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[小説 23時14分大宮発桜木町行(6)]カメレオン・ライフ

 「久し振りだな…」

 ソフトに刈り上げたツーブロックの黒髪とネクタイ姿でこの駅に降り立つ俺を、あの頃の俺が想像できただろうか。隙なくカチッとヘアセットをキメてしまう。当時身につけた、有用だけれど色々詮索されかねない面倒な習慣でもある。

 「困ったな…」

 中央改札を抜け、広いコンコース一杯に行き来する人を軽快に避けて、東口の長いエスカレーターに乗り込んだ。

 「はぁぁ…」

 新たな開発現場の住所を目にした二週間前。そこだけは勘弁してくれとどれだけ言いたかったか。しかし、経験の浅い俺に多くの選択肢はない。それにここ三年の俺自身の頑張りを、過去の俺に邪魔されたくもない。

 とは言え、偶然であっても知り合いに出くわすのは何とも気まずい。

 俺だと分かった時、彼らはどう思うのだろうか。そして俺はその時、彼らに侮蔑を含んだ表情を向けてしまわないだろうか。

 初出社の待ち合わせ時間にはまだ早い。目的のビルへの近道が狭い路地なのは知っている。だが俺はできる限り人に紛れるよう、市役所通りを選んで遠回りした。

 朝の8時台。オーラスに付き合わされ、店奥の色褪せた赤いソファーでぐったりと夜を明かした、寝惚け眼のリョーダイと出くわさないだろうか。

 いや、アイツだけには会ってもいいか。もっとヤバい先輩に遭遇するより、まだいい。もしもアイツに会えたなら、夕飯ぐらい偉そうに奢って、言ってやりたい。

 まだ俺ら、若いぜ。若いうちなら、まだ別の道も選べるんだ。

 「…大したご身分気取ってるわ、フッ」

 ここか。今日から俺がプログラマーとして参画するプロジェクトのビルは。予定より七分程度早くフロアに着きそうだ。
 エレベーターのドアが閉まり、ネクタイを整えながら俺は呟いた。

 今の俺が感じていることがリョーダイにとってのベストな選択だなんて、思い上がりもいいところだ。アイツ自身が水商売の世界を好きだと、少なくともマシだともしも思うのならば、俺のこんな説教臭いセリフは失敬極まりない。数年間育ててもらった業界に対しても、だ。

 単純に俺は、あの業界で生き抜き、三十、四十と歳を取っていくのはムリだと思った。だから俺は辞めて、専門学校で勉強し直し転職した。そしてリョーダイは残った。

 

 俺はキャバクラボーイだった。十八から二十三まで五年弱、川崎駅東口で夜な夜な客引きをしていた。

 高校の卒業式当日の午後、俺は機上の人となっていた。
 全てが長い間の計画通りに進んでいた。向かう先で何をやるかが決まっていないことだけを除けば。

 何をするとも言わないまま家を出た。父は頑張れよと多くを語らず、母は柔和な笑顔で新居を決めるだけの最低限の額を俺の口座に振り込んだことを伝えて、そっと背中を押してくれた。

 「明日からはあんたの人生、思い通りにやりなさい」

 

 高校は割と楽しく過ごしていた。お決まりの連れとちゃらんぽらんなバカ騒ぎばかりで勉強はさっぱりの「ちゃーならん」ヤツだった。あの日までは。

 十八歳になりたての九月初め。彼女を親友に寝取られた。しかも二人とも同じクラス。なんなんだよ、俺居場所ねぇじゃねーか。

 狭い世界。地元にいれば嫌でも顔を合わせることになる。学校どころか日常いつアイツらと出くわすか分からない。実家とアルバイト先のアメリカンダイナーだけが、俺の心を落ち着かせてくれた。

 その頃だ。この街を出ようと決めたのは。

 「こっから飛び出してみたら、大賀?」

 モヤモヤした表情の俺に、バイト先のオーナーが掛けた言葉。オーナーも大学進学で上京し、そこで考え方の幅が広まったと言う。

 だが、高校が紹介してくれる筈の就職先さえ担任が頭を悩ませる俺に、此処を出てまでして何ができるのだろう。無論、進学なんて選択肢はない。そもそも俺、もう勉強したくないし。でも専門学校だったら…おい、この先もまだ親に負担を負わせるのか。

 将来のイメージが全く湧いてこない。いつまでも仲間と笑い合う学生のままでいられるものだと思っていたから。
 周りの奴らは次々と就職先を決めて地に足を着けようとしていた。一方俺は、具体的な希望をまだ見いだせていなかった。

 俺に何ができるのか。それを探しに東京に出ようと決めた。選択肢を多くしたかった。

 

 蒲田の不動産屋の前で立ちつくし、口座の残高を見てため息。羽田に降り立った瞬間に満ち満ちた高揚感からのこの落差たるや。こんなに家賃高いのか。ホテル住まいを続けたらとても金がもたない。できる限りすぐに住める場所を決めたい。予算と条件を伝えてその不動産店で何時間も粘った。内見に至ることさえできずに。

 「激安ですが環境がちょっと…」

 痺れを切らせた俺は、内見もせずそこに決めた。川崎駅の東口からすぐの場所で今日中に鍵がもらえる。安堵ってこういうこと。

 印刷してもらった地図を頼りに辿り着いた十二階建てのマンションに着いた…写真では全く伝わらない陰鬱とした雰囲気が、エレベーターホールへ入った途端に漂っている。このマンションの五階。エレベーターを出ると転落するかと錯覚するほどの狭い踊り場。

 しまったと思ってももう遅い。後にスマホで調べると、このマンション自体が事故物件だった。部屋自体はとても小綺麗で気に入ったので、よしとするしかなかった。

 駅近くのホームセンターで買った布団を引き摺るように抱えて帰る十九時半過ぎ。執拗に迫る客引きの男達をすり抜けた先に出会ったのは、後に先輩ボーイになるユーマ。俺の風貌を見て何故か訳アリと感じたそうだ。しばらく立ち話をした末、良ければ明日の十四時に面接をと名刺を渡された。

 部屋に戻った俺。ここはなんちゅう場所だと疲弊した。だが貰った名刺を見てスマホで検索してみて、この波に乗るのもアリかなと思い始めていた。

 

 翌日十七時前、俺は店で借りた体形に合わないダボっとした黒いスーツに身を包んでいた。店長とユーマに上手く乗せられ、即決で俺はこの店に就職した。

 開店は十八時、二十八時閉店のお触り自由(イタすのはNG)のキャバクラ。ボーイの給料は固定給プラス連れてきた客数と顧客からの売上を基にした成果報酬。

 店内は結構広く、主役のキャバクラ嬢だけでなくボーイも結構いた。後に知るが割と評判の良い店だったらしい。
 新規もリピーターも多く、俺の知らない光景や人間模様で満ちていた。面白さとしんどさが交錯する渦の中で目まぐるしく時は過ぎていく。折角稼いでも使う暇もなく、帰ると泥のように眠った。

 ボーイ内には派閥めいたグループが存在する。俺は成り行き上ユーマの一派となった。

 客前では一切おくびに出さないが、グループ同士で売上に絡む競争や多少の揉め事もあった。そもそもグループに入ったつもりのない俺は、ほとほと面倒だと冷めていた。

 ピリッとした寒さが堪える二度目の一月末。自前でお気に入りの細身の三つ揃えと、シルバーアッシュの長髪も板についてきた。
 閉店後ゴミを片そうと裏口を出ると、リョーダイが店の壁にもたれ、ウンザリだと語る表情でKOOLをふかしていた。

 高校を中退した年下で先輩のリョーダイ。ユーマのグループと対立しているシモンのグループに属している。そのせいで、まともに話すことは一度もないのに、何故かいつも俺に敵対心剥き出しの視線を向けている。
 俺はまぁそんなもんかと、受け流し続けていた。

 その日もいつも通り、形ばかりのお疲れを口にして通り過ぎる筈だった。
 だがリョーダイの切れた口元を目にした途端、声を掛けないという選択肢はなくなった。

 「えっなんだよ…血出てるじゃないか!」

 「…あっ、タイガ…タイガさん…シモンさんにちょっと…」

 なんでも、客対応でのミス(灰皿交換のタイミングが悪いこと)に対する罰金だと一万円をせしめられたとのこと。拒否したところ頬を一発殴られ、よろめいた瞬間にみぞおちに膝蹴りされて、床でうずくまる身体を尖った靴で幾度も蹴られたと。彼は苦笑した。

 「言いがかりもいいとこっすよ。彼女とケンカして機嫌が悪かったからって…」

 俺もアメスピに火をつけて、彼の言い分をただ聞き続けた。
 ビルとビルとの狭い隙間を覗くと点々と星が見える。寒空に向けてわざと唇を尖らせて煙をフーッと吐き出し、俺は言った。

 「今日、俺んち泊まっていかないか?」

 

 「ヤクザと関係あるのか、この店?」

 「いや、それはないみたいっす。単純に人の問題って感じで」

 シモンは半グレ上がりの野心家で、売上も高く仲間意識は異常に強いが、その反動で突然キレて手が出る。過去にも内々で揉み消されたトラブルが何度もあったらしい。

 ルールのあるヤクザより、こういう無法者のほうがよっぽどタチが悪い。

 「こんな目に遭っても、続けるの?」

 「だって俺バカだから、ここしか場所ないじゃないですかぁ」

 リョーダイのプラコップにウォッカとソーダを注ぐと、炭酸の勢いが良すぎて溢れ出した。慌てて大量のティッシュペーパーで床を拭きながら、俺らは笑った。

 「ま、俺もバカだから、ここにいるんかも知れんな…」

 何も考えないまま上京したこと、入ったばかりの頃から思っていたことを彼に話した。ピンクの髪が目立つだけでなく、動線に無駄のないリョーダイの仕事っぷりをずっと凄いと思っていたことを告げた。彼は少し照れた。

 「…なんで、続けようとは思ってます」

 何年も勤めると嫌な面もたくさん見えてくるのは、どこでも一緒だと。

 その決意に何故か俺は、やり切れない感情を抱いたのだろう。

 「…なんくるないさー」

 久し振りにこの言葉を、思わず口走った。

 「タイガさん、なんか優しいっすね…」

 俺は「へっ?」となんともとんまな表情になってしまった。リョーダイは俺を見て、また笑った。

 電話番号は交換したが、互いの身を守るため、その日以降公然と言葉を交わすことは差し控えた。

 俺が店を辞める日のリョーダイは、辞める理由を知っていながら、なんとも言えない寂しげな表情をしていた。

 その日以来、電話もメールもSMSも、やり取りしなくなった。お互いに、敢えて。

 

 川崎通いも二ヶ月経とうとしていた。活動時間帯が違い過ぎるためか、かつての同僚や知り合いには一度も会わずに済んでいる。

 十九時半まで残業。帰宅の人々でこの時間帯も結構混んでいる。ドアからやっとはみ出ずに済む格好で乗り込む。
 もう発車というその瞬間、乗り込んだ若者のグレーのリュックが俺の目の前でドアに挟まった。俺は狭くるしいながらも彼と共にリュックをを引っ張る。リュックはなんとかドアから外れた。

 「すみません、ありがとうございま…っあれっ?もしかして、タイガさん!?」

 「…って、リョーダイ何してんの!?」

 混雑した列車が発車した。顔面距離20センチ程度先にいるのは、シャツの裾を出した紺の作業着のリョーダイ。
 俺同様、髪の色も形もあの頃のチャラさは微塵もないが、目の前のクリっと愛嬌のある眼元で、すぐに彼だと分かった。
 俺んちにたった一晩泊まって語り合った時の人懐っこさが、懐かしい。

 「えっ、学費稼ぎに倉庫で仕事して…」

 「は?何て?ち、ちょっと待って…」

 「っていうか、タイガさんも何で川崎にいるんすか!?」

 

 二人とも乗換駅の東神奈川で改札を出て、餃子をあてに一杯引っ掛けることにした。

 リョーダイは定時制高校への進学を目指して、昨年の八月に店を辞めた。今は物流センターでのアルバイトで学費を稼いでいる。

 従業員の入れ替わりが激しいのは前からだが、リョーダイが辞める半年程前からシモン経由の新入りが増え、キャバ嬢に手を出すなどボーイの質が明らかに悪化した。シモンが仕掛けた挑発にまさかあの温和なユーマが乗ってしまい、覇権争いが露骨に表面化した。

 グループ内のいざこざやボーイの派閥替えでのトラブルが店長でさえも抑え切れない程に増えた。歴が長く一番若いリョーダイは何かと巻き込まれ、ほとほと疲れてしまった。

 「なんか、業界までイヤになって、俺…このままじゃ俺自身もダメになる気がして…」

 まともに話せる数少ない同級生に話を聞くと、その誰からも少なくとも高卒でないと堅い就職先を見つけるのは厳しいと言われた。

 「で、卒業したらどうする?」

 「まだ何も…俺は何になれるのかって…」

 「わぁー、あの時の俺と一緒だー」

 「そうなんっす。あの時の話が、今だとすっごく理解できて…」

 クイッと残りのレモンハイを飲み干して、彼の言葉に深く頷いた。

 「しんどいよな」

 「こんなにしんどいんっすね」

 「でも、そこから逃げなければ、気付けるんじゃないかな…」

 追加注文のボタンを押そうとするリョーダイの指が止まった。

 「タイガさんも逃げなかった?」

 「店を辞めた後のこと?そう言えるのかな…それもまたしんどかったなぁ」

 店に勤めながら日中ハローワークや転職関連サイトで色々調べた上で、俺が可能性に賭けられると思ったのは、IT業界だった。どの教科もレベル1だった俺は、専門学校で一から勉強し直さなければと一念発起した。
 店を辞めたのは入学式の一週間前、そして川崎を離れたのはその二日後だった。

 企業に相手してもらえるだけの資格を最低限取得するために、これまでの人生で経験ないほど勉強した。寝る暇も惜しんで自分自身を追い込んだ。リアルに吐くまで勉強した。

 「うっ…そんなにしないとダメっすか…」

 眉をしかめるリョーダイ。俺は首を横に振って、君はそうならないよと言った。

 「お前のあのホスピタリティ、絶対仕事に活かせるよ。間違いなく武器になる。開き直ってネタにしたら?」

 「またまたぁー。そんな持ち上げてぇー」

 あの時の、あの照れた笑顔が今、目の前にあった。
 俺は嬉しかった。その笑顔はあの時よりもずっと大人で、ずっと精悍だ。

 「明日も仕事っすよね」

 「うん。でも基本カレンダー通り休めるからいいよ。給料まだ低いけど」

 「俺は明日夜勤で」

 「シフト大変だな」

 そこも仕事選びの条件になるねと言いながら、俺は会計レシートを掴んだ。

 

 「ははっ。久し振りに飲んだら、ちょっと酔っちゃいました。歳取りましたぁ」

 赤ら顔のリョーダイと駅に向かいながら、おいおいまだ二十ちょっとでそんなこと言うなよと窘めた。

 まだ俺ら、若いぜ。若いうちなら、まだ別の道も選べるんだ。

 そう、俺らは変わっていく。その気にさえなれば、何者にだって変わっていける。俺も亮大も、まだその途中なのだろう。

 鴨居駅のホームに降りた亮大が、ドアが閉じ電車が動き出しても、俺が見えなくなるまで手を振っている。

 俺はドアにもたれ、五年弱振りに亮大のアカウントに今晩の礼を送信した。すぐに返信が来て、俺はクスっと笑って目を閉じた。


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