずつページを捲っていく。行間から滲み出る主人公の感情に自分自身と重なるものが見えてきて、徐々に惹き込まれていく。

 ただし俺は読書に慣れていない。気付けば寝落ちしていた。

 

 ビル敷地内のオープンテラスでの翌日の昼休憩。俺は物語の続きを読んでいた。読書に耽る自分を同僚に見られるのは恥ずかしい。設計の軌道修正は遅々として進まない。部長への今朝の挨拶も気まずいままだ。

 自分でも驚く程読み進めた。頬と打撲の痛みも落ち着いた土日も没頭した。

 ただ、読み進めるうちに心に引っ掛かることが増える。ページの進みが遅れ始める。その遅れは、俺自身が無自覚だった思考に立ち止まる数と比例していた。

 開け放した窓に雲間から夕日が射している。取り乱し拳銃を手にした男に青年が必死に制し放つ一言。そのページには、しおり代わりに葉書が差し込まれていた。

 部長に宛てられた「Santa MonicaBeach」の絵葉書。左端だけ色褪せた西海岸の写真の裏には「Los Angeles」と押された26年前の消印。
 そういえば忘年会の場で、留学したことを自分を自嘲するネタにして笑っていた。無駄遣いだったと、紅潮した楽しそうな表情で。

 宛名の下のメッセージ。英語は苦手だ。翻訳サイトで全文を打ち込み、英訳した。

 ―私はあなたの頑張りを知っている。あなたを誇りに思う。すべて大丈夫だ―

 俺でも分かる機械翻訳のぎこちなさ。言葉をなぞって、それらしく変えてみる。

 「『すべてうまくいく』って…なんだよ…」

 

 どんな思いでこのページに友人の絵葉書を挟んだんだ。現実は上手くいかなかったのか。心情とあまりにかけ離れたメッセージを、若い部長は自分自身に言い聞かせたのか。

 俺は現実に向き合えているだろうか…現実が露にする問題に向き合う自信、その問題の原因に自分の存在を置いて、真っ正面で受け止める自信は、今の俺にあるだろうか―

 ―俺は、ど真ん中で受けたい。自分自身の失敗だと理解しているからこそ、まだ勝負したい。同じことはもう、繰り返したくない。

 

 振り返れば、俺の人生、落ち着いてきたなと自覚した頃から、自分のやり方が間違っていないと、悪気もなく思うようになった。成功パターンを掴んだつもりになっていた。

 確かにそれは正しい筈。ただそれは数多あるケースの一つに過ぎなかった。

 俺はそれ一つですべての勝負に挑めると、甘く見ていた。入社から数年の、業務をひたすらこなす平穏かつ退屈な日々くらいならば、それでも通用した。

 だが、新たに与えられる機会は、挑戦させたい人の思いが込められている。その思いと俺の思いは、かけ離れていた。俺のパターンに拘り過ぎて、勝手に自滅してしまった。

 

 一人きりで築くものには限界がある。そう。孤独だったあの頃、手を差し伸べてくれた人がいて、俺は立ち上がれた。境遇に一切触れず、他愛ない話題で一緒に笑ってくれたあいつも…

 「『…すべてうまくいく』って…」

 俺は、絵葉書に残る大事な言葉に気付いた。

 『私はあなたの頑張りを知っている』

 これって…俺のことを部長は見ていたってことなのか?そうでなければ、俺にこんな思いを巡らせるよう仕掛ける理由なんてない。

 俺は間違いなく頑張っていた。その過程で誤りに気付かずこのザマだ。

 だが担当は外されていない。むしろ、致命的なことになる前に部長は俺を叱責し、この本を渡した。

 がむしゃらにやっていた俺と、若き日の自分を重ねた。そんな俺にヒントをくれた。

 これは、部長から俺へのメッセージだ。

 お前のことはよく分かっていると。そして正解は、お前自身で探せ、と。

 俺の正解は誰にも探せない。上手くいかないと感じた俺自身にしか、正解へと続く道程は描けない。

 そしてその道程にはきっと、俺を気遣ってくれる人がいるんだ。

 

 あいつの電話番号、変わっていないかな。アドレス帳の懐かしい名前をタップした。

 「何?久し振り。どうしたよ?」

 変わらない調子で話しかける声に、不意にホッとして言葉に詰まった。今はもう社会人らしい話題になったけど、楽しかったよ。嬉しかったよ…

 

 今までどれだけスマホばかり見ていたのか。いつもの駅が、街の息吹が、目の前に広がる風景が、こんなに違って見えるなんて。朝の忙しない、帰宅際の安堵した人々のその姿と自分自身とを、こんなに重ねられるなんて。

 着こなせていない濃紺のリクルートスーツ。クリアファイル越しに何かを確認しながら、周りに気付かれないよう、彼女は僅かに口を動かせ復唱している。

 人の圧で悲鳴を上げるように、ドアが開いた。「頑張って」ふと笑みをこぼして、雑踏の波に乗り改札を抜けた。

 きっと『すべてうまくいく』。流されるまま、飲み込まれるままではない。自分の意志で乗りこなしたい次の波へと、俺は漕ぎだしていく。


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